密書(弐)(毛利元康宛毛利輝元書状)

備陽史探訪:156号」より

小林 定市

前号百五十五号の続き

毛利輝元からの密書について

慶長四年間三月三日、五大老の筆頭と目されてきた前田利家の死が導火線となり、加藤清正や福嶋正則等武断派の七将による石田三成襲撃計画が露見。襲撃の企てを察知した三成は、佐竹義宣に助力を要請し、義宣に警護され伏見の三成の下屋敷に逃れた。

異説として、三成は伏見城の冶部少輔丸という曲輪に逃れたとの学説もある。しかし、輝元の書状には「下屋敷」と書かれており、曲輪の記載は見当たらない。

閏三月十日家康は三成の安全を保障(『浅野家文書」一一〇)して近江の佐和山城へ送り出した。三日後の十三日、家康は突然伏見城に入ってくると、家康の従者堀尾吉晴は強引にも有無を言わさず、五奉行の一人前田玄以から城の鍵を奪い取り入城。家康はその後堀尾吉晴に、功労として越中府中で新たに五万石を与えた。

家康は秀吉が築いた伏見城を強制接収といったやり方で奪取したと伝えられており、三成が伏見城の冶部少輔丸に逃れたとする説には疑間が残る。

次の書状は五大老の一人毛利輝元が、福山市神辺町の神辺城主毛利元康宛に送った書状。

毛利元康宛毛利輝元自筆書状

〔読み下し文〕(年月無記載)

(端裏書)「元康 まいる 右馬」面むきあつかい之事、いまた澄まず候、増右(増田長盛)冶少(石田三成)より申される分ニハ、景勝(上杉)・我等(毛利輝元)覚悟次第、何に分ニも相定むべきとの儀ニ候条、景勝と申し談じ候而異見申し候、分別有るべき哉と存知候、趣申すべく候。

一、夕部禅高(山名豊國)越され候てかたり申され候、内府(徳川家康)入魂(懇意)ハ大かたにあらず候、其の上に於いても神文等をとりかハし候様ニとの申される事ニ。弥異儀無く候。御心安かるべく候。

一、下やしき(京都伏見にあった石田三成の下屋敷)へ罷り下り候と聞こえ候ハゝ、尤も然るべく申されたる由ニ候間、弥相尋ねるべきと申す事ニ候。一段然るべくと申され様と聞こえ申し候。先々之あれまハリ候物、気ニ少しもあい申さず、又そこ用心ニ聞こえ候。御賢慮の前ニ候ゝゝ。趣追々申すべく候。

一、御気分ハ然るべきの由、肝心ニ候。尚以って御緩み有るべからず候。夕部もそとハさわきたる由ニ候。禅高とよなかまてかたり候て不為にゝゝ、早々しつまり申し候様ニと申す事ニ候。
          かしく

慶長四年間二月七日頃と推定(『山口県史』中世三、厚狭毛利家文書四十三、平成十六年出版)

輝元が、七将対石田三成の対立間題解決の話合いを進めていた際中、三成と増田長盛より、上杉景勝と輝元に解決を任せるとの申し出があったので、景勝と相談して紛争解決に介入した。

是までに、輝元の書状に登場した人物を色分けすると、「徳川家康と七将」対「石田三成・上杉景勝・毛利輝元」といった、関ケ原の合戦の時と同じ武将の対立図式が早くも見られる。

第一条は、先日安國寺恵瓊が提案してきた、秀吉のお伽衆であった山名豊國「禅高」と相国寺の禅僧西笑承兌「兌長老」を以って進めていた話合いが進み昨夜禅高が輝元を訪ねてきた。

その際家康側から輝元とは入魂であるからとして、起請文を取交わそうと提案をしてきたと報じている。次に記載する文書は、輝元と家康が十数日後に取交わしたと推定できる起請文。

慶長四年、毛利輝元起請文案

今度天下の儀、各申し分御座候處、我等事(欠字)秀頼様の御儀疎意ニ存ぜらるの旨申し入れの通り、聞こし召さるの分、重畳御懇意の段、誠ニ以って過分ニ存じ候。然る上は、向後如何様の儀出来候共、貴殿に対し奉り、表裏の別心無く、父兄の思いを成し、貴意を得べく候、恐れ乍御同意ニ於いては悉くべく候、我等の儀無ニの心底ニ候。若し此の旨偽りを申すニ於いては、……自然又讒人の族之在るニ於いてハ、御糺明を遂げられ、仰せ聞かされ候ハゝ別而満足たるべく候。此の由御意を得候。恐慢敬白。
(慶長四年)閏三月廿一日   輝元
   家康様

(『毛利家文書」一〇一六)

慶長四年、徳川家康起請文

今度天下の儀、各申し分之在る處(欠字)秀頼様ニ対せられ、御疎略無くの通り、尤ニ候、然る上は、向後如何様の儀出来候共、貴殿ニ対し表裏の別心無く、兄弟の如く申し承るべく候。若し此の旨偽りを申すニ於いては、梵天、帝釈、四大天王、惣日本國中大小神祗、八幡大菩薩、春日大明神、愛宕白山大権現、富士大権現の御罰を罷り蒙るべく候。自然又讒人の族之在るニ於いてハ、互いニ純明を申し究むべく候。
            恐々謹言。
(慶長四年)閏三月廿一日 家康(花押)
   安芸中納言殿

(『毛利家文書」一〇一七)

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