郷土の縄文員塚遺跡と橘高武夫先生(福山市水呑町洗谷貝塚)

備陽史探訪:65号」より

小林 定市

某家所蔵の洗谷貝塚石器-(筆者撮影) 石匙、石飾(穴あき)、石刃、石族
某家所蔵の洗谷貝塚石器-(筆者撮影) 石匙、石飾(穴あき)、石刃、石族

全国の遺跡史料を読み進めていくと、各遺跡における発見から発掘調査に至る経過に続いて、検出された主要な遺物・遺構が紹介されている。しかし、残念なことに福山地方での発掘報告書は何れも初期遺跡調査記録が欠落していることである。

福山城文書館には、大正時代から昭和にかけて活躍した郷土史研究家の家族から寄贈された資料があり、その内の一部に、沼隈郡教育会研究部部長・藤江小学校校長小川清一氏の、『松永小川家資料』があり、同書には諸貝塚が発見されてから発掘に至る経過が記されていたのである。沼隈郡教育会は、次の括弧書に記すような成果を挙げていた。

一、柳津村馬取貝塚

山本新氏が大正十五年(一九二六)に発見報告され、昭和七年一月に実地踏査がなされる。

二、水呑村字洗谷白浜及浜貝塚

筆者不詳

昭和八年(一九三三)七月下旬、橘高武夫氏から、水呑村の北方に近き洗谷の白浜及南方に近き小学校北方の浜に於て貝塚を発見せる旨、次いで小川会長から、三十日・三十一日に之を発掘する旨の通報があり、会員一同会し北村校長(水呑小学校)の厚意により諸準備整う。
偶々福山誠之館中学の岡田・花田両教諭並に浜本鶴賓氏等と其生徒と共に、此方面の実地研究を遂行せるに邂逅相携へて両貝塚の発掘を行った。

洗谷貝塚は、熊ケ峰山系から流れ出る荒尾谷最下流の南面の上丘にある貝塚で、県内に現存する縄文遺跡では最大級のものである。

昭和五年八月、早大の西村教授によって確認された洗谷古墳貝塚は、白浜貝塚西方約二〇〇m奥の地にあって白浜貝塚とは異なる。

洗谷貝塚が発見されるに至る経過は、大正十五年、鞆軽便鉄道線路敷設工事の際、鞆軽便妙見駅の東南畑地において相当数の人骨が発掘されたことがあり、昭和八年の発掘には、人骨出上の連続地が調査対象の地に選定される。

誠之館中学では、夏期休暇の課題として、郷土の考古・地理・歴史研究のため百餘名の生徒が、七月三〇日に、教諭と浜本氏に引率され明王院の本堂本尊・五重塔・護摩堂・古墓等調査研究の後、水呑村の貝塚発掘に協力したもので、発掘後、水呑尋常高等小学校橘高武夫訓導(昭和八年四月瀬戸小から水呑小に転任)から、藤江尋常高等小学校校長小川清一氏宛に次の手紙が送られている。

炎暑の折、校長先生にはさぞ御労れの御事と存御推察申上ます。折角御来村御調査に預りしも、何分準備交渉不行届にて、意の如く御出来ならなかったこと誠に遺憾に思ひますが、何卒御許しの程お陰で貝塚の存在が明になり、村民の注意を喚起致すことが出来まして非常に喜んで居ります。
謹んで深く御礼申上げます。
次に、発掘物は一切小学校に持帰り保管致し居りますれば、入用の際はいつにてもお送り致しますれば御様子下さいませ、猶當日の人夫其の費用の大体を別紙の如く掲げました。委員会の方で出して戴けるものは至急お送り下されば好都合に存じます。
猶経費の関係上水呑村で負担すべき方が都合よきと思れるものは、御面倒乍ら校長先生より北村校長宛御交渉を願れば幸甚に存じますが、小生、轉勤以来日の浅く何かと思ふ様に出来ないことを残念に思ひますが、此れも御推量賜って校長先生に御迷惑でせうが、何分共によろしく御願い致します。
酷暑の砌り何卒御身御大切に、御健勝に渡らせらる様お祈り申上げ御禮旁御依頼申し上げます。
             敬具
   八月一日    橘高武夫
 小川校長先生

