備陽史探訪:137号」より

根岸 尚克

巖山大悲閣

北消防署前の土手道を東に行くと、山側に天然記念物の福山断層の露頭が見え、少し先に、蔵王山の登り口となっている小道があり、岩山観音堂が見える。水野勝成が水野家菩提寺として、七堂伽藍を建てんとした故地である。

水野勝成は、父忠重の菩提寺として賢忠寺(瑞源院勇心賢忠に因む)、母の菩提寺として妙連寺を建て、水野家の菩提寺として七堂伽藍を建てんと、市村綱木深津の岩山の麓迄をその地と定め、江戸表にも届を出し、開山の僧に蠻江禅師を呼ぶ。

曇江豊後の自杵より其請に応じ海に航し来て、日向守殿美作守殿直に御城江被請御対面有之候。曇江当分吉津総光寺に被差置候

(弘宗寺由来之事)

その地を見られしに、山下に深き谷川あれとて唐土曹渓六祖之事によりて山号を曹渓寺号を弘宗と予め名付く。程なく島原の陣あり、その後勝成勝俊勝貞三候続いて卒去ありし故岩山の経営はさた止みとなった。

唐土曹渓六祖之事 曹洞宗の中国での開祖達磨大師より六祖慧能が曹渓に法を伝え、その六世の法孫良价が洞山にあって道を広めたので、曹洞宗という。賢忠寺は曹洞宗。

水野家は男は禅宗、女は浄土宗だった。勝種の実母と祖母の墓は、東町洞林寺にあり、勝成の妻お珊の方、嫡子勝俊の母お登久の方の墓は、西町定福寺にあり、いずれも浄土宗である。

その後、

石逕斜にして樹木鬱々たる所に、隠遁者庸徹という者庵を結て一如庵と名付、賢忠寺和尚を開基とし、岩窟に観音を安んじ閣上朱紺を彩り象鼻龍頭を乗せ、荘厳美を盡せり。遠く四州の地を望みて夜灯を点し、海路の冥間を照らし、梵鐘を撃って村里の長夢を覚し、書誦夜禅の霊場にして、また欝散遊戯の佳境なり。然し庸徹が没して後段々衰廃し、一如庵も住人なく狐狸の棲家となり。観音閣も夢破れて蝙蝠ならでは窟中に出入りする者も無く、鐘楼倒れて釣鐘谷に転び、常灯長く消えて石灯籠空しく立てり。享保中に賢忠寺玉峯和尚、衰廃せる事を嘆いて、件の岩窟上に薬師を安し、下には弁天を安ず。別に観音堂一宇を建て、昔時一如庵の十か一を残され侍る

(備陽六郡志)

当初堂宇もある程度出来上がっていて、庸徹はそれを利用したものと考えられる。梵鐘には

元禄五季歳次壬申大呂佛成道日 一如庵主 庸徹 平尾興平次正則鐫文字 賢忠鯨覺海誌

とあり、正徳の頃迄在ったが割れて無くなった。銘も分かっているが長いので略す。

常夜燈も

観音堂の前に在り、正徳の頃迄勧進して燃しけるが、其の後燃す人もなくて燈籠空しく立てり。銘有 俊峰宗清居士者、居備之後州深津郡沼田新開狐崎、俗名曰細見七郎右衛門直満也、延宝九年酉二月念二日無病而現病、奄然棄世実、其妹竹屋悟節信女、命石工彫剋一如庵常灯籠之臺盤柱石、以追修亡兄宗清居士冥福。 天和三初癸亥冬十一月甘二日 竹屋悟節信女立之 一如庵主道高庸徹書

細見七郎右衛門ハ水野家の居物切なりけるが、晩年に及びて、千人切の供養を思い、禄を辞して市村狐崎という所に居住し、間もなく死す。石地蔵 享保三戊成之春、地蔵菩薩甘四所於定む。諸人順禮す。當山其敷也。化主 立譽巻正全

享保九年には半鐘も出来た。銘は略す。護國山賢忠寺現住 鏡大専誌とある。

岩山観音堂探訪記 岩窟を背後に観音堂が立つ。昭和四十乙巳年修繕と書かれた板が打ち付けてある。堂を巡る回廊左奥に、地蔵菩薩坐像の石像あり。備陽六郡志に享保三戊成之春定於地蔵菩薩甘四所となり、この石仏であろうか。灯籠二基正面両脇にあり、元禄十丁丑秋と刻まれていて天和のものではない。堂背後の洞窟に山水の滴り落ちている所があり、閼伽に使っていたのであろう。岩盤に何基か墓碑が穴を穿ってはめ込まれている中に、「営山開基喝巌庸徹庵主」のものがある。又この岩場はロッククライミングの場となっていて、ハアケンが数本打ち込まれている。庸徹庵主も永の眠りにつけないというものであろう。雑木林の中の小径を東に少し行けばつづら折れの登り道となり、視界が次第に開ける中、息をつぎながら頂上に着けば「備後 深津島山 暫時 君が目見ねば くるしかりけり」の万葉集の歌碑の建つ、遥か南に瀬戸内の海を望む見晴らしのきく所である。徳勝院殿前四品日州太守参康宗久(勝成)の遺志は「弘宗寺」となって実現した。

