備後の祇園信仰~新市町の素戔鳴神社と鞆の沼名前神社を訪ねて~

ふるさと探訪」より

種本 実

第二部民俗編 其の二

素戔鳴神社と沼名前神社位置図

身近な祇園さん

私たちの住む町、村に鎮座する社には様々な祭神がみられる。広島県内の宗教法人に登録してある神社のうち、最も多いのは応神天皇を主祭神とする八幡神社であり二十五%(約六八〇社)であるが、次に多いのが須佐之男命を祀った神社である。備後では八坂神社として八十七社、安芸では荒神として約八十社、その他二十社が主祭神としている。尚、明治維新の神仏分離令により、それまで祇園社、牛頭天王(ごずてんのう)社と称していた社名は八坂神社、須佐神社、素戔鳴神社などと改称された。古事記では須佐之男命、日本書紀は素戔鳴命と記す。福山市内では、素戔鳴神社が五社、須佐神社は一社登録されている。

祇園さん

京都の祇園祭といえば七月十六日の宵山、十七日の山鉾巡幸を頂点に、京都の代表杓な夏祭りの一つとして」有名である。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」あまりにも有名な『平家物語』の冒頭の一節にある、祇園精舎とはインド舎衛国にあった祇樹給孤独園(ぎじゅぎこどくおん)という寺のこと。須達長者が釈迦のために寄進したといわれる。

祇園祭の祇園さんとは京都の八坂神社であり、主祭神は須佐之男命である。須佐之男命は天照大御神の弟であるが、高天原での乱暴狼籍により地上に追放された。地上においては、八岐大蛇の退治など人々の苦しみを取り除いてくれる「祓の神」として信仰された。

備後の三大祇園宮

出雲で八岐大蛇を退治した須佐之男命は、芦田川を下って南海を平定し結婚し、稲田比売が生んだ八人の王子を連れて再び備後に帰ったという。芦田川沿いの甲奴郡甲奴町小童(ひち)、芦品郡新市町戸手、福山市の鞆町にある各々の祇園さんは須佐之男命の伝承を裏づける備後の三大祇園宮として名高い。このうちの三社(戸手・鞆)は、平安時代中期の延喜年間に定められた「延喜式」に記載されて、国家から崇敬を受けた三一三二座の神々の中にも含まれている由緒ある神社である。そもそも、京都の祇園社は備後の三大祇園宮に由来するともいわれている。本篇では福山市近郊の、戸手と鞆に鎮座する祇園宮を紹介することにしたい。

蘇民将来(そみんしょうらい)伝説

元明天皇は和銅六年(七一三)、各地の地名の由来や伝説などを編纂するよう命じた。『釈日本紀』に収められた「備後国風土記」逸文に記された蘇民将来伝説によれば――武塔(むとう)の神が南の海の神の娘を妻に迎えようと訪ねる途に疫隈国(後述の素盞鳴神社)において裕福な弟の将来に宿を乞うたが拒絶され、兄である蘇民将来に乞うと快く泊めてくれた。やがて武塔の神は数年後、八人の子を連れて帰ってきて「吾は速須佐能神なり。後の世に疫病がはやったら、蘇民将来の子孫だと言い、茅の輪を腰に付けた人は免れるだろう」と言って、蘇民の娘をひとり残してことごとく殺し滅ぼしてしまったという。

牛頭天王

奈良時代には国家を守るためとしての仏教が信仰され、そして日本古来の神は仏法を護るといわれ、神仏習合の思想が生まれた。また吉備真備により、祇園精舎の守護神である牛頭天王と須佐之男命を同一であるとする説が流布された。この説によれば、真備が唐から帰国する途中、播磨の沖で陸を眺めると、気高く崇高な峰が見えた。あまりに脳裏に焼きついていたので後日登ってみると、一人の老人が現われ、「自分は、武塔天神の化身、牛頭天王である。民を守るためにこの峰に登って久しく住んでいる。速やかに自分の事を流布せよ」と言った。そこで真備はこの播磨の広峰に牛頭天王社を造営し、武塔天神が降臨していると宣言した。

