戸出用水と「石塔さん」(信岡祐義の頌徳碑)

備陽史探訪:156号」より

田口 由実

大佐山の西麓に澄んだ水を湛えた場所がある。湧水=清水と呼ばれるこの湧き水を源とする戸手用水は、ここから神谷川と並行して南下し、戸手の境あたりから素蓋鳴神社(通称・天王さん)の方へと流れを変える。しばらく暗渠が続き、やがて天王さんの北側に、ぽっかりと口を開ける。

以前より水量が落ちたとはいえ、透明度を保った水中には水草がなびき、小魚が群れ泳ぐ。水路の流れに目を注ぐだけでも心が和らいでくるが、やはりこの水路のある風景に包まれる安心感は格別だ。そこには、この町が刻んできた時の重みと、土地と共に生きていくことの確かさがある。

水路は、天王さんの北沿いに進み、線路を越えたところで袂を分かつ。本流はそのまま進み、かつての戸手村を貫き、芦田川へと注ぐ。左へ折れる支流は、昭和四十年代頃まで、中池へと流れ込み貯水されていたそうだ。

戸手用水は、江戸時代より、早魃で他の村が干上がった時で滔々と水を湛え、村の稲田を潤してきた。

この水路を、人々は「鍬一筋の溝」と呼び、今なお地元の誇りとしている。

この大事業を私財を投じて取り組んだのが、戸手の庄屋・信岡祐義(通称・平六)である。「寛容をもつて衆を率いる」人として、生涯、村人から信頼が厚かったという。

平六は宝暦六年(一七五六)戸手村に生まれ、明和六年(一七六九)病死した父の跡を継ぎ、十五歳で戸手村の庄屋となる。そして、寛政二年(一七九〇)福山藩ご用達となるのだが、当時は、米の生産量の確保が農村の宿命であり、特に灌漑には大きな努力が払われた。平六も天変地異が続き幾度も飢饉に見舞われた時代を過ごしてきた庄屋として、稲作の生命線ともいえる水の確保に奔走することとなる。

それ以前にも戸手村には用水路があったが、村の稲田を充分潤せるほどの水量はなく、水争いが絶えなかった。平六は寛政四年には用水普請願いを幕府に出し、同十二年に戸手村用水の開削に着手する。

用水路の延長距離一、四一四間(約二・六一五キロ)作業人員約二万人、日当二匁二分の時代に総費用六六貫二八九匁。完成したのは、天保四年(一八三三)平六が没してから六年後のことで、実に三十九年の歳月が費やされた。

この通水により恩恵を請ける田は三五町歩(約三十五ヘクタール)増加し、天保十年の早魃には、他郷の水は涸れてしまったが、戸手村の水源は滔々と湧き出て、田を潤したという。

戸手村の人たちの安堵と感謝は、どれほどのものだったろうか。村人たちは平六の功を讚えるために、案を出しあった。ひとつは、農民総出で菩提寺に参詣し、当日は有徳を偲び休日とする。ひとつは、代表者が当家の墓前に参詣し、有徳を偲び休日とする。これらを信岡家に願い出るが辞退され、また仏前の参詣では後世に永く伝わらないのではないかということになった。

そこで、村人は、天保十年(一八三九)七回忌にあたって、なめら谷より運んだ石材で頌徳碑を建立した。明治三十七年に現在の場所に柵を巡らせ、昭和五十年には石塔大修復工事。そして、今もなお、村正信岡祐義の頌徳碑は「石塔さん」として地元の人に尊崇されている。

村正信岡祐義碑

二〇〇八年九月七日に執り行われた一八〇年忌法要に、縁あって出席させていただいた。

法要には信岡家の方をはじめ、戸手の人たちなど約六十名が参列。その後の講演会から、お斎(とき)に至るまで、終始感じたことは、戸手の人たちの、その土地に住み暮らしている確固たる自信や豊かさのようなものだろうか。彼らの郷土に対する熱さに、そして強さに、ただ圧倒される思いであった。

