1985年01月20日

福山の「とんど」について

備陽史探訪:23号」より

加藤 惣一

福山市のとんど祭りの歴史を探る

福山の「とんど」は、もともと近郊の正月行事として広く行なわれていた「とんど」は(「さぎちょう」の異名)が、元和3年(1613)水野勝成の福山築城に伴って整備されたのに始まるとされている。以来明治4年(1871)の廃藩置縣までの藩政時代250年間、正月ごとに福山30町鞆6町の「とんど」36本がきらびやかに繰り出され、囃音頭とともに町内を巡行して、最後に、それが華やかにはやし焼かれたのを想像すると、たしかに城下町福山の正月の偉観であったにちがいない。

その間、元禄11年(1698)水野家退散、元禄13年(1700)松平家入城、宝永7年(1710)阿部家入城等、為政者の変動にもかかわらず、連綿と引き継がれてきたのは、これが、もともと、民家を基盤とするものであったからであろう。

福山の「とんど」の代表は、吉津の「とんど」であった。他町もこれを公認してきたのは、はじめて水野勝成公の観覧に供したとき、吉津の「とんど」鶴亀(つるかめ)を筆頭にして、上魚屋町の懸鯛(かけだい)、下魚屋町の伊勢海老(いせえび)、笠岡町の諫鼓鶏(かんこどり)の飾物が、とくに逸であるとほめられたのによるとされている。そのため、この四町の「とんど」の飾物だけは以後変えることがなかったというのは、民衆のものである「とんど」が、一方では為政者によって権威づけられていた事情を思わせるものがある。

福山の「とんど」は、明治維新以後も小さく形を変えて続けられてきたが、昭和3年(1928)11月10日、現在の天皇※の即位式のお祝いに繰り出したのを最後にして、その後、全町が揃って繰り出すことは無くなったようである。そして今日、戦災によって焦土となった後、工業都市として再建された福山では、市民会館の緞帳(どんちょう)に、その面影を残しており、福山駅頭に観光用に建てられたこともあり、ばら祭りなどに子供たちによって小さな山車(だし)の形で繰り出されたりしてはいるが、いつしか正月行事のすがたは消え、全福山の「とんど」の姿は見えなくなっている。

われわれ年配の者は、宴会のあとなど、次のような囃音頭(はやしおんど)をうたっておさめる習慣があった。ある老婦人は、幼い時に「とんど」の行列に出て、はやしたものだと言って、声に出してうたってくださった。

とんーど、とんどーと、吉津のとんど。ヨイヨイ。
上はー鶴かーめー、ちょいと五葉の松。ソラヨーイ、ヨーイ、ヨイヤナー。ハラリャー、コラリャー、ハーヤー、ヤトエー。見たーかー、見て来たーカー、福山の城を。
前がーお掘りで、ちょいと、鯔(ボラ)がーすーむー。(下略)

なお、「さぎちょう」を「とんど」と言うようになったのは近世で、その理由は正確でないが、恐らくは、その火の燃えるのをはやした言葉から来たのであろう。これは福山地方に限られたものではなく、正月14日・15日(小正月)に門松・竹・しめなわなどの飾物にあわせて物を焼く習慣は古く宮中から始まって一般にひろがっていたのである。

※昭和天皇