1985年08月11日

明王院五重塔の相輪伏鉢陰刻名について

山城志:第8集」より

提 勝義

塔(ストーパ)のことを調べていて、福山市史の上巻をみていたら、貞和4年(1348)の明王院五重塔の相輪伏鉢陰刻銘に次のような文があるのに気がついた。

右夫普為令
遂兜率上詣願望
結龍花下生来縁
積一文勧進小資
成五重塔姿大功
順送諸縁同利益
   ①
   貞和4年成子 12月18日

明王院の五重塔は、草戸千軒の人々や周辺の人々の小資によって建てられたものであると思われるが、建立の趣旨になったものが陰刻銘にかかれている弥勤上生信仰である。そこには、中世人の信仰の一端をみることが出来るので、弥勤信仰について述べてみたいと思う。

弥勤信仰は、弥勤上生信仰と弥勤下生信仰にわけることができる。

弥勤上生信仰は、弥勤が仏になろうと、兜率天で修行しているのだけれども、釈迦の没後56億7000万年たった時に兜率天の寿数がつきる。その時に弥勤は地上に下生する。仏になった弥勤は龍花樹の下で三度にわたって有縁の人々に説法をする。

人々は釈迦の説法を生きている時には聞くことが出来なかったし、又、今の世は末法の時であるので、救われることは難しい。それゆえ、死んだ後は、兜率天に上生して弥勤のそばで56億余年を過ごし、弥勤が下生する時に、弥勤に従ってこの地上に還って、龍花樹の下で、弥勤が三度説法(龍花三伝)するのを聞いて救われたいというのが弥勤上生信仰である。

弥勤下生信仰は、56億7000万年待って、弥勤が下生して、龍花樹の下で説法するのを聞いて救われたいという考えと、56億7000万年待つのは大変なことだというので、極楽浄土で待っていて、弥勤が龍花樹の下で説法をする時に立ち会って救われたいという考え方があった。

弥勤下生信仰は、上生信仰も同じであるが、主として勧進僧によってすすめられたもので、埋経という方法によっておこなわれた。初期におこなわれた埋経の代表的なものは、藤原道長の金峰山の埋経である。比の埋経は、極楽浄土で待っていて、弥勤が下生して、龍花樹の下で説法するこその説法を聞いて救われたいという考えでおこなわれた。

埋経は、紙に経文(法華経)を書写して、理経の趣旨をかいて、経筒に納めて地下に埋めるのが普通であって、瓦経、銅板経、柿経(こけらきょう)でもおこなわれて、広く一般的におこなわれたものである。

明王院五重塔建立のために勧進に応じて、小資を出した人々は、兜率天に上生して、弥勤の下生の時に、ともに下生して、龍花樹の下で説法を聞いて教われようとする人々であり、五重塔建立はめったになかったことであろうから、またとない機会であり、多くの人々が、小資を出すことに応じたのであろう。弥勤上生信仰は、自力作善や斎戒して身を慎まねばならなかったので、人々が作善や斎戒をなすのは大変なことである。しかしながら、弥勤下生信仰には、作善や斎戒をすることなく、経筒を埋経することによって出来るし、また、それすら出来ない者には、瓦に経をほったりして、埋経すればよかったのであるから、上生信仰に較べればより簡単におこなわれたのであろう。私達が博物館でよく見る経筒や瓦経等は、弥勤下生信仰によって作られたものである。

以上のように、貞和4年(1348)|こ建立された明王院五重塔は、当時の浄土信仰と結びついて信仰されていた弥勤信仰にもとづいて、建てられたことが、陰刻銘によりわかるのである。

草戸千軒町や出入する舟から、明王院の五重塔は、間近にみえたであろうから、小資を出した人々は、死後に弥勤のいる兜率天にともなってくれる五重塔に、厚い信仰心をいだいていたであろうと思う。

(註)①順縁とは年をとったものから順々になくなっていく縁。
逆縁とは、若い者の方が、年をとった者よりも早くなくなっていく縁。
また悪の道から仏の道にはいっていく縁等。

(福山市民図書館)