偽りの明王院寺史(封印された開基者頼秀)
「備陽史探訪:152号」より
小林 定市
一、はじめに
百二十六と〇、この数字は奈良の真言律宗西大寺の末寺であった、尾道の浄土寺と草戸の常福寺(現在の明王院)が現代に伝えた中世文書の比較数である。浄土寺が百二十六通もの文書を伝えているのに対し、残念なことに明王院は一通の文書も伝えていない。何故一通の中世文書を伝えることが出来なかったのか、その謎は今以って解明されていない。
中世文書を一通も伝えなかった遠因は、明暦の明王院と常福寺の強行合併が発端と考えられる。中世文書を多く伝えていると、合併後に改竄した創作寺史と文書の矛盾点が明らかとなり、障害となる中世史料を徹底的に抹消した可能性がある。
寛永期は中世からの寺院の支配構造が変革され、幕府権力による寺院の新しい支配秩序(本末関係)と統制により新たな胎動が始まり、有力寺院への帰属変換が始まった時期でもあった。
中世備後の真言宗の場合、御調・沼隈・深津・安那・品冶・葦田等の各郡に備中薬王寺衆の諸寺院は、尾道の西国寺に蝟集し不断経修行に応分の寄進を行っている。
本庄明王院は真先に西国寺の系列を離脱し、嵯峨の大覚寺に鞍替へした寺である。明王院は中世からの末寺が少なく、末寺は津之郷の吉祥寺観音寺地蔵院に長和の東光坊・草土の東泉坊・杉原保(野上後の福山)の回蔵坊の六ヶ寺坊があった。
それが約二百二十年経過した元禄期になると、水野領内の真言宗末寺四十八ヶ寺院を擁する本山に発展していたのである。また、本来は同格程度であった、府中栄明寺・金丸多門寺。新山福盛寺・中条寒水寺・常村宿院・芦田郡栗柄衆等も末寺に加わるなど地殻変動を起こしていた。
こうした寺格変動の裏には、水野家の強力な後押しが介在したらしく、西国寺や昔年は同格であった寺院より優れた寺伝を必要としていた。そこで明王院は真言宗の筆頭寺院に相応しい、縁起を作成すると同時に裏付けに必要な棟札の偽造を計画し作成したと考えられる。
二、寺史改竄の主役
明王院の改竄縁起の作成に手を染めたのが、江戸時代前期の住僧であることは間違いない。次に寺伝の開創縁起作成の陰謀を推進したと推定できる僧の来歴を検討する。
明王院十七世宥将は合併する以前に、福山城下で活躍した僧であるから関与は考えられない。また、常福寺の僧瞬意は左遷され寺を退去させられた僧であるから、寺史の改竄を援助する事由は何も見出せない。
明王院は寛永十六年(一六三九)、本庄村から福山城下の奈良屋町に移り本堂を建立した。ところが水野家の方針で、建立後十数年経た明暦に本堂(現在の庫裡又は書院)や護摩堂と共に、常福寺の観音堂の北に移建し、合併が完成すると寺号は明王院に代えられ、理不尽にも常福寺の寺号は廃されてしまった。
合併後の寺には二人の住持は不要となり、常福寺の先住権大僧都舜意は心ならずも寺を追い出され、後釜に座ったのは横滑りして来た権大僧都の宥仙であった。
明王院十八世に就任した宥仙は、急ぎ梵鐘を鋳造すると「明王院は大同二年に野山大師が開基した」とする銘文を彫らせているが、出典資料の根拠を明らかにする資料は何も見当たらない。
十九世宥翁は、元禄三年(一六九〇)に観音堂を修復すると、棟札の表に「(梵字の十一面観音菩薩)奉再興明王院観音堂一宇」と書き、書き始めの途中に
大同の年(八〇六~八〇九)我 弘法大師の創基、数百年来の仏閣(観音堂)宝塔(五重塔)今に尚存ず
と記載している。