このように、日本の武塔天神とインドの牛頭天王が同化して、祇園さんとして須佐之男命の別称となり、津々浦々に広まったといわれる。姫路市の広峯神社は、天平五年(七三三)吉備真備が鎮祭したことに始まると伝わっている。また、貞観十一年(八六九)分霊を山城国に遷じたのが八坂神社といわれる。また一説には、広峰の牛頭天王は後述する戸手の江熊天王社から分霊されたともいわれる。

八坂神社

九世紀中半から京都に疫病が流行したが、これは世に恨みを持つ人々の怨霊といわれ、その霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)が行われた。八坂神社は牛頭天王と須佐之男命という疫病除けの神を祭神としているところから、天禄、天延年間(九七〇~九七五)より祇園御霊会が行われ、神徳が広まった。明治元年に神仏分離が行われ、主祭神は須佐之男命と明確化された。前述したように八坂神社創建の発端は、貞観十一年(八六九)に円如上人が山城国愛宕八坂郷に御堂をたてて、そこを祇園と称して皇族貴族をはじめ、都の人々を疫病から守ることを祈願したことによる。さらに貞観十八年(八七六)、時の摂政藤原基経が一族の無病息災と栄達を祈って、寝殿造りの大邸宅付近に大社殿を造築したのが八坂神社と言われている。当時、藤原氏の貴族たちが次々と疫病にかかり、死亡することに畏怖した藤原基経が、所有する備後の荘園を通じて耳にした小童に祀られてある須佐之男命を八百萬の神々で最も加護が得られる神として、自分の住む八坂郷に勧請したともいわれる。祇園さんの発祥は備後にあるといわれる所以である。

素戔鳴神社

場所
芦品郡新市町戸手
交通
福塩線上戸手駅から北西約二百メートル
祭神
素嚢鳴命、稲田比売命、八王子
本殿
入母屋造、千鳥破風、桧皮葺
拝殿
入母屋造
西城門
二層楼門
鳥居
明神鳥居

創建由来

社伝によれば、天武天皇御宇(ぎょう)(六七二~六八六)の創祀にして、醍醐天皇御宇(八九六~九三〇)に再営されたという。さらに、天文年中(一五三二~五四)に相方(さかた)城主有地(あるじ)氏が再造し、寛永年中に福山城主水野公によって修理、その後破損したので天明及び、寛政年中に再造修復したと伝わる。

伝承

当地は古代「江熊の里」又は、「江隈」とも呼ばれたことから、穴の海の入り江であったと推定される。奈良時代には山陽道がこの辺りを通ったので、交通の要所として「江熊市」の栄えたところであった。神仏習合の時期には「早苗山・天竜院天王寺」と称されたこともある。古来から「戸手の天王さん」として親しまれてきた。また江戸期の享保と天明の一揆には、当社が農民の集合場所となっていた。この地方の中心的な存在であり、福山藩主の保護も厚かったという。

「備後国風土記」逸文に記されている「疫隈(えのくま)の国社(くにつやしろ)」に比定されていて、式内社「須佐能袁神社」の前身とする説が古くからあった。前述した蘇民将来伝説発祥の地ともいわれ、拝殿の南側には蘇民神社が蘇民将来を、疱瘡(ほうそう)神社が比比羅木其花麻豆美神を祀ってある。当社は蘇民将来の屋敷跡とも言われている。

茅の輪くぐり大祓式

蘇民将来伝説による神事で、備後地方を中心に行われている茅の輪くぐりは「備後国風土記」逸文にある当疫隈社が発祥の地と伝わる。直径が約ニメートルの茅の輪をくぐりぬけ、穢(けが)れを取り除き、心身の清浄を祈願するもの。茅とはすすきなど多年生草木の総称。旧暦の六月三十日の夜、現在では八月の八日に行われている。「夏越(なごし)」の祭の一つであり、疫病が発生する夏の始めに避疫のまじないとした。また当地方においては、直径十センチ位の小さな茅の輪を玄関の上に貼り付け、蘇民将来の子孫であるとする風習も伝承されている。

