新高山城探訪(小早川氏の築いた戦国過渡期の山城)
「備陽史探訪:174号」より
末森 清司
今年(平成25年)4月帰郷して10数年振りに新高山城跡を探訪した。戦国過渡期の山城の地取り・縄張りの遺構を眼にして心が躍った。
私が初めて新高山城を探訪したのは45年以上前、故安達主税先生に案内して頂いて、雑木雑草の茂る藪の中に埋もれている各遺構(各曲輪群・寺院跡・番所跡・建物や門の礎石・土塁・空堀・竪堀・畝状竪堀・帯曲輪と腰曲輪の違い・井戸跡・石垣の造りと違い・大走り等)をひとつひとつ数日かけて探索説明を聞いて高山城と共に山城見学の楽しさを知りのめり込むきっかけとなった。
新高山城の最高所標高197・6米、詰の丸からの展望を楽しみながら持参した昭和32年に記された資料を読んで先生を偲んでいると眼が潤んできた。
『新高山城跡』安達主税(著)
竹原小早川家(分家)から沼田小早川家(本家)を継いだ隆景は、副塁としていた沼田川対岸の新高山の砦を修築し、天文21年(1552)古高山城から新高山城に本拠を移した。
新高山の山頂から沼田川流域や河口の展望がよく利き水運の便もよくしろかえ又家臣の人心一新のため城替をしたと言われる。
新高山城は沼田川を挟んで古高山と対峙し、北側と東側は沼田川によって天然の濠をなしている。
標高197・6米、東寄の中腹以上の斜面には岩石が露出し、至る所に岸壁がそそり立ち峻厳な山容である。
城の縄張りは、東西約400米、南北約500米。内郭は頂上屋根の鞍部を巧妙に活用して、本丸・東の九・ライゲンガ丸・中の丸。井戸郭は斜面の中腹から張り出したふたつの屋根を利用している。大手側の固めは寺跡の郭・鐘の段・東番所跡・八百の段・南番所跡・紫竹の丸・シンゾウス郭・西番所跡などが巧妙に配置されている。
これらの郭はすべて地山を削平し又切削り、あるいは掘切って必要な箇所は石積みで補強し随所に帯曲輪・竪堀を設けている。特に近世城郭に関連する枡形や枡形城門の採用が各所にみられる。
三原城に城の石垣の大石を残らず運んだと言われているにもかかわらず各所に石垣の一部が残存している。頂上に近い井戸郭には石積みの大井戸が七ヶ所もあり大勢の武士や婦女子が山上生活をしていた事を物語っている。
中世から近世への過渡期の大規模な山城として最も典型的なもので、中世の山城はもちろんの事、近世の平城研究に欠く事の出来ない貴重な城跡である。
隆景は永禄10年(1567)頃から三原を前進基地として重んじる様になる。後に移封によって伊予の道後(湯築)城、筑前の名島城にと居城を移すがこの間も新高山城は小早川氏の本拠の城として確保した。慶長元年(1596)名島より帰城。三原を隠居所と定め三原城を修築(修造)するにあたり新高山城は壊された(廃城)。
◎隆景は新高山城を45年間使用した。
◎永禄4年(1561)毛利元就・隆元父子が来城、10日間滞在。会所・表座敷・裏座敷・高間。常の茶の湯の間などの建物で、連日能楽や連歌、太平記読み等催して饗応接待している。
◎天正5年(1577)南側中腹の郭(寺屋敷跡)に雲門山匡真寺を建て隆景は父元就七回忌、母妙久三十三回忌の法要を執行している。◆新高山城の築城(高山城副塁)
文永7年(1270)4代茂平死去、6年後5代雅平、高山城の副塁として築城。
現在の明智寺裏山の鐘の段、現在初期城と呼ぶ。◆新高山城の畝状竪堀
新高山城にはケヌキ場の地名がある。この場所に畝状竪堀がある。
この遺構は主に揚手に見一受けられ、新高山城の場合も揚手にある。
合戦になれば上の郭に石を置いて敵がこの堀の溝を登ってくれば上から石を落して防戦したのである。
竪堀は現在幅2米、高さ0.8米位で、昔は高く幅もあったと思える。
竪堀の長さは10米~40米。斜面の形状で異なる。◆畝状竪堀の場所
①寺屋敷の西側
②二の丸(西の丸)の下の郭南側
③北の丸北番所西南側
④出丸(小川工業)裏山
その他探索するとみつかる可能性有り。
(昭和32年調査資料・昭和62年調査改訂版)
安達先生の資料を転載させて頂きました。先生には心より感謝しております。
新高山城跡・詰の丸にて再拝読。
新高山城は登山道が整備され要所に案内標示・説明板が設置され誰でも気軽に探訪出来るが老人の単独行なので安全第一を心掛けて大手道を中心に登りその遺構を見学。