この棟札の大同の年と弘法大師説は妥当と認定されてきた。しかし、次に書かれた「大同の…仏閣宝塔尚今に存ず」の文意は、当然「大同の観音堂と五重塔は現存する」と読める。大同の観音堂であれば千三百年前の建物でないと偽物である。
宥翁の仕掛けは単純なもので、「元応三年を大同の年に」「頼秀を弘法大師」に、年号と人名を入れ替えただけであった。弘法大師開基説の根拠とされた棟札を精読していると、文章内容の矛盾が判明し、容易に宥翁の改竄を発見できた筈である。誤読のため粉飾が見抜けなかった。
前記の改竄棟札や改竄銘文から大同開基捏造の確信犯は、合併後の宥仙と宥翁であることが判明した。現在まで明王院の寺伝は玉虫色の不気味な光を放ち、先送りされた結論は否定も上見菅されていない。しかし、視点を変え写経と同じように、元和七年と元禄三年の棟札を丁寧に筆写すると矛盾点が見えてくる。
三、『福山志料』の宥仙由緒書
福山藩は文化六年(一八〇九)春、地誌『福山志料』を完成させるのであるが、その際寺社に対し旧寺伝の提出を命じた。その時明王院は由緒書(『福山志料』巻之二十八 辨説寺社)を福山藩に提出している。その由緒書に
大猷公(徳川家光)ノ尊儀ヲ遷サレシ時、慶安四年(一六五一)住持宥仙以上由緒書ニミユ
と出典の由来を記している。宥仙は慶安四年の由緒書を書き残していた。しかし、慶安四年は宥仙が明王院の住持に就任する約四年も以前の年で、当時常福寺の住職は舜意で宥仙は無関係の立場にあった。宥仙は笠岡の遍照寺の僧であった可能性が高いが、由緒書を作成できる立場の僧ではなく、由緒書は明暦三年以降に書かれた偽書である。
慶安四年の由緒書の問題点を指摘すると、「大門再興慶長十九年(一六一四)甲寅施主勝成公住持快遍」との記載があり、慶長十九年は勝成が入部する五年も以前で勝成の大門再興は事実ではない。
本堂に関しては、「本堂重興棟札元和七年(一六二一)施主水野日向守勝成住持快遍」と、勝成が入部した二年後に本堂を再興したとする棟札を作成していた。その主張通り元和の本堂修理棟札二本が伝えられている。本堂は観音堂一棟の筈であるが、奇怪なことに別にもう一棟の本堂修理棟札が存在するのである。
同書の続きに
慶長十九年は大阪冬の陣の歳なれば水野家いまだ此の国に入り来たり給わず、しかるに大門。本堂慶長・元和に勝成公再建など言うは訝し
と、慶安四年に宥仙が書いたとする由緒書を、『福山志料』の編纂者は疑問視して史料批判を行っている。
本堂一棟に対し同年修理した二枚の本堂棟札を伝えている。このように辻棲が合わない偽棟札を、近代史家は疑問視することなく一級史料と認定してきた。棟札の年号は正確に読まれているが、文章内容の総合的な良否判定能力が欠落している。
快遍という住持は宥仙が棟札に登場させた仮想の僧らしく、実在を証明する史料は何も見当たらない。宥仙は合併当初の明暦三年に、創基を野山大師と梵鐘に陰刻しており、死没した年が天和二年(一六八三)であることから、偽の由緒書と棟札を書いた年は明暦三年以降から天和三年の間に作成したと考えられる。
四、元和の本堂再興説と山崩れ
次に草戸山の山崩れに伴う、元和七年の本堂再興棟札を評価した主な書籍は、昭和三十八年に刊行された『福山市史』。平成三年の『明王院』県立歴史博物館発行。平成六年の『よみがえる中世8』平凡社が発行。有名な三書籍は揃って同内容文で「元和六年夏の大雨による山崩れで堂塔が破損したため、翌七年水野勝成によって本堂を中心に修復が行なわれた」と書かれ、内容を史実と認定し福山の歴史常識とされてきた。