http://bingo-history.net/uploads/2007/08/7f603d7b43db43bea6682907d3412f3e.jpghttp://bingo-history.net/uploads/2007/08/7f603d7b43db43bea6682907d3412f3e-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:137号」より 根岸 尚克 北消防署前の土手道を東に行くと、山側に天然記念物の福山断層の露頭が見え、少し先に、蔵王山の登り口となっている小道があり、岩山観音堂が見える。水野勝成が水野家菩提寺として、七堂伽藍を建てんとした故地である。 水野勝成は、父忠重の菩提寺として賢忠寺(瑞源院勇心賢忠に因む)、母の菩提寺として妙連寺を建て、水野家の菩提寺として七堂伽藍を建てんと、市村綱木深津の岩山の麓迄をその地と定め、江戸表にも届を出し、開山の僧に蠻江禅師を呼ぶ。 曇江豊後の自杵より其請に応じ海に航し来て、日向守殿美作守殿直に御城江被請御対面有之候。曇江当分吉津総光寺に被差置候 (弘宗寺由来之事) その地を見られしに、山下に深き谷川あれとて唐土曹渓六祖之事によりて山号を曹渓寺号を弘宗と予め名付く。程なく島原の陣あり、その後勝成勝俊勝貞三候続いて卒去ありし故岩山の経営はさた止みとなった。 唐土曹渓六祖之事 曹洞宗の中国での開祖達磨大師より六祖慧能が曹渓に法を伝え、その六世の法孫良价が洞山にあって道を広めたので、曹洞宗という。賢忠寺は曹洞宗。 水野家は男は禅宗、女は浄土宗だった。勝種の実母と祖母の墓は、東町洞林寺にあり、勝成の妻お珊の方、嫡子勝俊の母お登久の方の墓は、西町定福寺にあり、いずれも浄土宗である。 その後、 石逕斜にして樹木鬱々たる所に、隠遁者庸徹という者庵を結て一如庵と名付、賢忠寺和尚を開基とし、岩窟に観音を安んじ閣上朱紺を彩り象鼻龍頭を乗せ、荘厳美を盡せり。遠く四州の地を望みて夜灯を点し、海路の冥間を照らし、梵鐘を撃って村里の長夢を覚し、書誦夜禅の霊場にして、また欝散遊戯の佳境なり。然し庸徹が没して後段々衰廃し、一如庵も住人なく狐狸の棲家となり。観音閣も夢破れて蝙蝠ならでは窟中に出入りする者も無く、鐘楼倒れて釣鐘谷に転び、常灯長く消えて石灯籠空しく立てり。享保中に賢忠寺玉峯和尚、衰廃せる事を嘆いて、件の岩窟上に薬師を安し、下には弁天を安ず。別に観音堂一宇を建て、昔時一如庵の十か一を残され侍る (備陽六郡志) 当初堂宇もある程度出来上がっていて、庸徹はそれを利用したものと考えられる。梵鐘には 元禄五季歳次壬申大呂佛成道日 一如庵主 庸徹 平尾興平次正則鐫文字 賢忠鯨覺海誌 とあり、正徳の頃迄在ったが割れて無くなった。銘も分かっているが長いので略す。 常夜燈も 観音堂の前に在り、正徳の頃迄勧進して燃しけるが、其の後燃す人もなくて燈籠空しく立てり。銘有 俊峰宗清居士者、居備之後州深津郡沼田新開狐崎、俗名曰細見七郎右衛門直満也、延宝九年酉二月念二日無病而現病、奄然棄世実、其妹竹屋悟節信女、命石工彫剋一如庵常灯籠之臺盤柱石、以追修亡兄宗清居士冥福。 天和三初癸亥冬十一月甘二日 竹屋悟節信女立之 一如庵主道高庸徹書 細見七郎右衛門ハ水野家の居物切なりけるが、晩年に及びて、千人切の供養を思い、禄を辞して市村狐崎という所に居住し、間もなく死す。石地蔵 享保三戊成之春、地蔵菩薩甘四所於定む。諸人順禮す。當山其敷也。化主 立譽巻正全 享保九年には半鐘も出来た。銘は略す。護國山賢忠寺現住 鏡大専誌とある。 岩山観音堂探訪記 岩窟を背後に観音堂が立つ。昭和四十乙巳年修繕と書かれた板が打ち付けてある。堂を巡る回廊左奥に、地蔵菩薩坐像の石像あり。備陽六郡志に享保三戊成之春定於地蔵菩薩甘四所となり、この石仏であろうか。灯籠二基正面両脇にあり、元禄十丁丑秋と刻まれていて天和のものではない。堂背後の洞窟に山水の滴り落ちている所があり、閼伽に使っていたのであろう。岩盤に何基か墓碑が穴を穿ってはめ込まれている中に、「営山開基喝巌庸徹庵主」のものがある。又この岩場はロッククライミングの場となっていて、ハアケンが数本打ち込まれている。庸徹庵主も永の眠りにつけないというものであろう。雑木林の中の小径を東に少し行けばつづら折れの登り道となり、視界が次第に開ける中、息をつぎながら頂上に着けば「備後 深津島山 暫時 君が目見ねば くるしかりけり」の万葉集の歌碑の建つ、遥か南に瀬戸内の海を望む見晴らしのきく所である。徳勝院殿前四品日州太守参康宗久(勝成)の遺志は「弘宗寺」となって実現した。備後地方(広島県福山市)を中心にした地域の歴史を研究しする歴史愛好の集いです