1993年04月18日

中世村落の構造と領主制へのアプローチ―西遷地頭小早川氏の場合―

備陽史探訪:56号」より

出内 博都

高山城

中世を読む会の試み

班田制にはじまる土地国有制、権門寺社による荘園制、こうした唯一の生産手段である土地へのしがらみは、そう簡単に切りかえられるものではないだろう。こうした中で、関東の田舎土豪として育ら、たまたま幕府という錦の御旗をバックにしたとは云え田舎侍が、西も東もわからない西国、特に京都、奈良の大寺社によって権威のみしか後楯のない貴族支配のしがらみの中へ入ってきた西遷地頭には、およそ実力が物を云う関東の世界で育った倫理では処しきれない厚い壁があったのであろうと思える。こうした中で数百年の雌伏の中から毛利氏を筆頭に多くの国人土豪(領主)が育った西国の中世の歴史は、人と人、人と土地、支配と被支配などの人間社会の縮図であると思う。頼朝挙兵の初期から側近に仕えた土肥実平、一時は中国筋の総追捕使(守護)として権力を振った彼も、平氏残党勢力、公家に連なる西国では必ずしも志を得ず幾度か挫折している。こうした祖先をもつ小早川氏が、沼田荘および都宇竹原荘で戦国大名にまで成長する過程は、多くの先学の研究によって種々解明されているが、後世の領主という形では想像もつかない”地頭職”という形での領有、特に”職”という領有内容は今日では最も理解しにくい権益内容である。これを基に領主に成長する過程のいくつかのプロセスを残された古文書をたよりに辿ってみたいと思います。

検討課題としては、鎌倉期地頭領主制の基礎であった惣領制が室町期にどう変遷するか、室町、戦国期には領主制を保護する家臣団がどのように構成されるか、などである。

鎌倉初期の小早川氏は一族を荘内各村に分置しつゝこれを惣領が統轄しつゝ「職」の支配からしだいに「下地」支配をめざした。

鎌倉中期には領家を圧倒し、同じく庶子は各自の所領の独立の知行者としてあらわれてくるが、これこそ惣領制と呼ぶべきもので、土地知行の主体が個々の庶子にあったが、大枠として惣領制の中にあった。南北朝内乱期になると小早川本宗、椋梨、浦、上山、舟木等は惣領相続を行ないその後各家の庶子たちは各家督の家臣化されていき、各家は対等な関係で同盟的結合を結んだとされる。こうした動きについての諸説はいろいろあり、又各地頭によっても異なるが、多くの場合、室町期の小早川氏は沼田本宗から出た庶子の各家督が独立した所領知行を行ない、各々より出る庶子を家臣化しその上で一揆的結合を結んだということである。

一、小早川氏の安芸定着

相模土肥郷を本貫とする土肥実平が、元暦元(一一八四)年備前、備中、備後の惣追捕使に任ぜられ、実平とその子遠平は主として備後で荘園支配していたが公家側の反撃にあっている。しかし遠平が安芸国の安直、本庄、新荘を勲功の賞として獲得し、在地基礎がつくられた。ところが建保元(一二一三)年の和田合戦で維平とその子が和田方に加わり誅せられ、第一次の危期が到来した。乱後、平賀氏から養子景平を迎かえ、安芸に本拠を移し、小早川と改名したのはこの乱が契機と思える。

景平の子茂平は和田の乱以前に景平が父、遠平から譲り得ていた沼田荘を相伝すると共に、都宇竹原荘も持っている。

二、沼田小早川氏の領主制

沼田小早川氏は椋梨氏、竹原小早川氏の二大庶子家を出したあと、おもに沼田本荘(本家蓮華王院)で領主制を形成している。その所領は一代一代の変動が大きく、ほぼ一貫して伝えたと思えるのは沼田荘本郷、乃美郷、伊予国越智郡内大島、七条大宮等屋地四半町、東山霊山内平松敷地のみであるから、領主制の拠点となるのは沼田荘本郷を中心とする部分だけであった事がわかる。他の所領の変動の激しいのは庶子に分割されたためであると考えられる。(朝平から扶平まで八代の間に何らかの職、権益、領有権をもっていた所領は延べ五〇ヶ所に及ぶ=田端泰子著書)こうした状況から鎌倉末の分割相続からこの庶子家の独立というのが一般的見解であったようである。しかし室町期小早川氏の事態はそれとは逆の方向に移行しつゝあった。

沼田荘本郷について応永二十一(一四一四)年沼日本郷は則平からら持平に「沼田庄本郷惣地頭職惣公文職検断事 除庶子分」として与えられたが、康正元(一四五五)年には凞平より又靏丸(敬平)に「沼田庄惣領職悉」として譲与されさらに敬平より扶平へは延徳三(一四九一)年沼「田庄惣領職悉井寺領社領」として与えられている。これを見ると十五世紀中頃の変化の大きさがわかる。これはいかなる要因によるものだろうか、それに関連するものとして沼田荘内舟木郷が茂平の一子経平(舟木を号す)へ渡され建武三(一三三六)年経平の孫小早川中務入道道円(貞茂)は「沼田荘内舟木郷内地頭職」を安堵されている。ところが文和三(一二五四)年幕府より舟木郷二分方が沼田小早川貞平に預けられている。

ここに舟木郷の一部分が本宗家のものになっている。この部分は永享五(一四三三)年沼田小早川則平知行分の「船木郷内時貞名三十貫文 除庶子分定」にあたると考えてよい。とすると永享ごろまで庶子分所領は明確に惣領家分と区別されていたことがわかる。この惣領家分は敬平以後独自の形で現れず、ただ「惣領職悉」という表現がみられるだけである。同じことは沼田荘内安直本郷についてもいえることで敬平、扶平時代には「沼田庄惣領職悉」に集約されている。結論的にいうと、十五世紀後半より十六世紀前半までに沼田小早川家が沼田荘惣領職を所有し、個々の庶子の支配を含みこむかたちで一括して沼田小早川氏が支配するという体制ができあがっており、地頭―国人―領主―戦国大名への質的転換がそれぞれの地域性によって進みつゝあったことを示している。この時代の惣領職の内容の質的変化(惣領職に対する幕府の介入権の低下)や惣領家の荘園領家に対する関係の変化(庶子分も一括して惣領家が納める)次に国人衆の力と守護(武田―今川―渋川―山名)との力関係の変化である。特に幕府の奉公衆としての小早川の地位を考えねばならない。更に農民の存在形態の変化である。農民層の著しい成長が庶子家を素通りして惣領家に結びつく例も考えられるのではないだろうか。(特に新田、新浜の開発について)更に庶子側からの求心化要求があげられる。室町初期庶子家の間に一揆的結合が存在するが、応仁、文明以後、惣領家への求心化が進行している。

その例として応永三十(一四二二)年庶子小泉氏が代々知行していた伊予国越智大島の半分を沼田小早川氏に譲りかわりに惣領家(特平)の扶持に与ることを契約している。