2011年02月01日

神辺平野の条里制地名(地割と名残)

備陽史探訪:158号」より

根岸 尚克

神辺平野の初見は荘園時代に入ってからで、高富荘・川北荘・石成荘がある。そしてその中に古代条里制の名を引き継いだ中条庄。安那東条(岡崎門跡領)がある。条里制とは、古代に行われた耕地の地割の制で、朝鮮を経て輸入された中国の阡陌(せんぱく)(開拓)の法が始まりで、土地の分配と用水路に便利な様にする爲の方法で、之により湿地水田から乾地帯水田農業に移った。始まりは大化改新の際に始まったという説と、それ以前に始まったという説がある。

地割の方法

三六町(三九二四平方メートル)四方の地を六町(六五四平方メートル)四方に区分する。(縦方向に一条・二条―六条と言う。横方向に一里・二里―六里と言う。即ち一条一里から六条六里迄一町四方の土地が三六区画ある訳である)。更に条理で区分されたものを三六区画に分ける。即ち一町(一〇九平方メートル)四方に区切って之を坪と言う。三条五里三十坪等と呼ぶ。条を図、里を坊と呼ぶ事もある。条も東から一条・二条と言う場合も、西から同様に言う事もある。坪は東又は西の北の端から一―六坪と縦方向に呼んで行き、更に北から七―十二坪と呼んで行き最後の南の端が三六坪となる。之を平行式坪並と言う。同じく北の端から一―六坪と縦方向に呼んで行くが次の七坪から南から北へ七―十二坪と呼んで行き、最後は南から北へ三一―三六坪となる。之を千鳥式坪並と言う。

更に坪を地割りする。一町は六十歩であるが、南北に三十歩づつ二等分する。そして東西に十二歩に五等分する。之を半折形或は色紙形と言う。もう一つの方法は、縦に六歩幅で区分する。之を長地形或は短冊形と言い、区分された場所を段という。いづれの形でも一区画は三百六十歩である。

ところで、条理の呼び方であるが、真野条、七成相里の如く地名による場合もある。神辺平野の場合はどうだろうか。安那東条と、現在も条里制の地名と思われる中条を合せ考える時、更に西条の存在が当然考えられる。即ち神辺平野には三ヵ所に条里制の土地があった。そして、亀山遺跡のある辺りを「道の上」というが之は「西の条(にしのじょう)」の変化したものと考えられる。ニシノジョウと仮名で書かれていたものをニシノ上と書きウエと読み、ニシノ上では意味が分らなくなってニシを道(みち)と読んだものと思われる。

ある郡の内に複数の条理遺跡がある場所としては、摂津国河辺郡に「南条・北条」に分かれる遺跡があり、その間に無条理地帯が残っている。条里制による地割りで余りが出た土地を余条帯或は無条理帯という。

神辺平野に残る条里制の地名

平野・合の坪。
上竹田・大坪 五反田。
湯野・大坪 三反田 四反田 六反田 九反田。
徳田・五反田。
東中条・惣の坪 沖の坪 中の坪 五反田。
西中条・猪の坪 正が坪 六反田。
三谷・石が坪 中の坪 四反田。
(反は段に同じ)(神辺町史による)加茂町中野には古代の銅精錬設備との複合地名と考えられる「湯壺」の地名が残る。

黄葉山より平野方面を望む

黄葉山より平野方面を望む