1995年08月12日

立石さんを偲ぶ(立石定夫氏と備陽史探訪の会の関わり)

備陽史探訪:66号」より

田口 義之

立石定夫先生と

在りし日の立石さん 平成5年度忘年会にて(於ワシントンホテル)

あれは確か昭和五八年の秋だったと思うが、立石さんから葉書が来た。「一度遊びに来なさい」という文面だった。それまで立石さんと面識がなかった私は、行こうか、行くまいか随分迷ったが、晩秋のある日、当時三吉町にあった立石事務所をたずねてみた。

立石さんと言うと、元福山市長で衆議院選挙に立候補されたりして、どんな人かなと思って訪ねてみると、意外にと言うか、知らなかったと言うか、大変歴史好きな人で、話が弾んで初対面の私と二時間計り郷土史の話をしたように記憶する。まだ当時は大病を患われる前で、引き締まった風貌には精澤さが漲っていた。

以来、昨年一〇月再び病で倒れられるまで、常に身近にあってその人柄に接する事が出来た。特に昭和五九年脳梗塞で倒れられてからは、ご著書の史料調査などで、ご不自由な右手代わりとして同行させて頂き、その高潔な人格に触れることが出来たように思う。

ここで立石さんのお人柄云々、と言うような不遜なことを述べようとは毛頭思っていない。ただ一〇年間の触れ合いの中で思い出に残ることをご披露して先生を偲ぶよすがとしたい。

立石さんのお話しの中で、一番頭に残っているのは、人との接し方である。

”つかず離れず”が良い。田口君、人生は長い 余りくっつき過ぎるといつかお互い気まずい思いをするときが来る、つまらん事で大事な友を失うのは馬鹿らしいじゃないか…。

また、”人からあれこれ言ってもらえるのは有り難いと思えよ。俺ぐらいになるともう誰も何も言ってこん″というお言葉も耳に残っている。だからと言うわけではないだろうが、私には口うるさいほどのご助言を頂いたように思う。“礼状はすぐ出すように“礼”は電話でするな、簡単で良いから葉書でしろ…”

と言うわけで、この一〇年間を振り返って見ると、始めは気安く訪ねていた立石事務所も、次第に緊張して踏みいれるようになったことを告自しない訳には行かない。特にワシントンホテルに事務所を移されてからは、立石さんも再び気力を取り戻されたのであろうか、息つく間もない程のご著作で、先生の研究を手伝いながら”もうこんなところに来るのはやめてやろうか“と思うこともしばしばであった。

立石さんと備探の会のかかわりは、昭和六二年にさかのぼる。この年一二月六日、城郭研究部会の主催で「藤井皓玄と神辺合戦」と題して、岡山県の井原・芳井周辺の史跡を案内してもらったのがその初めである。丁度このころ、立石さんは『神辺城と藤井皓玄』と言うご著作の出版準備中で、出版より先に会でその研究成果をご披露頂いたわけだ。以来、バス例会は翌昭和六三年十月三〇日の「備前宇喜多氏を訪ねて」、昨年六月の「水無月の津山を味わう旅」で講師を務めて頂き、講演会も昨年二月五日には新装なった義倉の会議室で”お汁粉”に舌鼓を打ちながら「義倉創立の志」と題してお話し頂いたのは記憶に新しいところである。

また、立石さんの思い出で忘れてはならないのは、平成元年九月の一泊旅行「山陰杉原盛重紀行」である。先生は同年『神辺城と藤井皓玄』の姉妹編として皓玄のライパルであった杉原盛重の伝記を著述されており、その成果を会員に、ということで講師をお願いしたのであった。

この一泊旅行は私にとっても忘れ難い思い出である。実を言うとこの出版に当たっては、私は当初より調査その他で先生のお供をしており、旅行の下見を入れると三度同じ場所を訪ねたことになる。また、この旅行が武島さんとの最後の旅行となったことも忘れ難い思い出である。

あの暑い初秋の一日.立石さんと武島さんと三人で、米子城跡の本丸を汗を拭きながら散策した。思えば、武島さんはこのとき既に病が昂じて相当苦しい旅であった筈だ。立石さんも同様である。不自由な右足をひこずりながらの登山であった。ご両人は不思議と気が合い、武島さんの墓参りをしたいというのが立石さんの口癖であったのだが…。

立石さんの我々を想う気持ちは格別のものがあったように思う。昨年十月病で倒れられた後、数日して病院に呼ばれた。「なにごとだろうか、もしや…」と思って大急ぎで訪ねて見ると、「広島文化賞の祝賀会はどうなったか」と不自由なお口で言われた。私が状況をご説明申し上げると、「うんうん」と頷かれて、「是非来てくださいよ」と言うと、振り絞るような口調で、「おお行くけえのう。いくど…」と言われた。これが私と先生との永遠のお別れになろうとは…。思えば先生との約束でまだ果たしていないことが多い。美作の矢筈城跡の探訪もそうだし、実は今年三月の白旗城の例会も最初の予定では先生にご案内頂くことになっていたのである。

先生の余りに早いご逝去は、会と私に大きな宿題を残されたと言える。今となっては取り返しのつかないことが多いが、その付託にお応えすることこそ残された者の務めであると思っている。(平成七年七月二一日、立石さんの遺影を拝しつつ、合掌)