2007年02月09日

福山で一番冷遇されてきた人物(住持頼秀と明王院)

備陽史探訪:134号」より

小林 定市

小林定市郷土史家の濱本鶴賓は、福山地方の歴史を調査聞明にしようとして、大正三年(一九一三)先憂会の機関紙『まこと』に「草戸千軒」を発表したのが嚆矢であった。内容は沼隈郡に属した「草戸千軒の町ここに栄えたり、四代勝種の延宝元年(一六七三)の夏森雨連日晴れず濁流奔馬の如く(中略)千軒の町家を流失し去り」と記している。その後多くの人々の努力で草戸千軒の発掘研究は順調に進展し、平成元年には広島県立歴史博物館も開館され、研究開始以来あと数年で一世紀を迎えようとしている。

また、草戸町には福山市が誇る文化・観光遺産として、真言宗明王院があり同寺には国宝の五重塔と観音堂が伝えられている。濱本鶴賓は早くから五重塔の研究に着手しており、五重塔の露盤陰刻銘文と建立推進者の住持頼秀を『備後史談』に発表したのが、昭和十一年十一月の出来事であった。爾来年月の経過は早いもので、昨年で満七十年の節目の年を迎えていた。しかし、残念な事に頼秀が何者なのか今以って検証されていない。

七十年の頼秀研究に何の進展が見られないのは、研究の凍結ないし「開創者頼秀隠し」といった、見えない陰湿なしがらみが存在するのではないかと疑いたくなる。福山の歴史研究者は頼秀の功績を一切認めず、観音堂が建立されて三百六十九年後に創作された、根拠の無い「弘法大師」説に幻惑され、寺側の主張に迎合し寺歴の追及を放棄したようである。弘法大師であれば見栄がよく権威ある寺院として喧伝でき、逆に無名の頼秀では寺と学者の気に入られず、算盤勘定から弘法大師を選択したようである。

観音堂と五重塔に残された頼秀の銘文は一等史料であり、江戸時代の棟札(弘法大師説)は遥かに劣る五・六等程度の価値の低い資料である。古文書学には「古史料優先採用」という国際標準の原則があるのに、一等史料無視し根拠の曖味な後世の創作縁起を採用してきた。古文書学のルールは無視「福山の常識は、日本の非常識」され、最初に行うべき銘文や文書の厳格な真偽鑑定が先送りされてきた。史料の鑑定さえ出来ない福山市(インターネットに、明王院の弘法大師開基説を公表)は、文化都市の名を返上した方がよさそうである。頼秀は他の市町村なら郷土の誇る先賢として、高く評価・顕彰され銅像等も早くから建立されていた事であろう。

平成十四年二月にNHKで、「国宝探訪・よみがえる人々の祈り、明王院五重塔」が放映された際、開創は「八百七年に弘法大師空海が創建」とする寺伝を放映、次いで露盤の陰刻銘文も順次解説がされた。しかし、その解説内容は「民衆の弥勒菩薩信仰と一文勧進で五重塔は建設された」とする民衆説が強調され、一番肝心な「沙門頼秀」だけは放映されず「蚊帳の外」に放り出された。放送は明らかに最初から頼秀外しを意図して行われたらしく、NHKは情報提供者側からの頼秀削除「やらせの天の声」の意向に従ったようである。行過ぎた「やらせ」の結果、銘文の全文を知らない視聴者は、南北朝時代の庶民は銘文が書ける程高度の教育を受け、幅広い仏教知識を身につけるほど余裕があり、弥勒菩薩の信仰を受容していたと誤解するであろう。題名の「人々の祈り」説は明らかに勇み足で、祈りは勧進を推進した「頼秀(地頭)の祈り」を物語るものである。