明王院の五重塔と観音堂が建っている裏山は、草戸山の尾根筋に当り尾根の南側と北側では山崩れが発生しても、東側の尾根筋の地盤は御影石の岩塊で堅固なことから、山林地形学の観点からも山崩れの可能性は低い。近年各地に出向き山崩れヶ所の調査を行っているが、何れも発生ヶ所は側面ばかりで尾根筋の山崩れを発見するに至っていない。
五、十一面観音本堂の修理棟札
元和六年、常福寺は裏山の山崩れに遭遇したため、十一面観音菩薩と大日如来を本尊とした本堂を再建したとする棟札を伝えている。しかし、不思議なことに大日如来を本尊とした五重塔は現存しても、大日如来を本尊とした本堂の建物は無い。
最初俎上に載せるのは、十一面観音の棟札である。表書きに「(梵字の十一面観音菩薩)常福寺根本四面本堂中劫(興)開山一宇」と、現在の国宝観音堂を再興した時の棟札がある。そこには次の問題となる記載
夫意趣者は大道(同)二年の昔、十方の助成を以て七道伽藍を初めて立ててより
と記している。しかし、明王院には平安初頭の大同の年に、七堂伽藍の建造物群が存在していたことを裏付ける遺跡の痕跡は何も発見されていない。
次に
大雨に依り大地振動高山流飛四方鏡(狂)乱、甍(棟瓦)打ち埋もれ万人肝を驚かす
と記載されている。高山流飛とは山崩れを意味しているようであるが、観音堂は山崩れが直撃しない地形である。観音堂の棟瓦は地上十一m余りの高所にあり、文面の通り棟瓦まで土砂に埋まったのであれば元応三年の部材の活用は不可能となり、新しく材料を発注すると一年余りの短期間では再建は不可能であろう。
その謎解きの解体修理が昭和三十七年に行われた。『福山市史』は「元和の被害度や規模は模糊として判然としない」と、山崩れの痕跡を調査しても発見するに至っていない。
観音堂には内外陣に主柱三十本が使われている。その中には元応三年の当初に用いた柱二十本(欅八本・檜十二本)が今も使用され、元禄材が十本用いられている。しかし、元和材は一本も使用されていない。
棟札を証拠に元和の土砂崩れを主張しても、古柱の割れ日に土砂が混入した痕跡や、柱傷や柱穴の傷等は何一つとして見出せない。元和災害が何もない無傷の建物を、『由緒書』と棟札に書かれていると主張しても信用出来ない。
六、疑惑の大日如来の本堂棟札
棟札の表書きに、「(梵字の大日如来)奉建立常福寺本堂一宇」と書かれているが、大日如来(実際の本尊は弥勒菩薩)を本尊とする本堂が明王院に存在したのであろうか。大日如来を本尊とした建造物は五重塔だけである。その五重塔は棟札を書かないのが原則とされている。
棟札の書き出しに、「当寺の開基は大同年中の初住持沙門伽藍造立の願を発す」の記載がある。此の元和棟札を正史料と認定するのであれば、寺伝の「大同二年弘法大師開基説」は誤りで、「開基は大同年中の初住持沙門」に訂正する必要がある。その理由は、古文書学に於いては古資料優先のルールが確立されておリルール遵守は当然の責務である。
終わりの方に「当寺(明王院)の古縁起に有る棟札を以って写さしむ」と書いているが、「古い棟札」とは当然大同の年を意味している。しかし、日本には大同の頃棟札を書く慣習は存在せず、大日如来の本堂棟札を書写したとする記述は捏造と断定しても誤りない。