「茅の輪くぐり」素戔鳴神社
「茅の輪くぐり」素戔鳴神社

祇園祭

当神社の祇園祭も、京都の祇園祭と同時期の平安中期に始まったと言われている。現在では毎年七月の第三の金土日曜日に行われ、十一月に行われる吉備津神社の大祭とともに、新市町の二大祭として有名である。

無言の神事

祇園祭の最終日「けんか御輿(みこし)」として勇壮な神輿が蔵に収められて後、吉備津神社より宮司、禰宜(ねぎ)が参拝する。昇殿して、幣帛(へいはく)十二本と神饌(しんせん)を供え、祝詞を奏上し、当社の神官に無言のまま一礼して下社する神事。この神事の由来などは不明だが、その昔当疫隈社の領地に吉備津宮を造営したので、吉備津神社からお礼の挨拶があったことに由来すると推察される。

「けんか御輿」素曳鳴神社
「けんか御輿」素曳鳴神社

磬(けい)

中国の楽器で、わが国では仏具として使用した。当社に伝わる磬は横三十センチ縦二十センチの銅製で銘として

備後国深津郡江熊牛頭天王社再興之事依瑞想天文九年四月十日始 釿同廿日成就鐘鋳之事(以下略)

とあることから、当地が品治郡となる以前、往古は深津郡内であったことがわかる。

楼門

相方城の城門が二棟移築されてある。天正年間(一五八〇年頃)の建築様式を知ることができる。東側の保存がよい門については、切妻造りの薬医門で高麗門が普及する以前の簡素な意匠であることが分かる。関ヶ原の戦い以前の城門は、当地の二門と、島根県益田市に現存するのみという。

沼名前神社

場所
福山市鞆町
交通
鞆鉄バス安国寺下で下車三百メートル
祭神
大綿津見命 須佐之男命
本殿、拝殿
昭和五十年の元旦に焼失後外壁は鉄筋で再建された。
摂社
境内に渡守神社と八幡神社が祀られている。
第二鳥居
鳥衾(とりぶすま)形鳥居と言われ、熊本県に多いので肥前鳥居の別称もある。笠木の両はなに鳥余の形の石が載せられてある特異なもので県の重要文化財指定となっている。
能舞台
元和六年(一六二〇)伏見城解体の際、水野勝成が二代将軍秀忠から拝領し、三代勝貞の時当社に寄進し、毎年六月の祭礼の際、神能を奉納していた。組立式能舞台として唯一の物であり昭和二十八年国の重要文化財の指定を受けた。
石灯籠
拝殿前左右に建つ近世初期の石灯籠の形式を示すもので市の重要文化財の指定を受けた。慶安四年(一六五一)水野勝貞から祖父勝成の病気快癒を祈願し寄進されたもの。

創建由来

旧社として渡守神社と祇園社が祀ってあった。明治八年に渡守神社を沼名前神社と認め、翌九年官命により渡守神社の祭神である大綿津見命を本殿に奉じ、祇園さんである須佐之男命は相殿神となった。祇園社はもと関町の浜辺に鎮座していたが、平安時代に後地へ移転、その後も造営が繰り返された。慶安元年(一六四八)水野勝成が現在地に再建し、さらにその後の修理が繰り返される毎に位置を上方へ移し、境内を拡張した。歴代の領主の尊崇を受けた。渡守神社は渡札の辻という坂に鎮座していたが、慶長四年(一五九九)焼失し、福島正則が後地へ祇園社と並べて再興した。その後、貞享二年(一六八五)水野勝貞の時現在地に新築した。

伝承

神功皇后が三韓へ渡海する途中、鞆沖で霊石が海中からわきでたので、この石を渡守の神即ち、「わだつみ(海)」を守る神として浦に祀り、戦勝を祈願したという。また、凱旋の時、腕に巻いていた武具「高鞆」を奉納したことに由来して、後、八幡神社が祀られた。以来、渡守神社は瀬戸内海の航路安全を祈願する神社として大変栄えた。

祇園社は「疫隈の国社」とも言われたが、エノクマとヌマクマを同一視した誤りであると推定される。須佐之男命が南海への船出の際、この地に舟着けしたと言われているところから祀られた。