公正中立な公共放送を徹していると信じていたNHKが、信頼性に問題がある五・六等資料を優先放映して、一等史料を削除するといった歴史常識を逸脱した粗悪な番組を制作し、視聴者に「頼秀を弘法大師」にすり替え白を黒と言いくるめていた。頼秀を放映すると関係者が主張してきた矛盾が暴露し、弘法大師説に疑問を生じさせるため頼秀隠しを進めたのか、地元資料の粉飾を見破り資料の精査が出来る人の出現が待ち遠しい。

この機会に徹底して抜本的な史料の再検討を行い、歪んだ寺伝を糺す好機会としたいものである。NHKは意図的で理不尽な頼秀隠しに加担していた疑いがある。若し見えない黒い重圧により、頼秀研究の停止或は阻止する方針が決まっていたとすれば大問題である。七十年間福山の学者は、頼秀解明を先送りし前進させることが出来なかった。この重大な怠慢行為に対する責任を誰が取るのであろうか、七十年の税金が勿体ない。

明王院の前身常福寺は、室町・戦国時代迄は真言律宗の寺院で、本山は奈良の西大寺であった。従来の西大寺関係の研究では、備後國に西大寺の末寺が三ヶ寺(尾道浄土寺・草出常福寺・今高野金剛寺)存在していたとする程度で、西大寺との関係を明らかにした研究は発表されていない。

永享八年(一四六三)の『西大寺坊 寄宿諸末寺帳』(百八十七ヶ寺)に依ると、宿坊は十三に区分された宿坊別に記載されていた。宿坊を分析すると、意外にも寺院の序列や系列のほか成立の経緯まで推測させる内容となっていた。筆頭の「二聖院分」は長老に関連した宿坊で、尾道の浄土寺は二聖院分の宿坊に属し、二聖院分の中で三番目に記載された重要な寺院であった。草戸(草出)の常福寺は第七番目の「東室一分」の宿坊に属し、「東室一分」内では十一番目に備中成羽の善養寺が記載され、十二番目に「備後草出常福寺」の記載があり、十六番目に備中高梁川沿いの軽部庄にあった菩提寺が記載されていた。

寄宿諸末寺帳を概観すると、叡尊の高弟達は夫々の宿坊を持ち、高弟が開発や開創に関与したであろう系列毎の寺院名を記載していた。前記の事由から常福寺の開創は、浄土寺の宿坊とは異なる別系統の宿坊に属し、浄土寺より成羽(岡山県川上郡備中町)の善養寺の方が濃い寺院関係にあったことが判明した。成羽川の上流にある備中町の笠神には、徳治二年(一三〇七)八月に船路開削工事を記した文字岩「水路開墾願文」(國指定史跡)に、陰刻銘文が伝えられている。

銘文に依ると難所であった「笠神龍頭上下瀬十余ヶ所」の開削を、四郎兵衛が発起し、成羽善養寺の尊海が大勧進として浄財を募り、西大寺は工事奉行として沙門実専と実□の二人を派遣しており、石切大工の伊行経の活躍で完成させている。文字岩の解明から、西大寺は諸物産の輸送の困難を排除し善養寺の繁栄を計っている。成羽と草戸の共通性は川と海で異なるが、流通拠点として共に優れた場所に立地していた。頼秀は西大寺の実専等に技術の援助を要請したらしく、常福寺の建立の外に、草戸中洲に流通拠点を構築し繁栄の基を築いた可能性が濃厚となった。

奈良西大寺は文亀二年(一五〇三)五月七日夜の兵火で、一山の殆どの建物が焼亡した。大火の発端は、細川政元の武将赤沢朝経と籾井某・依利某が大和の楊本某を討伐しようとして西大寺に宿陣した。同年四月二十日撤退条件として赤沢朝経は兵糧米五百貫を寺門に提示した。要求を不満とした大和の国人武将連中は憤激し楊本某を支援したようである。

その後の経緯は判然としないが、七日の夜西大寺は「四王堂の中門・石塔院・地蔵院・東大門」のみを残し消失。「火災の原因として女や魚の不浄、仏法を厳重に遵守しよう」とする反省文が残されているが大火の原因は不詳。そこで西大寺は再建のため、早速地方の末寺への資金協力要請をするため作成した台帳が『西大寺諸国末寺帳』(三百五十二ヶ寺)である。その時常福寺は西大寺の要求に應じて應分の資金援助を行った様である。