探訪コースは沼田川西岸県道沿にある新高山城登山者専用駐車場に車を停めて本郷町水道管理事務所前にある「新高山城大手道入口」の案内板に従って山麓南側の谷より大手道に入る。
登山道途中に設置された案内説明板で見学コースを確認して登山開始。
大手道坂道を登ると左側に鐘の段入日の標示と右側(東側)に三段の曲輪番所跡(下段より、下の段・中の段・軽石の段)を見て廻り、大手道正面突当り寺屋敷・匡真寺跡を探索して、きつい急坂を足をすべらせながら登り山上屋根に築かれた新高山の中枢二の丸。本丸郭屋敷跡の遺構をじっくりと見学して詰の丸に登り標高197・6米の最頂上より眼下の展望を楽しんだ。沼田川束の眼前に高山城の全稜や沼田川流域が一望である。
下山は本丸の北側の遺構U字形に張り出した屋根上東側のライゲンガ丸・東の丸・出丸・西側の中の丸、その間の谷に広がる釣井の段と石組の大井戸を見て、本丸郭北斜面に築かれた大石垣・大手門跡、その階段跡や土塁・堀切。・空堀などの強固な構えと縄張りをゆっくりと見て廻り、石弓の段・西の丸・ボケの段・三の丸・北の丸・北番所曲輪、そして西の丸から北番所曲輪の南西面斜面に連なる畝状竪堀などを観て北の丸より大走り、今は消えて藪の中のケモノ道となってしまった道なき道を南斜面へ下った。(絶対単独行ではやってはいけない行為、私の悪いクセだが…)
南斜面上の紫竹の段やシンゾウス郭・西番所跡の諸曲輪・雑木雑草で藪状の中を歩き廻って小番谷の林道へおりる事が出来た。小番谷の林道より「初期城郭」と伝わる鏡の段とそのまわりの八百の段などを見て廻り、明智寺にお参りして無事下山出来た御礼を言って寺の石垣と積み方を観察、駐車場へ戻った。
朝8時登山開始、下山午後4時過ぎ、8時間余の探訪だが、まだ見学遺構が数多くあり心残りであったが、次国の探訪を楽しみにして帰宅した。
古高山城。新高山城の遺構については、再探訪を行い、確認をして、又記したいと考えております。
https://bingo-history.net/archives/12889https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/33cdea9555a327c3da17407ca259f028.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/33cdea9555a327c3da17407ca259f028-150x100.jpg紀行・随筆「備陽史探訪:174号」より 末森 清司 今年(平成25年)4月帰郷して10数年振りに新高山城跡を探訪した。戦国過渡期の山城の地取り・縄張りの遺構を眼にして心が躍った。 私が初めて新高山城を探訪したのは45年以上前、故安達主税先生に案内して頂いて、雑木雑草の茂る藪の中に埋もれている各遺構(各曲輪群・寺院跡・番所跡・建物や門の礎石・土塁・空堀・竪堀・畝状竪堀・帯曲輪と腰曲輪の違い・井戸跡・石垣の造りと違い・大走り等)をひとつひとつ数日かけて探索説明を聞いて高山城と共に山城見学の楽しさを知りのめり込むきっかけとなった。 新高山城の最高所標高197・6米、詰の丸からの展望を楽しみながら持参した昭和32年に記された資料を読んで先生を偲んでいると眼が潤んできた。 『新高山城跡』安達主税(著) 竹原小早川家(分家)から沼田小早川家(本家)を継いだ隆景は、副塁としていた沼田川対岸の新高山の砦を修築し、天文21年(1552)古高山城から新高山城に本拠を移した。 新高山の山頂から沼田川流域や河口の展望がよく利き水運の便もよくしろかえ又家臣の人心一新のため城替をしたと言われる。 新高山城は沼田川を挟んで古高山と対峙し、北側と東側は沼田川によって天然の濠をなしている。 標高197・6米、東寄の中腹以上の斜面には岩石が露出し、至る所に岸壁がそそり立ち峻厳な山容である。 城の縄張りは、東西約400米、南北約500米。内郭は頂上屋根の鞍部を巧妙に活用して、本丸・東の九・ライゲンガ丸・中の丸。井戸郭は斜面の中腹から張り出したふたつの屋根を利用している。大手側の固めは寺跡の郭・鐘の段・東番所跡・八百の段・南番所跡・紫竹の丸・シンゾウス郭・西番所跡などが巧妙に配置されている。 これらの郭はすべて地山を削平し又切削り、あるいは掘切って必要な箇所は石積みで補強し随所に帯曲輪・竪堀を設けている。特に近世城郭に関連する枡形や枡形城門の採用が各所にみられる。 