御弓神事

八幡神社に伝わる神事で、市の無形文化財に指定されている。旧正月の七日に近い日曜日に行われる。境内に弓場を設け、約二十八メートル離れた的場から大弓主、小弓主が二本ずつ三回計十二本(十二月分)の矢を射る。 一年の邪鬼を祓う意味が込められてあるといわれている。的は径約一・八メートルで、三重の白黒円が描かれ、裏には甲乙無しと書いて甲乙無し(勝負なし)と読ませる。

射主は二十代から三十代の若者が大弓主、小弓主に、他に小姓として小学生二名が、矢取として二~三才児二名が務める。鞆二十三町のうち七町の氏子が輪番で諸役を受ける。前夜、叙位詣を行い、射主は従五位の下の仮官に叙される。これは神事の際、素襖長袴姿を許される位につくためである。

神事を務める男性は禊として、前夜から男性だけで生活する。「別火」して「潔斎」すると言われ、かつては七日間行っていた。神事が終われば、観衆は競って大的を家に持ち帰り、家内安全の護符だとして人口にうち付けている。

「お弓神事」沼名前神社
「お弓神事」沼名前神社

御手火神事

旧六月七日に近い土曜日の夜。翌日御輿がお旅所へ渡御(とぎょ)する前に、火をもつて神前と町内を清める行事。神前で火きりでおこされた神火を神前手火に移して、白装束の奉仕者が石段を駆け下りて大手火に点火する。松で作られた長さ四・五メートル、重さ二三〇キロの三体の大手火は、当番三町の若者により担がれ、若者達は頭から何度も水をかぶりながら、三十メートルの石段を一時間半かけて登る。大手火を拝殿前に安定した後、御輿を出して回し、再び大手火を境内くまなく回し当番町に持ち帰り神事は終わる。参拝者は小手火に火を移して持ち帰り、家の内外を火で清める。最後に蝋燭に点火し神棚に供え家内安全を祈る。御弓神事、御手火神事は鞆の浦歴史民俗資料館においてビデオ放映による紹介と、用具など実物を見学できる。

「お手火神事」沼名前神社
「お手火神事」沼名前神社

あとがき

祇園さんの由来と、新市町戸手と鞆に祀られてある祇園宮を紹介した。京都の八坂神社(祇園社)は、社伝によれば、斉明天皇の頃(六五六)八坂氏の祖によって新羅国牛頭山に座す素戔鳴尊の霊を八坂郷に祀ったことに由来するという。一方で前述したように、備後から分霊を祀ったものとの説もあり、また、スサノオノミコトを祀る神社は鳥根県の熊野神社、埼玉県の氷川神社など全国各地にある。一体祇園さんの本家本元はどこなのか。蘇民将来とは何人なのか。今後の研究課題とし閣筆する。