永享八年の「西大寺諸国末寺帳」に依ると、常福寺と「南室三分」に記された京都の嵯峨大覚寺は、同じ西大寺の末寺として記載され兄弟関係の寺院となっていた。文亀二年の末寺帳にも大覚寺の寺名が記載されており、戦国時代まで真言律宗であった常福寺と大覚寺が、江戸時代初頭になると揃って真言宗寺院に変貌し本末関係を結んでいた。

濱本鶴賓は昭和十一年七月の『備後史談』に、何処で史料を入手したのか、永享八年の「西大寺諸国末寺帳」を載せ文亀二年の奥書迄正確に書写していた。諸国末寺帳も研究に着手して早くも七十年の年月が経過。

鎌倉時代から戦国時代百数拾年以前の、常福寺の宗派や真実の開基や歴史経過を全く知らない十九世宥翁は、観音堂の建立から三百六十九年経過した元禄三年(一六九〇)十二月、観音堂修復を機に事実無根の棟札を作成している。此の年以降明王院は棟札の弘法大師を有力な開創の拠り処として、弘法大師開基説を前面に押し出し上手に宣伝利用してきた。

室町時代の応仁中期の頃、備後守護の山名氏に認められ、草戸の代官を勤めたのが渡辺高であった。四代目渡辺越中守兼が享禄三年(一五三〇)に書いた『先祖覺書』に依ると、寺家(悲田院)の田中名が地頭分村内に存在していたと記している。渡辺兼の記録を再現すると、悲田院の領所は庄園西側の地頭分村一帯に存在していた。このため地頭が支配してきた地域は近代の通説とは全く逆の草戸に存在していた。室町時代の草戸は幕府の支配下にあり、備後守護山名氏の守護請地の形態をとっていた。そのため草戸の支配権(代官の任免権)は全て守護山名氏が掌握しており、山名氏が草戸の代官に渡辺高・信濃守兼・家・越中守兼を起用した。

鎌倉時代の地頭長井氏は下地中分の際、九州の異国警護番役の際寄港できる長和庄の湊を重視して、海側の草戸・水呑・田尻一帯を希求し入手したようである。一方悲田院の方は米が安定的に確保できる瀬戸川下流域で妥協し、両者の利害が一致した事から和与が成立したようである。地頭分村を地頭が支配していたとする、誤説が発生した最大要因は、近代の学者が『沼隈郡誌』の「地頭分村は地頭の支配地」とする説を安易に妄信し、史料の裏付を取らず地頭の文字と先入観念に惑わされたためである。

*説明不足があるので、新観点から対話形式で補足説明を進める。

  1. 明王院に伝えられた江戸時代の事実無根の伝承は全て排除する。
  2. 近代の想像の産物である地頭分村を「地頭が領有した土地」とする説の垣根を取払う。
  3. 前記二項の近世と近代の眩惑資料を排除し、戦国時代以前の史料だけを用いて草戸常福寺史を編纂し一部推測を加える。

ここからは書き方を改め対話形式で質問と、頼秀の回答形式にして対話を進行させた。

質問 もしもし五重塔の上の住持頼秀様、長い間露盤の高い場所から歴史の推移を見守られまして、数々の事件や面白い出来事を多く御覧になってきた筈です。私の質問にお答え頂きますと有難いのですが、OK早速ご承知頂きまして有難う御座います。それでは早速質問させて頂きます。貴方の家系と姓名を教えて下されば有難いのですが。

頼秀 拙者の先祖は大江広元の娘婿長井時広に始まり、時広が長和庄の地頭となり以後地頭を勤めている。拙者は長和庄西(北)地頭の長井治部少輔頼秀・法名を道可と申す、観音堂と五重塔に実名を残している。子息の長井弾正蔵人貞頼は足利尊氏方に味方してよく活躍した。