更に五重塔は棟木が無いので、棟札に代えて塔の伏鉢に陰刻するのが通例となっていた。棟札はこうした日本の建築の常識を知らない僧が捏造したもので、二重のミスを犯した不要の棟札が存在するのである。
大日如来を本尊とした建物は、五重塔以外にはなく五重塔と本堂の相違は小学生でも間違いなく答えるであろう。境内に存在しなかった本堂(本尊大日如来)の再興棟札、その棟札を根拠に歴史家は再建を史実として認定してきた。中世の建築常識と異なる記載に、万人が納得する説明が出来るのであろうか。
次は水害の年月であるが
去る元和六年庚申孟夏(四月の異称)天大雨頻り、古今の洪水に山岸崩れ仏閣土中に埋る
と洪水の月を四月と記録している。しかし、実際に洪水が発生したのは旧暦の五月二十八日頃が正しく、孟夏は誤りで西暦に換算すると六月二十九日となる。
実際に大雨を体験した僧(快遍)なら、一年四ヶ月前の洪水の月を正確に記載した筈である。重要な棟札銘文に洪水の月を誤記した理由は、後世捏造したため正確な月を知らず想像で書いたのが原因であろう。
以上、記した数々の疑惑により、正史料と認定してきた棟札は再鑑定が必要である。明王院の寺史を迷走させた悪徳僧が宥仙であったことも『福山志料』から判明した。宥仙が寺伝を改竄していることを福山の歴史家は何故見破れなかったのか。
例え改竄で寺の権威を増すことに成功したとしても、真実の開基者頼秀を封印するに及んだ冷酷無道な仕打ちは言語道断である。開基者頼秀に対して、報恩感謝の誠を捧げるのが後継僧としての勤めであるのに、「でたらめな」寺史を作成し、頼秀を埋没させ郷土史を惑乱させた。
宥仙の偽文章は巧妙に作成されていたため、後世の史家も捏造の経緯を解明できず偽寺伝の後棒を担いで来た。日本の棟札の発達経過史を知らない先生方のお粗末な鑑定を、福山市民は鵜呑みに盲信してきた。この無責任で理不尽な棟札を、草戸千軒の研究機関は何時まで野放しにするのであろうか。
七、阿弥陀堂を取壊した謎
長井頼秀が建立した建造物は、観音堂と五重塔に阿弥陀堂の三大建造物であった。その内の観音堂と五重塔は六百六十年以上経過した現代まで命脈を保っているのに対し、阿弥陀堂だけは半分にも満たない三百余年の短命に終わっている。
先程は元和六年に発生した草戸山の山崩れを否定した。しかし、それは棟札に記された観音堂と五重塔(大日如来の本堂説)に対する山崩れであった。その逆に観音堂の北に建っていた阿弥陀堂は、元和の山崩れに修理が行われず放置された後取壊されたようである。
野々口立圃が『草戸記』に「左には阿弥陀堂とて形ばかり残り」と書いているように、明暦の寺院合併以前に阿弥陀堂は補修される事なく無残な形をさらしていた。入国当初の水野氏は、領内の寺社に対し積極的な支援を控えていたようである。
実は草戸山の尾根の北側で山崩れが発生すると、阿弥陀堂は場所が悪く土砂が直撃する場所に建っていた。土砂が阿弥陀堂を襲った記録は見当たらない。しかし、元和六年から三十五年後の明暦二年の頃の間に、阿弥陀堂が整理されている事を総合的に判断すると、原因は不詳であるが山崩れの他は考えられない。
宥仙は元和の山崩れで廃屋状態となっていた、阿弥陀堂の災害由来を見聞きしていた筈である。当時水野勝成は福山城の築城に忙殺され、旧来の寺社の修理まで支援の手を差伸べる余裕がなかったようである。
以上の前記の事由から、元和の山崩れが十一面観音堂と大日如来の本堂を直撃し、勝成が再興したとする棟札は勝成の寺社対応策からも再検討が必要である。