三原城に城の石垣の大石を残らず運んだと言われているにもかかわらず各所に石垣の一部が残存している。頂上に近い井戸郭には石積みの大井戸が七ヶ所もあり大勢の武士や婦女子が山上生活をしていた事を物語っている。 中世から近世への過渡期の大規模な山城として最も典型的なもので、中世の山城はもちろんの事、近世の平城研究に欠く事の出来ない貴重な城跡である。 隆景は永禄10年(1567)頃から三原を前進基地として重んじる様になる。後に移封によって伊予の道後(湯築)城、筑前の名島城にと居城を移すがこの間も新高山城は小早川氏の本拠の城として確保した。慶長元年(1596)名島より帰城。三原を隠居所と定め三原城を修築(修造)するにあたり新高山城は壊された(廃城)。 ◎隆景は新高山城を45年間使用した。 ◎永禄4年(1561)毛利元就・隆元父子が来城、10日間滞在。会所・表座敷・裏座敷・高間。常の茶の湯の間などの建物で、連日能楽や連歌、太平記読み等催して饗応接待している。 ◎天正5年(1577)南側中腹の郭(寺屋敷跡)に雲門山匡真寺を建て隆景は父元就七回忌、母妙久三十三回忌の法要を執行している。 ◆新高山城の築城(高山城副塁) 文永7年(1270)4代茂平死去、6年後5代雅平、高山城の副塁として築城。 現在の明智寺裏山の鐘の段、現在初期城と呼ぶ。 ◆新高山城の畝状竪堀 新高山城にはケヌキ場の地名がある。この場所に畝状竪堀がある。 この遺構は主に揚手に見一受けられ、新高山城の場合も揚手にある。 合戦になれば上の郭に石を置いて敵がこの堀の溝を登ってくれば上から石を落して防戦したのである。 竪堀は現在幅2米、高さ0.8米位で、昔は高く幅もあったと思える。 竪堀の長さは10米~40米。斜面の形状で異なる。 ◆畝状竪堀の場所 ①寺屋敷の西側 ②二の丸(西の丸)の下の郭南側 ③北の丸北番所西南側 ④出丸(小川工業)裏山 その他探索するとみつかる可能性有り。 (昭和32年調査資料・昭和62年調査改訂版) 安達先生の資料を転載させて頂きました。先生には心より感謝しております。 新高山城跡・詰の丸にて再拝読。 新高山城は登山道が整備され要所に案内標示・説明板が設置され誰でも気軽に探訪出来るが老人の単独行なので安全第一を心掛けて大手道を中心に登りその遺構を見学。 探訪コースは沼田川西岸県道沿にある新高山城登山者専用駐車場に車を停めて本郷町水道管理事務所前にある「新高山城大手道入口」の案内板に従って山麓南側の谷より大手道に入る。 登山道途中に設置された案内説明板で見学コースを確認して登山開始。 大手道坂道を登ると左側に鐘の段入日の標示と右側(東側)に三段の曲輪番所跡(下段より、下の段・中の段・軽石の段)を見て廻り、大手道正面突当り寺屋敷・匡真寺跡を探索して、きつい急坂を足をすべらせながら登り山上屋根に築かれた新高山の中枢二の丸。本丸郭屋敷跡の遺構をじっくりと見学して詰の丸に登り標高197・6米の最頂上より眼下の展望を楽しんだ。沼田川束の眼前に高山城の全稜や沼田川流域が一望である。 下山は本丸の北側の遺構U字形に張り出した屋根上東側のライゲンガ丸・東の丸・出丸・西側の中の丸、その間の谷に広がる釣井の段と石組の大井戸を見て、本丸郭北斜面に築かれた大石垣・大手門跡、その階段跡や土塁・堀切。・空堀などの強固な構えと縄張りをゆっくりと見て廻り、石弓の段・西の丸・ボケの段・三の丸・北の丸・北番所曲輪、そして西の丸から北番所曲輪の南西面斜面に連なる畝状竪堀などを観て北の丸より大走り、今は消えて藪の中のケモノ道となってしまった道なき道を南斜面へ下った。(絶対単独行ではやってはいけない行為、私の悪いクセだが…) 南斜面上の紫竹の段やシンゾウス郭・西番所跡の諸曲輪・雑木雑草で藪状の中を歩き廻って小番谷の林道へおりる事が出来た。小番谷の林道より「初期城郭」と伝わる鏡の段とそのまわりの八百の段などを見て廻り、明智寺にお参りして無事下山出来た御礼を言って寺の石垣と積み方を観察、駐車場へ戻った。 朝8時登山開始、下山午後4時過ぎ、8時間余の探訪だが、まだ見学遺構が数多くあり心残りであったが、次国の探訪を楽しみにして帰宅した。 古高山城。新高山城の遺構については、再探訪を行い、確認をして、又記したいと考えております。管理人 tanaka@pop06.odn.ne.jpAdministrator備陽史探訪の会