質問 どうして此処に常福寺を建立されたのですか。

頼秀 拙者は最初鎌倉で幕府に出仕して御家人役を勤めていた。その頃鎌倉の屋敷は逗子市の小坪に在って、家の前面は鎌倉の海岸が広がっており、そこに和歌江嶋の津(国指定史跡)という鎌倉の港湾・商業地域があり、諸国と交流し関米を徴収し人別銭まで集めて繁昌していた。当時は北條一族や被官人の多くが真言律宗に帰依しており、和歌江嶋の支配は真言律宗の極楽寺が行っていた。極楽寺は行政権の一部をも慈善事業の一環として補っていた。そこで遠く離れた備後の長和庄でも和歌江嶋を雛形にした、小規模の港湾を整備し流通業を発展させ領民の生活向上を夢見ていた。幸い子息の長井貞頼が成長し、拙者に代わり検非違使として京都四条鳥丸の等屋番役を勤めたのを機に、草戸に本拠を移し律宗の常福寺を創建し草戸中州の発展に尽力した。鎌倉で成羽善養寺の繁栄を知り、西大寺に援助を要請したところ承諾され事業は成功した。

質問 御子孫の皆様の動向を簡単に教えて下さい。

頼秀 草戸は幕府が安定していた時期は繁昌して良かったが、建武以後の戦乱期になると防備が難しい土地柄なので、寺の建設が一段落した際一族は戦乱から身を守る為信敷庄(庄原市)に移住した。孫の長井貞広に子供が無かった事から、毛利元春の五男広世を養子に迎えたのであるが、後に貞広は今川了俊に随い九州に出陣し水島で戦死してしまった。

暫くすると広世が長和庄と信敷庄を幕府に返還し、一族が住む安藝高田郡の福原へ移住し同所に鈴尾城を築いて本拠とした。地名に因んで姓を長井から福原に改め。広世の家系から出た娘が毛利弘元に嫁ぎ誕生したのが毛利元就である。関ヶ原合戦後は長門の宇部に移り住み永代筆頭家老を勤めた。幕末の「禁門の変」に戦った福原越後も子孫だ。

質問 室町幕府返還後の長和庄西方地頭職はどのように推移しましたか。

頼秀 地頭職を広世が幕府返還し閉所地となっていた草戸を、備後守護山名氏が幕府に競望して守護請領とした。当時悲田院の代官であった渡辺信濃守高を、守護代の大橋満泰が見込んで草戸の代官に登用した。後に山名是豊と政豊の兄弟が備後守護を巡って主導権争いを行い、是豊に従っていた渡辺信濃守家は是豊の滅亡後は逃亡生活をする身となった。

勝利した政豊は敵対した渡辺家の草戸やその外全ての代官職を剥奪した。しかし、暫くすると政豊は信濃守家を赦し再度草戸の代官に任命している。山名氏は草戸千軒を繁栄させる方針から、草戸近辺に散在していた守護関係所領の物資の流通を奨励した。その後守護山名氏が衰微没落すると、草戸も山名氏と命運を共にして次第に衰亡の路を辿った。

質問 迷惑な、と思われたことがありますか。

頼秀 間接的な事柄なのだが、観音堂の北の阿弥陀堂を倒して庫裏と書院を移築する迄は別段変わりなかった。ところが移築した書院に、三代将軍徳川家光と四代家綱の位牌を祀ってくれたのは大迷惑であった。家康は我等毛利一族を騙し防長に押込めた張本人である。毛利が最も嫌っていた徳川家の菩提所は有難迷惑で供養は他の寺院を選んで欲しかった。

質問 悲しい想い出がありましたか。

頼秀 四代水野勝種は領主権力を以って常福寺の舜意を追出し、常福寺と明王院との合併を強行して宥仙を住職に任命した。この紛糾で重要な常福寺の伝来史料は軽視され、保護の対象とならず霧消に至る要因となった。合併の強行が行わなければ、鎌倉時代以後の貴重な常福寺文書が伝えられ正確な歴史が判明した筈である。合併で寺主となった十八世宥仙は寺歴を調べもせず、梵鐘に「野山大師の開基」と彫らせ、無道にも拙者が創建した寺を野山大師と勝手に変更したのである。