水呑村字浜貝塚

洗谷白浜貝塚の南方約二五〇Omの地にあって、福山鞆港線が県道に指定されたのが明治二四年のことで、同年以降昭和八年に至る迄、道路拡張工事が行われた際、道路敷の東と西から、地表下三〇cmの所に、貝殻と有機土の混合層があり、その混合層から、仰臥伸葬された多数の人骨が出土したことがあり、昭和八年には、人骨出土の連続地の畑を発掘し、一体の人骨が得られたので京大の清野博士に贈呈する。

浜貝塚所在地(昭和一五年地元民の記録)

建内民治郎氏宅地及菜園、郵便局敷地、伊東清氏宅北半分、水呑巡査派出所、山本文造氏宅の一部西隣接地。

三、福山市木之庄町字東中町貝塚

昭和九年十一月、橘高武夫氏から、福山駅より二粁の北方に貝塚を発見した由報告あり、依って委員一行が踏査に向ったのは十一月十七日であった。
地主中島政一氏の好意により、発掘を快諾されたのみならず、之が諸準備萬端仝もによって整えられ都合よく進行、多大の収穫のあった事を先ず感謝するものである。

橘高武夫氏略歴

(一九〇九・三・二〇~一九九五・三・八)
明治四二年沼隈郡赤坂村大字赤坂に生まれる。
大正一五年福山師範学校本科第一部卒業。
同年赤坂尋常高等小学校訓導、後に瀬戸小・水呑小・神村小を経た後、千年・松永青年学校教諭を命ぜられ、昭和二〇年四月には應召され、昭和二二年本郷中学校校長を命ぜられ、昭和三八年精華中学校校長を退職される。