主な参考文献
広島県神社誌・福山散策(付上正名著)
備後祇同略史・芦品郡史・沼隈郡史
素戔鳴神社御参拝のしおり
沼名前神社略記

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出雲で八岐大蛇を退治した須佐之男命は、芦田川を下って南海を平定し結婚し、稲田比売が生んだ八人の王子を連れて再び備後に帰ったという。芦田川沿いの甲奴郡甲奴町小童(ひち)、芦品郡新市町戸手、福山市の鞆町にある各々の祇園さんは須佐之男命の伝承を裏づける備後の三大祇園宮として名高い。このうちの三社(戸手・鞆)は、平安時代中期の延喜年間に定められた「延喜式」に記載されて、国家から崇敬を受けた三一三二座の神々の中にも含まれている由緒ある神社である。そもそも、京都の祇園社は備後の三大祇園宮に由来するともいわれている。本篇では福山市近郊の、戸手と鞆に鎮座する祇園宮を紹介することにしたい。 蘇民将来(そみんしょうらい)伝説 元明天皇は和銅六年(七一三)、各地の地名の由来や伝説などを編纂するよう命じた。『釈日本紀』に収められた「備後国風土記」逸文に記された蘇民将来伝説によれば――武塔(むとう)の神が南の海の神の娘を妻に迎えようと訪ねる途に疫隈国(後述の素盞鳴神社)において裕福な弟の将来に宿を乞うたが拒絶され、兄である蘇民将来に乞うと快く泊めてくれた。やがて武塔の神は数年後、八人の子を連れて帰ってきて「吾は速須佐能神なり。後の世に疫病がはやったら、蘇民将来の子孫だと言い、茅の輪を腰に付けた人は免れるだろう」と言って、蘇民の娘をひとり残してことごとく殺し滅ぼしてしまったという。 牛頭天王 奈良時代には国家を守るためとしての仏教が信仰され、そして日本古来の神は仏法を護るといわれ、神仏習合の思想が生まれた。また吉備真備により、祇園精舎の守護神である牛頭天王と須佐之男命を同一であるとする説が流布された。この説によれば、真備が唐から帰国する途中、播磨の沖で陸を眺めると、気高く崇高な峰が見えた。あまりに脳裏に焼きついていたので後日登ってみると、一人の老人が現われ、「自分は、武塔天神の化身、牛頭天王である。民を守るためにこの峰に登って久しく住んでいる。速やかに自分の事を流布せよ」と言った。そこで真備はこの播磨の広峰に牛頭天王社を造営し、武塔天神が降臨していると宣言した。 このように、日本の武塔天神とインドの牛頭天王が同化して、祇園さんとして須佐之男命の別称となり、津々浦々に広まったといわれる。姫路市の広峯神社は、天平五年(七三三)吉備真備が鎮祭したことに始まると伝わっている。また、貞観十一年(八六九)分霊を山城国に遷じたのが八坂神社といわれる。また一説には、広峰の牛頭天王は後述する戸手の江熊天王社から分霊されたともいわれる。 八坂神社 九世紀中半から京都に疫病が流行したが、これは世に恨みを持つ人々の怨霊といわれ、その霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)が行われた。八坂神社は牛頭天王と須佐之男命という疫病除けの神を祭神としているところから、天禄、天延年間(九七〇~九七五)より祇園御霊会が行われ、神徳が広まった。明治元年に神仏分離が行われ、主祭神は須佐之男命と明確化された。前述したように八坂神社創建の発端は、貞観十一年(八六九)に円如上人が山城国愛宕八坂郷に御堂をたてて、そこを祇園と称して皇族貴族をはじめ、都の人々を疫病から守ることを祈願したことによる。さらに貞観十八年(八七六)、時の摂政藤原基経が一族の無病息災と栄達を祈って、寝殿造りの大邸宅付近に大社殿を造築したのが八坂神社と言われている。当時、藤原氏の貴族たちが次々と疫病にかかり、死亡することに畏怖した藤原基経が、所有する備後の荘園を通じて耳にした小童に祀られてある須佐之男命を八百萬の神々で最も加護が得られる神として、自分の住む八坂郷に勧請したともいわれる。祇園さんの発祥は備後にあるといわれる所以である。 