信岡平六の家は、代々受け継がれ、今も居宅とされているが、二〇〇八年三月に国の登録文化財の指定となった。江戸時代後期から昭和にかけて建てられた八つの建造物が、良い状態で残っている。(主屋・東の蔵・西の蔵・炭小屋・茶室及び腰掛・井戸屋形・中門及び塀・長屋門)内部は一般公開はされていないが、今なお地元の人から景仰され、江戸時代から地域の歴史を背負ってきた家である。福山市の文化財産として、積極的な保存を望みたいところだ。先人たちから託されたものを受け継ぎ、次世代に伝えるのは、今を生きる私たちの務めである。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/98df6d8292c4e81032c84872524c26c2.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/98df6d8292c4e81032c84872524c26c2-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:156号」より 田口 由実 大佐山の西麓に澄んだ水を湛えた場所がある。湧水=清水と呼ばれるこの湧き水を源とする戸手用水は、ここから神谷川と並行して南下し、戸手の境あたりから素蓋鳴神社(通称・天王さん)の方へと流れを変える。しばらく暗渠が続き、やがて天王さんの北側に、ぽっかりと口を開ける。 以前より水量が落ちたとはいえ、透明度を保った水中には水草がなびき、小魚が群れ泳ぐ。水路の流れに目を注ぐだけでも心が和らいでくるが、やはりこの水路のある風景に包まれる安心感は格別だ。そこには、この町が刻んできた時の重みと、土地と共に生きていくことの確かさがある。 水路は、天王さんの北沿いに進み、線路を越えたところで袂を分かつ。本流はそのまま進み、かつての戸手村を貫き、芦田川へと注ぐ。左へ折れる支流は、昭和四十年代頃まで、中池へと流れ込み貯水されていたそうだ。 戸手用水は、江戸時代より、早魃で他の村が干上がった時で滔々と水を湛え、村の稲田を潤してきた。 この水路を、人々は「鍬一筋の溝」と呼び、今なお地元の誇りとしている。 この大事業を私財を投じて取り組んだのが、戸手の庄屋・信岡祐義(通称・平六)である。「寛容をもつて衆を率いる」人として、生涯、村人から信頼が厚かったという。 平六は宝暦六年(一七五六)戸手村に生まれ、明和六年(一七六九)病死した父の跡を継ぎ、十五歳で戸手村の庄屋となる。そして、寛政二年(一七九〇)福山藩ご用達となるのだが、当時は、米の生産量の確保が農村の宿命であり、特に灌漑には大きな努力が払われた。平六も天変地異が続き幾度も飢饉に見舞われた時代を過ごしてきた庄屋として、稲作の生命線ともいえる水の確保に奔走することとなる。 それ以前にも戸手村には用水路があったが、村の稲田を充分潤せるほどの水量はなく、水争いが絶えなかった。平六は寛政四年には用水普請願いを幕府に出し、同十二年に戸手村用水の開削に着手する。 用水路の延長距離一、四一四間(約二・六一五キロ)作業人員約二万人、日当二匁二分の時代に総費用六六貫二八九匁。完成したのは、天保四年(一八三三)平六が没してから六年後のことで、実に三十九年の歳月が費やされた。 この通水により恩恵を請ける田は三五町歩(約三十五ヘクタール)増加し、天保十年の早魃には、他郷の水は涸れてしまったが、戸手村の水源は滔々と湧き出て、田を潤したという。 戸手村の人たちの安堵と感謝は、どれほどのものだったろうか。村人たちは平六の功を讚えるために、案を出しあった。ひとつは、農民総出で菩提寺に参詣し、当日は有徳を偲び休日とする。ひとつは、代表者が当家の墓前に参詣し、有徳を偲び休日とする。これらを信岡家に願い出るが辞退され、また仏前の参詣では後世に永く伝わらないのではないかということになった。 そこで、村人は、天保十年(一八三九)七回忌にあたって、なめら谷より運んだ石材で頌徳碑を建立した。明治三十七年に現在の場所に柵を巡らせ、昭和五十年には石塔大修復工事。そして、今もなお、村正信岡祐義の頌徳碑は「石塔さん」として地元の人に尊崇されている。 二〇〇八年九月七日に執り行われた一八〇年忌法要に、縁あって出席させていただいた。 法要には信岡家の方をはじめ、戸手の人たちなど約六十名が参列。その後の講演会から、お斎(とき)に至るまで、終始感じたことは、戸手の人たちの、その土地に住み暮らしている確固たる自信や豊かさのようなものだろうか。彼らの郷土に対する熱さに、そして強さに、ただ圧倒される思いであった。 信岡平六の家は、代々受け継がれ、今も居宅とされているが、二〇〇八年三月に国の登録文化財の指定となった。江戸時代後期から昭和にかけて建てられた八つの建造物が、良い状態で残っている。(主屋・東の蔵・西の蔵・炭小屋・茶室及び腰掛・井戸屋形・中門及び塀・長屋門)内部は一般公開はされていないが、今なお地元の人から景仰され、江戸時代から地域の歴史を背負ってきた家である。福山市の文化財産として、積極的な保存を望みたいところだ。先人たちから託されたものを受け継ぎ、次世代に伝えるのは、今を生きる私たちの務めである。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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