先生は、自分の功業が四囲の人々から、正当な評価が与えられなくても、何一つ事績を誇示することなく、今年春生涯を終えられた。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1995/06/92063735f933b66bd2cc55fa60cbc58f.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1995/06/92063735f933b66bd2cc55fa60cbc58f-150x100.jpg管理人古代史「備陽史探訪:65号」より 小林 定市 全国の遺跡史料を読み進めていくと、各遺跡における発見から発掘調査に至る経過に続いて、検出された主要な遺物・遺構が紹介されている。しかし、残念なことに福山地方での発掘報告書は何れも初期遺跡調査記録が欠落していることである。 福山城文書館には、大正時代から昭和にかけて活躍した郷土史研究家の家族から寄贈された資料があり、その内の一部に、沼隈郡教育会研究部部長・藤江小学校校長小川清一氏の、『松永小川家資料』があり、同書には諸貝塚が発見されてから発掘に至る経過が記されていたのである。沼隈郡教育会は、次の括弧書に記すような成果を挙げていた。 一、柳津村馬取貝塚 山本新氏が大正十五年(一九二六)に発見報告され、昭和七年一月に実地踏査がなされる。 二、水呑村字洗谷白浜及浜貝塚 筆者不詳 昭和八年(一九三三)七月下旬、橘高武夫氏から、水呑村の北方に近き洗谷の白浜及南方に近き小学校北方の浜に於て貝塚を発見せる旨、次いで小川会長から、三十日・三十一日に之を発掘する旨の通報があり、会員一同会し北村校長(水呑小学校)の厚意により諸準備整う。 偶々福山誠之館中学の岡田・花田両教諭並に浜本鶴賓氏等と其生徒と共に、此方面の実地研究を遂行せるに邂逅相携へて両貝塚の発掘を行った。 洗谷貝塚は、熊ケ峰山系から流れ出る荒尾谷最下流の南面の上丘にある貝塚で、県内に現存する縄文遺跡では最大級のものである。 昭和五年八月、早大の西村教授によって確認された洗谷古墳貝塚は、白浜貝塚西方約二〇〇m奥の地にあって白浜貝塚とは異なる。 洗谷貝塚が発見されるに至る経過は、大正十五年、鞆軽便鉄道線路敷設工事の際、鞆軽便妙見駅の東南畑地において相当数の人骨が発掘されたことがあり、昭和八年の発掘には、人骨出上の連続地が調査対象の地に選定される。 誠之館中学では、夏期休暇の課題として、郷土の考古・地理・歴史研究のため百餘名の生徒が、七月三〇日に、教諭と浜本氏に引率され明王院の本堂本尊・五重塔・護摩堂・古墓等調査研究の後、水呑村の貝塚発掘に協力したもので、発掘後、水呑尋常高等小学校橘高武夫訓導(昭和八年四月瀬戸小から水呑小に転任)から、藤江尋常高等小学校校長小川清一氏宛に次の手紙が送られている。 炎暑の折、校長先生にはさぞ御労れの御事と存御推察申上ます。折角御来村御調査に預りしも、何分準備交渉不行届にて、意の如く御出来ならなかったこと誠に遺憾に思ひますが、何卒御許しの程お陰で貝塚の存在が明になり、村民の注意を喚起致すことが出来まして非常に喜んで居ります。 謹んで深く御礼申上げます。 次に、発掘物は一切小学校に持帰り保管致し居りますれば、入用の際はいつにてもお送り致しますれば御様子下さいませ、猶當日の人夫其の費用の大体を別紙の如く掲げました。委員会の方で出して戴けるものは至急お送り下されば好都合に存じます。 猶経費の関係上水呑村で負担すべき方が都合よきと思れるものは、御面倒乍ら校長先生より北村校長宛御交渉を願れば幸甚に存じますが、小生、轉勤以来日の浅く何かと思ふ様に出来ないことを残念に思ひますが、此れも御推量賜って校長先生に御迷惑でせうが、何分共によろしく御願い致します。 酷暑の砌り何卒御身御大切に、御健勝に渡らせらる様お祈り申上げ御禮旁御依頼申し上げます。              敬具    八月一日    橘高武夫  小川校長先生 水呑村字浜貝塚 洗谷白浜貝塚の南方約二五〇Omの地にあって、福山鞆港線が県道に指定されたのが明治二四年のことで、同年以降昭和八年に至る迄、道路拡張工事が行われた際、道路敷の東と西から、地表下三〇cmの所に、貝殻と有機土の混合層があり、その混合層から、仰臥伸葬された多数の人骨が出土したことがあり、昭和八年には、人骨出土の連続地の畑を発掘し、一体の人骨が得られたので京大の清野博士に贈呈する。 浜貝塚所在地(昭和一五年地元民の記録) 建内民治郎氏宅地及菜園、郵便局敷地、伊東清氏宅北半分、水呑巡査派出所、山本文造氏宅の一部西隣接地。 三、福山市木之庄町字東中町貝塚 昭和九年十一月、橘高武夫氏から、福山駅より二粁の北方に貝塚を発見した由報告あり、依って委員一行が踏査に向ったのは十一月十七日であった。 地主中島政一氏の好意により、発掘を快諾されたのみならず、之が諸準備萬端仝もによって整えられ都合よく進行、多大の収穫のあった事を先ず感謝するものである。 橘高武夫氏略歴(一九〇九・三・二〇~一九九五・三・八) 明治四二年沼隈郡赤坂村大字赤坂に生まれる。 大正一五年福山師範学校本科第一部卒業。 同年赤坂尋常高等小学校訓導、後に瀬戸小・水呑小・神村小を経た後、千年・松永青年学校教諭を命ぜられ、昭和二〇年四月には應召され、昭和二二年本郷中学校校長を命ぜられ、昭和三八年精華中学校校長を退職される。 先生は、自分の功業が四囲の人々から、正当な評価が与えられなくても、何一つ事績を誇示することなく、今年春生涯を終えられた。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会古代史部会では「大人の博物館教室」と題して定期的に勉強会を行っています。
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