時代が移ると開基者名を変更登記する、無節操な後継僧が出現するとは夢想もしなかった。更に四代領主水野勝種と十九世宥翁の努力で、元禄三年(一六九〇)に観音堂を修築してくれたのは有難かった。しかし、この修理の際拙者が造った元応三年の棟札を寺に保管し、元応の棟札の存在を知りながら宥翁は保身を考え、徳川・水野に迎合して寺名の高揚を図り棟札に「大同の年我弘法大師の創基」と書いたのである。拙者は再度無視され今度は弘法大師の寺に変更登記されてしまった。

水野家が断絶した後、吉田彦兵衛は水野時代の記録を後世に伝えようとして明王院を訪れ、拙者の棟札を発見し「土民(農民)は大同の年に建つなどと云へり、棟札はあれど大同の年にあらず」と書き、元応の年号は忘れていたらしいが、棟札に大同年号が書かれていなかった事を確認している。武士の記録が正しいのか、それとも住僧の棟札銘文なのか、福山の常識は宥翁の棟札に軍配が挙げられてきた。参考までに日本最古の棟札は、平泉中尊寺蔵の保安三年(一一二二)銘の棟札である。

他にも心得違いをした言語道断の僧が居て、元和七年に水野勝成が本堂二棟を修理したとする偽棟札二本を製作した僧がいる。その他水野家と寺の関係を強調して権威付けをする目的で、水野勝成の偽下知状を作成している。偽棟札に依ると元和六年の大洪水で、本堂二棟が埋没したとして修築したことになっている。しかし、不思議な事に観音堂には元和修築に記された埋没の痕跡が全く見当らない。また、拙者が建立した阿弥陀堂も棟札が三本あり修築されたことになっているが、元和洪水から三十六年経過した、明暦二年(一六五五)の頃修理不能の建物として解体処分された。領主が修築した堂塔は立派な建造物で、僅か三十五年前後の短命に終わる建物等は日本全国何処を探しても無いであろう。

十万石領主の修築には品格が伴うもので、福山城を見れば理解出来るように、吟味された優良な材料を用い長年の風雪に耐えられる様に建てられている。領主の名誉を守る為に言及すると、若し阿弥陀堂が元和の頃水野勝成によって修築されていたとすると、現在迄阿弥陀堂は伝えられ国宝に指定されているであろう。阿弥陀堂が早く解体された訳は、修理を必要としていた、元和年間に修理が行われなかったことを意味している。俳諧師の野々口立圃は、修築が遅れ倒壊寸前の阿弥陀堂を「形ばかりの阿弥陀堂」と記録し元和棟札の矛盾を鋭く伝えている。

明王院に残された開基者を古い順に列記すると、1、一番が拙者である。2、元和七年棟札の住持沙門。3、野々口立圃の『草戸記』の巨勢金岡。4、宥仙の梵鐘銘文野山大師。5、宥翁の棟札弘法大師。以上奇怪な事に五名もの多数の名前が記録されている。古文書のルールに随えば、弘法大師は本来五番目の開基者と見做されるのであるが、優先順位が高い1番から4番までが何故か葬られた侭となっている。関係者は不透明な開基者の選考資料基準を開陳して説明する責任があろう。

質問 不埒な後継僧が輩出したのですか、最後に嬉しかった事。

頼秀 天正十九年末、出雲の富田城から毛利元就の八男毛利元康が神辺城の城主として入部してきた。早速元康は領内を巡見し修復を必要としていた五重塔を見つけ、家老の井上新左衛門尉に修復工事を命じ手配してくれた。子孫が修繕してくれるのは格別に愉快な出来事で涙が溢れた。

