備陽史探訪:170号」より

種本 実

三枚橋

連載「川筋を訪ねて」その一

福山市内には芦田川をはじめ、大小さまざまな川が流れている。それらの川筋を辿ってゆくと、古い橋や石碑など歴史の証に出会うことが多い。そんな一こまを綴ってみたい。

城下町福山の絵図を開くと、北方から東に流れ、入川にそそぐ吉津川が大きく描かれていて、橋が二本見える。現在川の名は「蓮池川」に変わったが、二本の橋は姿を変えて残っている。胡町から吉津町に架かっているのは「土橋」で、現在ではコンクリート製となっている。

三吉町から東深津町に通じているのが「三枚橋」である。福山志料には「土橋ナリ、三吉村ノ界溜池ニアリ、」と記されてある。明治の終わりまでは木を渡した上に土を被せた橋で、木が朽ちるごとに架け替えていた。そんな土橋を、明治の終わりに石橋に改築したのは地元の佐藤吉助氏であった。

氏は、農業の傍ら三和土の製造販売を家業としていた。三和土は農家において、土間の地下に設えた芋の貯蔵庫や、田畑の隅に掘った下肥のツボなどの製造に広く需要があって、近郊への販売で多くの財を成したという。

家業で得た多くの財は、広く社会に還元することを信念としていた吉助氏は、明治末期に八百円もの私費をもって、本の橋を石造りに架け替えたのであった。

橋の通りは、昭和三十六年までは国道二号線であったから老朽化がすすみ、昭和六十三年に現在の橋に改修された。その時の工事費が約八千万円であったそうだが、明治末期の改築にも、同程度の工事費を要したのではないだろうか。

今、三枚橋の下流は水辺公園となり、吉助氏の広く社会功績を顕彰する石碑と、改修前の橋の一部を見ることができる。石碑の象額と撰文は当時の深安郡長・吉田弘蔵である。また現在の親柱に刻まれた橋の名文字は、吉助氏の曾孫の筆である。藩政時代の橋は反り橋であり、舟が城下まで上っていた。そんな歴史を静かな川面は知っているだろうか。

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