2008年12月04日

鍋蓋と串山(東深津町・引野町に残る地名の語源について)

備陽史探訪:145号」より

根岸 尚克

福山市東深津町に鍋蓋という交差点に名が残る地名がある。引野町の天神社の西隣一帯に串山という大きな団地がある。こちらに串山団地完成記念の石碑が建っている。以前からこの二つの語源を知りたかったので調べてみた。

鍋蓋

東深津町の一角に鍋蓋という面白い地名が残っている。交差点もある。備陽六郡志には

鍋蓋、笠岡街道の北に小さき薮有り、其内に荒神の社有り此の邊寛文(一六六一~七三)の頃迄大沼なりけるが、如何なる大水にても此薮計、汁鍋などの蓋の如く浮き上がりて水のつく事なかりける故に名付しとなり

とある。寛文年間は此の辺は干拓が終り一面原野で一部に沼があったのであろう。恐らく此の茂みはいわゆる浮島になっていたのだろう。

之は当初は「野辺端(のべはた)」だったと思われる。端は端(はし)の事である。この辺りが干拓されて野原となった所が終る辺りで、西には丘がある。丘の端は「宮の端」という。野辺端が終って宮の端が現れる。この丘は、

備後 深津島山 暫時(しましくも) 君が目見ねば苦しかりけり

と読まれた深津島山にも比定される農試、旧共済病院、暁の星学園、県営住宅等がある広大な丘陵地帯の東の端で、三島神社等二、三の社が建っている。「宮の端」とは良くいったものである。

引野

「低野(ひくの)」から変化したといわれる。高い所から見れば、低い丘が連なっていて、「低野」というのはもっともな事である。

あつさ弓 引野のつつら末つひに わがおもふ人にことのしけらむ(古今集読人不知)

くるとても 人はしらしな忍ひたつ 引野のつゝら すえやたのまむ(続松葉集)

「地吹(じびき)」も同様な語源で「地低(ぢひく)」から変化したと言われる。一説には福山城築城の折、この辺りで瓦を作ったので、この呼び名が付いたという。

串山

朝鮮語の「こす」で「岬」の意。海に突出しているとは限らない。地図を見ると、串山・小串・串岡・串崎等「串」の付く地名が見出される。福山では引野町の「串山団地」が代表的なものであろう。現地に行くと岡の一帯が団地になっていて、南端がせり出した地形で、串山と呼ばれたことがよく分かる。又、此の岡には「櫛山城」という山城があった。

櫛山城と城主藤原朝臣諸房

櫛山城主諸房、師房、又室房と書いて字慥かならず。いつの頃の人にや時代相不知。則諸房殿という社有。九月朔より二日毎年是を祭る。以前は天神の境内に此の社有けるが、近き頃より民家の上に移し侍る(備陽六郡志)

諸房明神、櫛山にあり、祭神櫛山の城主諸房と言う。或は室房に作る。今按に藤原朝臣諸房、元慶年中(八七七~八四)備後の守たり。或は恵政ありてここに祀られしや。然れ共当時の大守府外に城居すべからず、いぶかし。又諸房池有り(福山志料)

串山城、備後古城記に城主諸房と有り(福山志料)

引野天神社探訪

麓から石段を百段程上がると天神社がある。裏には池も残っている。天神社に並んで諸房神社があり、建立の由来を書いた説明板がある。

備後守従五位下藤原諸房、貞観十五(八七三)年備後国守、当時この地は天変地災打ち続き、疲労困憊の極みに達していた。之を救う為、備後南部の困窮者に一カ年の貢租額を給付し、備後権介、介を督励し之の救済に当る。又、海賊を打ち払う為、沿岸各地に砦を築き、海賊船を撃退する(串山砦もこの一つか)。元慶八(九四五)年任終えて帰国後村人その徳を仰ぎ偉業を追慕し天神社のかたわらに社を創建しその徳を神として奉斉する