2002年04月12日

胎蔵寺釈迦如来坐像胎内文書の発見

備陽史探訪:106号」より

田口 義之

胎蔵寺釈迦如来坐像胎内文書

胎蔵寺釈迦如来坐像胎内文書

新年早々新聞は驚くべき新事実を報じた。北吉津町の真言宗胎蔵寺にある釈迦如来座像の胎内から古文書が発見され、『備後州深津郡杉原保常興寺』の文字が発見されたというのである。

この釈迦如来像は、本来今の城山にあった常興寺の本尊として祀られていたもので、築城と共に他に移され、廃寺となって胎蔵寺に移されて今日に至ったものである。

すなわち、かつて常興寺が存在した福山城の建つ、旧深津郡野上村一帯は、中世『杉原保』と呼ばれていたことが判明し、長年の「杉原保」論争にこれで「ケリ」がついたのである。

これまで「杉原保」は、尾道市北部の小原町・原田町一帯に比定され、これが定説になっていた(広島県史など)。

尾道市北部には、木梨庄を本拠とした木梨杉原氏が戦国末期まで勢力を持ち、尾道浄土寺文書中の杉原光一房奉書に「当国木梨城主」の付箋があったことなどがその理由である。特に浄土寺文書の付箋は重要視された。光房は南北朝期の杉原惣領家の当主であり、その本拠地は当然杉原氏名字の地「杉原保」でなければならなかったのである。

今日、定説化したこの説は、地元にも受け入られ、中世文書に出てくる、保内に存在した石清水八幡宮の「杉原別宮」こそ、我が神社であると主張して、社前に「杉原別宮」の石柱を立てた神社も存在するほどである。

このように『石清水八幡宮文書』に出てくる「備後国杉原保」の所在地が問題になったのは、それが中世備後に大きな勢力を持った杉原氏の『名字の地』と考えられるからである。

杉原(椙原)氏は、備後中世史に大きな足跡を残した武士団である。鎌倉時代に地頭として備後に土着した杉原氏は、備後の国府を眼下に収める八尾城を本拠とし、一族は木梨庄(尾道市)、高須(同上)、山手(福山市)に広がり、戦国期には神辺城主となって一時は備後半国に号令する者も現れた。

しかし、今回の発見は、或る意味では、従来から一部で主張されていた「杉原保」常興寺山一帯説を立証するものでもあった。

杉原保が現在の福山城の建つ常興寺山一帯ではないかと最初に主張したのは片山清氏である。同氏は『芸備地方史研究』誌上で、当時知られていた文献を使って杉原保は現在の福山城一帯であると主張した(杉原保私考同五五号)。

すなわち、『備陽六郡志』の城下胎蔵寺の条に、常興寺から移された什物に「椙原常興寺」の銘があると記されていたこと、西国寺文書に、「杉原円蔵坊」の名があり、記された寺院の配列から、円蔵坊は今の城山から本庄一帯に存在したはずで、杉原保はこの地域に存在したに違いないと主張されたのである。

だが、片山氏の主張は学会の容れるところにはならなかった。何故か、それは「杉原常興寺」にしても、「杉原円蔵坊」にしても、それは「杉原氏の護持する」を意味するに過ぎず、地名ではないと考えられたからである。有名な『小早川家証文』一六〇号に「杉原苧原合戦」の用語があるが、これは杉原を地名として冠したのではなく、杉原氏の領有する苧原を意味するに過ぎない、というわけだ。

今回の発見で、杉原氏名字の地『杉原保』は、現在の福山市丸の内から本庄町にかけての一帯であることがほぼ間違いないことになった。

杉原保がこの一帯であることが確認されると、今まで歴史の謎とされていたことが素直に解けるようになった。南北朝初期に活躍した杉原淡路守泰綱は、系図に「深津淡路守」とあるが、それはそもそも杉原氏の本拠の地名を苗字としたものであったし、南北朝初頭、木梨流の始祖となった信平・為平兄弟は西町の能満寺から出陣していったと伝わるが、それもこの地が杉原氏の本拠地であったからに他ならない。

胎蔵寺釈迦如来坐像胎内文書の発見によって、杉原氏の研究は新たな段階にはいった。今後の研究成果に期待したいものである。