素戔鳴神社 場所 芦品郡新市町戸手 交通 福塩線上戸手駅から北西約二百メートル 祭神 素嚢鳴命、稲田比売命、八王子 本殿 入母屋造、千鳥破風、桧皮葺 拝殿 入母屋造 西城門 二層楼門 鳥居 明神鳥居 創建由来 社伝によれば、天武天皇御宇(ぎょう)(六七二~六八六)の創祀にして、醍醐天皇御宇(八九六~九三〇)に再営されたという。さらに、天文年中(一五三二~五四)に相方(さかた)城主有地(あるじ)氏が再造し、寛永年中に福山城主水野公によって修理、その後破損したので天明及び、寛政年中に再造修復したと伝わる。 伝承 当地は古代「江熊の里」又は、「江隈」とも呼ばれたことから、穴の海の入り江であったと推定される。奈良時代には山陽道がこの辺りを通ったので、交通の要所として「江熊市」の栄えたところであった。神仏習合の時期には「早苗山・天竜院天王寺」と称されたこともある。古来から「戸手の天王さん」として親しまれてきた。また江戸期の享保と天明の一揆には、当社が農民の集合場所となっていた。この地方の中心的な存在であり、福山藩主の保護も厚かったという。 「備後国風土記」逸文に記されている「疫隈(えのくま)の国社(くにつやしろ)」に比定されていて、式内社「須佐能袁神社」の前身とする説が古くからあった。前述した蘇民将来伝説発祥の地ともいわれ、拝殿の南側には蘇民神社が蘇民将来を、疱瘡(ほうそう)神社が比比羅木其花麻豆美神を祀ってある。当社は蘇民将来の屋敷跡とも言われている。 茅の輪くぐり大祓式 蘇民将来伝説による神事で、備後地方を中心に行われている茅の輪くぐりは「備後国風土記」逸文にある当疫隈社が発祥の地と伝わる。直径が約ニメートルの茅の輪をくぐりぬけ、穢(けが)れを取り除き、心身の清浄を祈願するもの。茅とはすすきなど多年生草木の総称。旧暦の六月三十日の夜、現在では八月の八日に行われている。「夏越(なごし)」の祭の一つであり、疫病が発生する夏の始めに避疫のまじないとした。また当地方においては、直径十センチ位の小さな茅の輪を玄関の上に貼り付け、蘇民将来の子孫であるとする風習も伝承されている。 祇園祭 当神社の祇園祭も、京都の祇園祭と同時期の平安中期に始まったと言われている。現在では毎年七月の第三の金土日曜日に行われ、十一月に行われる吉備津神社の大祭とともに、新市町の二大祭として有名である。 無言の神事 祇園祭の最終日「けんか御輿(みこし)」として勇壮な神輿が蔵に収められて後、吉備津神社より宮司、禰宜(ねぎ)が参拝する。昇殿して、幣帛(へいはく)十二本と神饌(しんせん)を供え、祝詞を奏上し、当社の神官に無言のまま一礼して下社する神事。この神事の由来などは不明だが、その昔当疫隈社の領地に吉備津宮を造営したので、吉備津神社からお礼の挨拶があったことに由来すると推察される。 磬(けい) 中国の楽器で、わが国では仏具として使用した。当社に伝わる磬は横三十センチ縦二十センチの銅製で銘として 備後国深津郡江熊牛頭天王社再興之事依瑞想天文九年四月十日始 釿同廿日成就鐘鋳之事(以下略) とあることから、当地が品治郡となる以前、往古は深津郡内であったことがわかる。 楼門 相方城の城門が二棟移築されてある。天正年間(一五八〇年頃)の建築様式を知ることができる。東側の保存がよい門については、切妻造りの薬医門で高麗門が普及する以前の簡素な意匠であることが分かる。関ヶ原の戦い以前の城門は、当地の二門と、島根県益田市に現存するのみという。 沼名前神社 場所 福山市鞆町 交通 鞆鉄バス安国寺下で下車三百メートル 祭神 大綿津見命 須佐之男命 本殿、拝殿 昭和五十年の元旦に焼失後外壁は鉄筋で再建された。 摂社 境内に渡守神社と八幡神社が祀られている。 第二鳥居 鳥衾(とりぶすま)形鳥居と言われ、熊本県に多いので肥前鳥居の別称もある。笠木の両はなに鳥余の形の石が載せられてある特異なもので県の重要文化財指定となっている。 能舞台 元和六年(一六二〇)伏見城解体の際、水野勝成が二代将軍秀忠から拝領し、三代勝貞の時当社に寄進し、毎年六月の祭礼の際、神能を奉納していた。組立式能舞台として唯一の物であり昭和二十八年国の重要文化財の指定を受けた。 石灯籠 拝殿前左右に建つ近世初期の石灯籠の形式を示すもので市の重要文化財の指定を受けた。