従来は問題視されなかった、阿弥陀堂の予想外に早い老朽化であるが、浄土寺に阿弥陀堂が現存することを考慮に入れると、常福寺の阿弥陀堂だけが特に粗悪な材料を用いていたとは考え難い。
江戸時代初期の福山湾では、新開造成が多く進められ寛文九年(一六六九)の頃多治米村新開が完成した。多治米新開村には寺院がなかったことから、約四十~五十年経過した元禄年中(一説に享保年中)の頃、草戸村で途絶えていた常福寺の寺号と阿弥陀仏が多治米村で復活した。
これが多治米常福寺の始まりで、本尊として阿弥陀如来が勧請され祀られた。草戸村で一度消滅した、寺号と阿弥陀堂が草戸中州束の対岸の村で再建されたのである。常福寺の再興は想定外の嬉しい出来事で、阿弥陀堂が草戸常福寺に祀られていた事を立証する最大の証である。
常福寺の歴史問題は、観音堂と五重塔に名前を残す頼秀、元禄三年の棟札の弘法大師開基説の適否、元和七年の山崩れを記録した棟札の内容分析、堂塔下の大岩盤平削工事が大同の年以前に可能なのか、その他数多くの問題点が聖域とされ問題解決を阻んでいる。こうした研究対象から除外された聖域が存在すること自体が問題で、一日も早く垣根を取り去り自由闊達に論議が出来る日を期待したい。
常福寺と明王院に長和庄と草土千軒の関連年表(誤史誤伝)
西暦 | 年号 | 月 | 内容 | 出典 |
1151 | 仁平1年 | 11 | 藤原惟方長和庄を興善院に寄進。永治元年説は文書の誤読。 | 『竹内文平旧蔵文書』 |
1221 | 承久3年 | 6 | 承久の乱に長和庄の役人後鳥羽上皇に味方する。後に長井時広が長和庄の地頭。 | |
1273 | 文永10年頃 | 悲田院と長井氏長和庄の所務を和与。長井氏東側(海側)の支配権 | (田総文書3) | |
1273 | 文永10年 | 8 | 長井康茂請文地頭職を東海側(田尻・水呑)西(草戸)に分割。 | (田総文書1) |
1307 | 徳治2年 | 7 | 西大寺末の常福寺の兄寺、備中成羽の善養寺。成羽川船路開削 | (笠神文字岩碑文) |
1321 | 元応3年前 | 常福寺観音堂建立に先立ち、観音堂の下の大岩盤平削工事。「足場用柱穴を掘る」 | ||
1321 | 元応3年 | 3 | 地頭長井頼秀、常福寺観音堂を建立。(創建ヵ)。後世19世宥翁が弘法大師と改竄。 | |
1323 | 元亨3年 | 3 | 参考 京都妙顕寺の日像、水呑妙顕寺の刀鍛冶法華一乗妙性に曼荼羅本尊を授与。 | |
1333 | 元弘3年 | 5 | 頼秀の嫡男貞頼、尊氏の軍勢催促に応じ京都六波羅攻撃。 | (『毛利家文書』1375) |
1336 | 建武3年頃 | 頼秀観音堂の北側に阿弥陀堂を建立ヵ。(浄土寺の本堂15年遅れ阿弥陀堂建立) | ||
1348 | 貞和4年前 | 五重塔の建立に先立ち、草戸山の尾根筋の五重塔の下の大岩盤平削工事を施工。 | ||
1348 | 貞和4年 | 12 | 長井頼秀 常福寺五重塔(本尊弥勒菩薩)を建立。(後世本尊を大日如来と誤伝) | |
1371 | 応安4年 | 10 | 長井貞頼の嫡子貞広、毛利元春の5男広世を養子契約。 | (『毛利家文書』1382) |
1381 | 康暦3年 | 広世父の元春から安芸福原を譲られ福原に移る。長和庄を幕府に返還ヵ | 『閥閲録』 | |