元康は翌年三月、文禄の役に出陣する目的で家臣を従え肥前名護屋を目指して旅立った。朝鮮では毛利輝元が病気で後退療養すると、元康は輝元の代将として毛利一万五千の軍勢を率いて各地を転戦した。特に明軍十万を相手に戦った壁蹄館の戦いでは、兄の小早川隆景と協力して戦い、隆景や立花宗茂に勝るとも劣らぬ働きをして秀吉を狂喜させた。

関ヶ原の合戦の際の活躍は地元福山では知られていない。最初西軍方として行動していた大津城主の京極高次(徳川秀忠の義兄)が、急遽東軍に鞍替えして大津城に籠城すると同時に東海道を遮断してしまった。大坂と関ヶ原の交通と連絡を止められた西軍は突如窮地に立たされた。

毛利輝元は難局の早期打開の為、元康を代将として急遠大坂から大津に派遣した。元康は大津に到着と同時に陣替を命じ、三井寺横の長等山に大砲を据え眼下の大津城に砲弾の雨を降らせた。九月十二日に増援軍が到着すると、元康は翌十三日未明から一万五千の軍勢を指揮して三方の濠を渡濠する総攻めを敢行。同日の夕刻前に京極高次を降参させた。

後に編纂された合戦記は何れも、時の権力者徳川・京極に慮り改竄されている。元康は城攻めに日本で最初に大砲攻撃を編み出した戦術家である。家康は大津城で関ヶ原の戦後処理を行うのであるが、廃墟となった城跡に立ち想定を上回る元康の優れた軍略に思わず嘆息を洩らした。

元康は十年間神辺城主として国外国内の大合戦を経験した猛将で、毛利最強軍の根拠地神辺は幕府が最も情報統制を必要とした地となっていた。その神辺で「徳川方敗北」毛利軍の勝利の戦果が領民に流布するのを阻止する必要から、密かには元康の事績消去が計られたようである。秘密裏に進めた元康時代の歴史湮滅作戦は成功し、四百年間も神辺城主は不詳不明となり隠蔽封印状態は持続されてきた。恐妻家の徳川秀忠が、何故水野勝成を神辺城に派遣したのか朧げに透けて見えるであろう。

毛利と福山阿部藩の慶応二年(一八四九)六月の戦闘に就いて。幕府は長州征討を企画して福山藩に対して石見口に出陣を命じた。福山藩は浜田藩と共に益田に進出し長州軍と戦い敗れて福山に帰還している。

慶応四年一月の福山戊辰戦争。長州軍は「山陽道で敵対する譜代大名を滅ぼし、東上する軍勢の後顧の憂いをなくし交通権の確保」を目的として尾道を本拠としていた。長州軍が一月九日早朝福山城下に進撃を開始すると、福山藩兵は城下の防衛拠点を放棄して籠城してしまった。城を攻囲した長州軍は臼砲を発射し弾丸を天守に命中させた。勝利の道を閉ざされた福山藩は、止む無く降参の軍使を長州の本営に派遣した。福山の戊辰戦争について『福山市史』は、表向きには「講和を成立させた」と書いている。しかし、近隣の譜代藩に対する薩長軍の戦闘で明らかなように、譜代藩が降参するまで攻撃を続行しており、福山藩を特別扱いにして講和を結んだ事実は無く降参させていた。しかし福山藩の重臣は、降参しておきながら講和したと強弁の二枚舌を使っていた。

現在まで長州が福山と関係した戦いは、福山市民に対し正確に発表されなかった。そのため徳川時代に福山に限定して戦績を総括すると毛利は三連勝している。長州はよく奮戦し快勝しているから拙者は満足だ。

最後に、草戸千軒の研究を約一世紀以前から、拙者の五重塔の銘文と文亀二年の諸国末寺帳を、七十年も以前に調査研究して頂いた浜本鶴賓先生に、生前中感謝の報告が出来なかった事が唯一残念である。

<関連記事>
明王院の観音堂下柱穴と本尊