1995年05月27日

淵上城跡(府中市土生町)

山城探訪」より

杉原 道彦

淵上城跡

淵上城跡

かつて備後国国府の所在地とされる府中市街を、北西に伸びる国道四八六号線を左折し、県道四八号松永線を一キロ程車を走らせると芦田川の土手に出る。扇橋を渡り切り初めての信号を右折、声田川の右岸土手を上流に一キロ進めば前方に小丘が目に入る。眼下を流れる芦田川の大淵があったことから名付けられたのが、土生町に残る淵上城跡である。

城は、標高八六メートルの独立小丘の山頂部を三段に削平しただけの単純な構造である。現在、周辺に整備されている城山浄水場や勤労青少年ホームの建設に伴い、遺構の一部が破壊されている。平地からの比高は、五三メートルである。

淵上城跡略測図 1/2500

淵上城跡略測図 1/2500

山頂の主郭部は、北から東にかけて長さ二四メートル、幅は六メートルから四メートルを測る細長い曲輪で、見張り台跡と考えられる。東に幅ニメートル、長さ二〇メートルの土塁を下って②郭に続く。②郭は、主郭に平行して四メートル下って長さ五五メートル、幅一六メートルから一二メートルを測り、城の中心をなす規模の大きな曲輪である。南に六メートル下って舌状に伸びた長さ二〇メートル、幅一八メートルから一〇メートルの③郭を築いて、二条の竪堀によって南方からの攻撃に備えている。北方は、②郭から六メートル下って鞍部中央から伸びた竪堀と、五本の畝状空堀を備えて山麓から攻め上ってくる敵を阻止している。東方は、崖の途中から道路工事によって斜面が破壊されている。城跡の道路中央の斜面には、井戸跡が縦割りの状態で遺構を止めている。城の弱点である西方は、かつては曲輪などで防備がなされていたと考えられる。麓の勤労青少年ホームは居舘跡と言われ、城山荒神社、同権現社の祠がひっそり祀られている。

山頂からは、北方に聳える杉原氏惣領家の本拠八尾城跡、宮氏や庶家有地氏の拠った芦品郡新市町の亀壽山城跡、相方城跡を見通すことができ、要所を占めていたことが窺える。何れも、直線距離で三キロメートルの位置にある。

『備後古城記』によれば、淵上城主として杉原民部大輔元経(天文年中)、同七郎左衛門尉経珍(つねよし)、同宮内少輔廣盛(文禄二年落城)、同又四郎とある。城跡北方に残る釈迦院(旧實蔵寺)には、木梨城主杉原又太郎信平が守り本尊の観音像を安置し、創建したと伝えられている。同様に、栗柄町の南宮神社に四二貫文、西龍寺に寺領三二貫文を寄進した記録が残っている。また、対岸の府川町の法楽寺に残る棟札によると、天文二一年(一五五二)に淵上城の祈願寺として大願主杉原播磨守盛重、木梨民部大夫元経、木梨七左衛門尉経珍が再建している。『福山志料』によれば、

杉原氏は隼人佐胤平が裔なり。胤平もと鎌倉に仕ふ。相模入道がとき、故ありて此に来る。その子又太郎信平、又次郎為平、足利氏を援けて功あり。備後木梨庄を賜る。

とあるように、木梨杉原氏は備後国衛の在庁官人であった杉原氏惣領家伯耆守光平の庶家である。

『芸藩通志』等よれば、杉原又太郎信平と弟又四郎為平が建武三年(一三三六)に足利尊氏に従い筑前多々良浜の戦功で、御調郡木梨荘、本荘の地頭職を与えられ木梨杉原氏の始祖となっている。この木梨杉原氏の本拠は、尾道市木ノ庄町木梨の鷲尾山城に移って行くが、康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」にみる杉原彦四郎備後国(御調郡)木梨荘、一二貫三七六文とあるように、惣領家を上回って現在の栗柄町や土生町にまで勢力が及んでいたと思われる。

淵上城は、かつての木梨荘の最北端と考えられ、芦品郡の宮氏や府中市久佐町の楢崎氏などと境を接していることや、周辺の栗柄町に残る杉原伯耆守元康の家臣徳毛監物基門の拠った土居城跡、加賀良八郎の拠った南宮後山城跡、福田助三郎の拠った加山城跡などが残っていることから、境目の城として機能していたと考えられる。

『福山志料』によれば、木梨七郎左衛門貞廣の養子政行(妻は貞廣の女静野)は、慶安四年(一六五一)に水野勝俊より薪奉行に召し抱えられ、水野家断絶時の中小姓木梨六右衛門など淵上城主の後裔が、辛うじて名を止めている。現在、淵上城史跡森公園として地元の手で整備されている。頂上へは、城跡を少し通り過ぎた左手(西)前方、公園の看板を目印に車を停め、十分程で簡単に登ることができる。城跡を横切る芦田川の右岸道路は、交通量が多いので事故のないよう車には充分に注意していただきたい。

《参考文献》
得能正通編「備後叢書」
菅茶山編「福山志料」
芦品郡役所編「芦品郡誌」
新入物往来社刊「日本城郭全集」(十二広島香川徳島版)
杉原茂「八ツ尾山 杉原城主記」
立石定夫「神辺城と藤井皓玄」
立石定夫「杉原盛重」
田口義之「八尾城史」
もとやま第十六号保育社刊「日本の古代遺跡・二六・広島」

【淵上城跡】