大内山城跡測量調査報告(福山市神辺町八尋・下竹田)

備陽史探訪:113号」より

城郭研究部会

城郭研究部会の四名が当山城跡を探訪したのは平成十四年の秋だった。主郭部はブッシュに覆われていたが、広島県教育委員会出版の『大内山城跡測図』に記載されていない郭(くるわ)・堅堀(たてぼり)・虎口(こぐち)等の遺構が確認出来た。その後、この共有林の地権者の皆様のご了解を戴き、この度の平板測量となった。

当城跡は神辺町八尋と同町下竹田の境に位置し、南方に突き出した標高一〇七メートル、比高八〇メートルの丘陵頂部に主郭を置く山城である。

ここを訪れる時は、神辺町立竹尋小学校を尋ね、下竹田の大内集落から登頂すれば、整備された山道があり、約十分で主郭部に達する。現在は測量調査のため、ブッシュを切り開いているので遺構を見学できるが、一・二年後には元の茂みに戻り、立入ることが困難になると思われる。

主郭部①②③の郭は東西二八メートル、南北九〇メートルで、①郭は北側の③郭よりも一・四メートル高く、東西一四仁、南北二三衛の楕円形で、その規模から物見の櫓(やぐら)と兵士の寄宿する小屋が付随して設けられていたと思われる。

一・三メートル下がった②郭は東西一〇メートル、南北一二メートルの方形で西側は崩れて境が判然としない。③郭は東西二〇メートル、南北三八メートルで平坦地でなく、南北の落差一・五メートルで南に向かって緩やかに下っている。北側③郭から二メートル下に、幅三メートルの帯郭⑤を廻らしている。④の腰郭南端の堅堀と⑩郭の間にあった帯郭は上部の崩落により南半分を失っている。また、③郭西下の帯郭⑨は、⑫郭に至るまであったが、ここも崩落により一部をとどめているだけである。

城の北側は東西に堅堀を備えた東西一七メートル、南北七メートルの半月状の⑮郭で防御しており、これより下は急斜面の自然地形である。

城の裏手にあたる東側は防御施設が必要ない程の急勾配になっている。

それに引替え、南側は緩斜面でこの城最大の弱点である。⑫郭の北端の竪堀は幅二・五メートル、長さ一・二メートルでその下方は急斜面になっており、竪堀の両側には幅一メートルの土塁の痕跡が見られる。③郭から三。二メートル低い⑫郭は東西三〇メートル、南北一三メートルの半月状で、旧状をよく残している。ここから二メートル下がった⑬郭は東西一六メートル、南北六メートルの三ヶ月状で、その下は自然地形で麓まで下っている。⑩郭の上に⑨につがなる帯郭があった様であるが、崩落によって失われ、その土砂が⑩郭の大半を埋めている。

東西一三メートル、南北三七メートルもある④郭の北側も崩落により狭くなっている。ここから南西に緩やかな傾斜地が伸びているが、堀切等の防御施設がなく、如何にも心許ない。

西側も決して急斜面とは言い難いが、城の大手にあたるため、西に張り出た尾根から攻め上ってくる敵兵に備えて、多くの郭・竪堀・虎口で固めている。③郭下の竪堀は片側に土塁を備え、幅四メートルで三五メートル北西に下っている。これにより敵兵の横移動を防ぎ、更に、この竪堀を登ってきた敵兵を⑥と③の郭から討ち落とす構えになっている。⑩郭と⑫郭の間に初期形式の虎口(城の入り口)が設けられており、これを守るため③⑪⑫の郭が構築されている。三つの郭は何れも切岸が崩れているが、当時は落差二~三メートルの堅牢な郭で、ここに柵を建てると場内への突入は多大の犠牲を要したであろう。⑫郭から五・七メートル低い⑬郭と、そこからさらに二・七メートル低い⑭郭は北側の緩斜面を深く切り下げて、その弱点を補っている。ここから五〇メートル程下方の尾根上にも、やや平坦な削平地が認められるが城の一部とは断定し難い。

当城は神辺平野の東端に位置し、ここから一・五kmの至近距離に、旧山陽道がほぼ東西に通っており、主郭からは一八〇度の視野で監視できた。また、この方面から侵入してくる敵に備え、西側斜面の防護を固めていたようである。

丘陵の東麓の登山口に、両端に土塁と思われる高まりを残し、馬蹄形に削平した所が畠として残っているので、城主はここに居館を構えていたと思われる。

『西備名区』『福山志科」ともに城主として皆内(家内トモ)氏を載せ、出雲守景兼は大永(一五二一~二八)の頃居住、後、子式部大輔に跡を譲り、郷分村に移ると記し、式部の子佐馬介定兼は、雲州尼子に属し、後、大内家に帰服し郷分村より帰住するが、永禄年中(一五五八~七〇)没落して上方へ浪人し、その後に杉原氏幕下の三吉丹後守が入ったとしている。

追記、当稿記載のため、連載中の『備後福山領古城記』は次号へ繰り延べさせていただきました。ご了承ください。小林浩二記す。

大内山城跡測量図

大内山城跡測量図

測量調査参加者(敬称略・五十音順)

出内博都  枝広博之  小林浩二  小室昭二  坂本敏夫
佐藤伊津美 佐藤錦士  塩出基久  住本雄司  高橋光子
中島信幸  浜野 徹  藤井保夫  藤波平次郎 寶龜雍郎
前原 肇  牧平悦美  三輪康嗣  村上 稔  矢野恭平