1391 | 明徳2年 | 9 | 西大寺末寺尾道浄土寺。草出常福寺。今高野金剛寺を記載。 | 『西大寺末寺帳』 |
1463 | 永享8年 | 西大寺東室1分、11番成羽善養寺。12番草出常福寺。 | 『西大寺坊寄宿諸末寺帳』 | |
1471 | 文明3年 | 本庄のlEl光寺明王院衆と常福寺衆、尾道の西国寺に上銭を持参。 | 『西国寺文書』 | |
1480 | 文明12年 | 備後守護・草戸領主を兼帯山名政豊、常福寺の五重塔を修理ヵ、五重塔初重墨書。 | ||
1502 | 文亀2年 | 5 | 本末校合 尾道浄土寺。草出常福寺。今高野金剛寺を記載。 | 『西大寺諸国末寺帳』 |
1530 | 享禄3年 | 6 | 草土の代官渡辺越中守兼、草戸の伝承「応安元年毛利元春」と記載。 | 『先祖覚書』 |
1592 | 天正20年 | 神辺城主毛利元康の家臣井上新左衛門、常福寺の五重塔を修理ヵ、初重墨書。 | ||
1620 | 元和6年 | 5 | 常福寺の阿弥陀堂山崩れに遭難、観音堂と大日如来の本堂は土砂崩れの痕跡無。 | |
1621 | 元和7年 | 9 | 後世の偽棟札2本観音堂と大日如来の本堂修理痕跡無し。阿弥陀堂修理を放置。 | |
1633 | 寛永10年 | 3 | 西大寺備後国の条、尾道の浄土寺だけ常福寺の記載なし。 | 『西大寺諸国末寺帳』 |
1637 | 寛永14年 | 11 | 偽文書後世の偽作。定福寺瞬意御房宛水野勝成下知状。 | (『福山市史』上巻) |
1638 | 寛永15年 | 4 | 深津郡中道山園光寺明王院、嵯峨大覚寺の末寺となる。 | 『大覚寺文書』 |
1639 | 寛永16年 | 6 | 明王院城下の奈良屋町に移転じ本堂・護摩堂を建立。 | (『福山市史』上巻) |
1656 | 明暦2年前 | 巨勢金岡母の菩提のため建立説、形ばかりの阿弥陀堂。野々口立圃 | 『草戸記』 | |
1656 | 明暦2年頃 | 明王院の本堂・護摩堂を常福寺に移転し。常福寺の寺号を消し明王院と称す。 | ||
1657 | 明暦3年 | 11 | 18世宥仙 梵鐘鋳造。「大同二年…我祖野山大師の開基也」 | (明王院梵鐘銘文) |
1674 | 延宝2年 | 草戸千軒水害草戸の他に9ヶ村が被災。寛文13年説は後世の誤伝。 | 『水野記』 | |
1681 | 延宝9年 | 3 | 延宝九年草戸村地詰帳。鍬下年期7年。奉行榎本・亀川 | 『広島大学所蔵検地帳』 |
1773 | 安永2年頃 | 宮原直伽の誤伝。水害から約99年後の誤伝を記録。 | 不正確資料『備陽六郡志』 | |
1690 | 元禄3年 | 19世宥翁 観音堂を修理、「大同の弘法大師の観音堂は今に尚存ず」寺史改竄。 | ||
1913 | 大正2年 | 2 | 浜本鶴賓 草土千軒の千軒の研究に着手。昭和初年説は後世の誤り。 | 『まこと』 |
1923 | 大正12年 | 鶴賓の草土千軒研究。寛文13年説は時代錯誤、戦国時代中葉以前 | 『沼隈郡誌』 | |
1959 | 昭和34年 | 五重塔の修理始。37年観音堂修理始。大岩盤に柱穴を発見し堂塔再建設を強調。 | ||
2009 | 平成21年 | 8 | 筆者 五重塔の西後方にある、一段高い岩盤斜面から足場用柱穴9個を発見。 |
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