慶安四年(一六五一)水野勝貞から祖父勝成の病気快癒を祈願し寄進されたもの。 創建由来 旧社として渡守神社と祇園社が祀ってあった。明治八年に渡守神社を沼名前神社と認め、翌九年官命により渡守神社の祭神である大綿津見命を本殿に奉じ、祇園さんである須佐之男命は相殿神となった。祇園社はもと関町の浜辺に鎮座していたが、平安時代に後地へ移転、その後も造営が繰り返された。慶安元年(一六四八)水野勝成が現在地に再建し、さらにその後の修理が繰り返される毎に位置を上方へ移し、境内を拡張した。歴代の領主の尊崇を受けた。渡守神社は渡札の辻という坂に鎮座していたが、慶長四年(一五九九)焼失し、福島正則が後地へ祇園社と並べて再興した。その後、貞享二年(一六八五)水野勝貞の時現在地に新築した。 伝承 神功皇后が三韓へ渡海する途中、鞆沖で霊石が海中からわきでたので、この石を渡守の神即ち、「わだつみ(海)」を守る神として浦に祀り、戦勝を祈願したという。また、凱旋の時、腕に巻いていた武具「高鞆」を奉納したことに由来して、後、八幡神社が祀られた。以来、渡守神社は瀬戸内海の航路安全を祈願する神社として大変栄えた。 祇園社は「疫隈の国社」とも言われたが、エノクマとヌマクマを同一視した誤りであると推定される。須佐之男命が南海への船出の際、この地に舟着けしたと言われているところから祀られた。 御弓神事 八幡神社に伝わる神事で、市の無形文化財に指定されている。旧正月の七日に近い日曜日に行われる。境内に弓場を設け、約二十八メートル離れた的場から大弓主、小弓主が二本ずつ三回計十二本(十二月分)の矢を射る。 一年の邪鬼を祓う意味が込められてあるといわれている。的は径約一・八メートルで、三重の白黒円が描かれ、裏にはと書いて甲乙無し(勝負なし)と読ませる。 射主は二十代から三十代の若者が大弓主、小弓主に、他に小姓として小学生二名が、矢取として二~三才児二名が務める。鞆二十三町のうち七町の氏子が輪番で諸役を受ける。前夜、叙位詣を行い、射主は従五位の下の仮官に叙される。これは神事の際、素襖長袴姿を許される位につくためである。 神事を務める男性は禊として、前夜から男性だけで生活する。「別火」して「潔斎」すると言われ、かつては七日間行っていた。神事が終われば、観衆は競って大的を家に持ち帰り、家内安全の護符だとして人口にうち付けている。 御手火神事 旧六月七日に近い土曜日の夜。翌日御輿がお旅所へ渡御(とぎょ)する前に、火をもつて神前と町内を清める行事。神前で火きりでおこされた神火を神前手火に移して、白装束の奉仕者が石段を駆け下りて大手火に点火する。松で作られた長さ四・五メートル、重さ二三〇キロの三体の大手火は、当番三町の若者により担がれ、若者達は頭から何度も水をかぶりながら、三十メートルの石段を一時間半かけて登る。大手火を拝殿前に安定した後、御輿を出して回し、再び大手火を境内くまなく回し当番町に持ち帰り神事は終わる。参拝者は小手火に火を移して持ち帰り、家の内外を火で清める。最後に蝋燭に点火し神棚に供え家内安全を祈る。御弓神事、御手火神事は鞆の浦歴史民俗資料館においてビデオ放映による紹介と、用具など実物を見学できる。 あとがき 祇園さんの由来と、新市町戸手と鞆に祀られてある祇園宮を紹介した。京都の八坂神社(祇園社)は、社伝によれば、斉明天皇の頃(六五六)八坂氏の祖によって新羅国牛頭山に座す素戔鳴尊の霊を八坂郷に祀ったことに由来するという。一方で前述したように、備後から分霊を祀ったものとの説もあり、また、スサノオノミコトを祀る神社は鳥根県の熊野神社、埼玉県の氷川神社など全国各地にある。一体祇園さんの本家本元はどこなのか。蘇民将来とは何人なのか。今後の研究課題とし閣筆する。 主な参考文献 広島県神社誌・福山散策(付上正名著) 備後祇同略史・芦品郡史・沼隈郡史 素戔鳴神社御参拝のしおり 沼名前神社略記備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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