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/a824928f88aaaba7e7ae690d44531a36-841x1024.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/a824928f88aaaba7e7ae690d44531a36-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:113号」より 城郭研究部会 城郭研究部会の四名が当山城跡を探訪したのは平成十四年の秋だった。主郭部はブッシュに覆われていたが、広島県教育委員会出版の『大内山城跡測図』に記載されていない郭(くるわ)・堅堀(たてぼり)・虎口(こぐち)等の遺構が確認出来た。その後、この共有林の地権者の皆様のご了解を戴き、この度の平板測量となった。 当城跡は神辺町八尋と同町下竹田の境に位置し、南方に突き出した標高一〇七メートル、比高八〇メートルの丘陵頂部に主郭を置く山城である。 ここを訪れる時は、神辺町立竹尋小学校を尋ね、下竹田の大内集落から登頂すれば、整備された山道があり、約十分で主郭部に達する。現在は測量調査のため、ブッシュを切り開いているので遺構を見学できるが、一・二年後には元の茂みに戻り、立入ることが困難になると思われる。 主郭部①②③の郭は東西二八メートル、南北九〇メートルで、①郭は北側の③郭よりも一・四メートル高く、東西一四仁、南北二三衛の楕円形で、その規模から物見の櫓(やぐら)と兵士の寄宿する小屋が付随して設けられていたと思われる。 一・三メートル下がった②郭は東西一〇メートル、南北一二メートルの方形で西側は崩れて境が判然としない。③郭は東西二〇メートル、南北三八メートルで平坦地でなく、南北の落差一・五メートルで南に向かって緩やかに下っている。北側③郭から二メートル下に、幅三メートルの帯郭⑤を廻らしている。④の腰郭南端の堅堀と⑩郭の間にあった帯郭は上部の崩落により南半分を失っている。また、③郭西下の帯郭⑨は、⑫郭に至るまであったが、ここも崩落により一部をとどめているだけである。 城の北側は東西に堅堀を備えた東西一七メートル、南北七メートルの半月状の⑮郭で防御しており、これより下は急斜面の自然地形である。 城の裏手にあたる東側は防御施設が必要ない程の急勾配になっている。 それに引替え、南側は緩斜面でこの城最大の弱点である。⑫郭の北端の竪堀は幅二・五メートル、長さ一・二メートルでその下方は急斜面になっており、竪堀の両側には幅一メートルの土塁の痕跡が見られる。③郭から三。二メートル低い⑫郭は東西三〇メートル、南北一三メートルの半月状で、旧状をよく残している。ここから二メートル下がった⑬郭は東西一六メートル、南北六メートルの三ヶ月状で、その下は自然地形で麓まで下っている。⑩郭の上に⑨につがなる帯郭があった様であるが、崩落によって失われ、その土砂が⑩郭の大半を埋めている。 東西一三メートル、南北三七メートルもある④郭の北側も崩落により狭くなっている。ここから南西に緩やかな傾斜地が伸びているが、堀切等の防御施設がなく、如何にも心許ない。 西側も決して急斜面とは言い難いが、城の大手にあたるため、西に張り出た尾根から攻め上ってくる敵兵に備えて、多くの郭・竪堀・虎口で固めている。③郭下の竪堀は片側に土塁を備え、幅四メートルで三五メートル北西に下っている。これにより敵兵の横移動を防ぎ、更に、この竪堀を登ってきた敵兵を⑥と③の郭から討ち落とす構えになっている。⑩郭と⑫郭の間に初期形式の虎口(城の入り口)が設けられており、これを守るため③⑪⑫の郭が構築されている。三つの郭は何れも切岸が崩れているが、当時は落差二~三メートルの堅牢な郭で、ここに柵を建てると場内への突入は多大の犠牲を要したであろう。⑫郭から五・七メートル低い⑬郭と、そこからさらに二・七メートル低い⑭郭は北側の緩斜面を深く切り下げて、その弱点を補っている。ここから五〇メートル程下方の尾根上にも、やや平坦な削平地が認められるが城の一部とは断定し難い。 当城は神辺平野の東端に位置し、ここから一・五kmの至近距離に、旧山陽道がほぼ東西に通っており、主郭からは一八〇度の視野で監視できた。また、この方面から侵入してくる敵に備え、西側斜面の防護を固めていたようである。 丘陵の東麓の登山口に、両端に土塁と思われる高まりを残し、馬蹄形に削平した所が畠として残っているので、城主はここに居館を構えていたと思われる。 『西備名区』『福山志科」ともに城主として皆内(家内トモ)氏を載せ、出雲守景兼は大永(一五二一~二八)の頃居住、後、子式部大輔に跡を譲り、郷分村に移ると記し、式部の子佐馬介定兼は、雲州尼子に属し、後、大内家に帰服し郷分村より帰住するが、永禄年中(一五五八~七〇)没落して上方へ浪人し、その後に杉原氏幕下の三吉丹後守が入ったとしている。 追記、当稿記載のため、連載中の『備後福山領古城記』は次号へ繰り延べさせていただきました。ご了承ください。小林浩二記す。 大内山城跡測量図 測量調査参加者(敬称略・五十音順) 出内博都  枝広博之  小林浩二  小室昭二  坂本敏夫 佐藤伊津美 佐藤錦士  塩出基久  住本雄司  高橋光子 中島信幸  浜野 徹  藤井保夫  藤波平次郎 寶龜雍郎 前原 肇  牧平悦美  三輪康嗣  村上 稔  矢野恭平備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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