備陽史探訪:53号」より

出内 博都

過疎の代表地のような神石郡も古代においては四郷をもつ普通の郡であったようである。

神石郷がいつ設定されたかについては普通、日本書紀天武二年(六七三年)三月十七日の条に「備後国司、自雉を亀石郡に獲て貢れり、乃当郡の課役悉に免さる」とみえるのを最初とするが、吉備国が備前、備中、備後と分割独立するのはもう少し後の様であるが、七世紀末には一応郡として成立していたと思われる。(広島県史)

宝亀五年(七七四年)三月十二日の勘籍に(正倉院文書)「備後国神石郡志麻郷戸主物部水海…」とありこれ以後神石郡を用いている。和名抄には「神石」と記し、「加女志」と訓じている。それに含まれる郷として、神石志高市(訓不明)三坂(訓不明)の四郷をあげているが、志は前記の勘籍などからみて「志麻」とみてよい。

この四郷が現在のどの地方に当るかについては諸説があって一定しないが、多くの説が神石郷が現三和町亀石を中心とした地方であり、高市郷が現神石町高光を中心とした地方であり、志麻郷は後世に志麻里庄といわれた三和町一帯をさし、三坂郷は現東城町三坂(元神石郡内)や油木町、豊松村などをさすといわれている。

このうちで神石郷が三和町亀石附近というのは全く成立しない。神石郡の境域内に四郷設定するうち志麻郷を現在の三和町の大部分とすると、中心となる小畠集落と亀石集落は隣集落で亀石は後世の志麻里七郷の中へ完全に入ってしまい、いわゆるドーナツ型の郷設定になる。

亀石という字に惑わされた結果と思われるが、亀石という地名はごく一般的で全国的にはかなりある地名と思えるのでこれを根拠にすべきではないと思う。

神石郷を考える場合、「水野記」(瑞源院本)の項に現神石町福永について

門田庄郡(こおり)村、南光山向陽庵、禅宗(中略)八幡宮古社領拾六貫、天文六丁酉(一五三七)年宮野高雄修補(中略)神石大明神 古社領拾貫 毛利家没収之、門田庄門田村西深山政蓮寺禅宗(中略) 梶尾大明神、自雲州大社奉勧請也、天文十七(一五四八)戌申年宮野高尾再興(中略)社領弐拾貫(中略)門田庄和泉村八幡宮、天文三乙末年宮野高雄再興(中略)中谷寺、真言宗、古大内某之建立、寺領拾貫(中略)右郡村・門田村・和泉村是謂三村、又号福永村、皆福永村之内也

とみえる。これによれば福永村は門田庄という庄園であった(領家不明)ことが知れる。

庄官の一種であった「公文」の存在を示す地名として大久保谷に「久もんきう」という地名も残っている。(現殿敷地区町営住宅南附近)

元禄十三(一七〇〇)年の検地帳によれば郡村は小堀谷、和泉村は泉谷として存在し、この他に小堀山(八幡神社鎮座)泉山(城跡あり)などが知られる。神石大明神は現在のところ不明であるがおそらく近代に入って小堀山八幡社に合杷された三十数社のなかに埋もれたものと思われる。

神石郡の郡衛があった処が郡村(こおり村=古堀谷)として残ったものであろう(この例は全国的な現象である)神石(かめし)という地名をさぐる手がかりが古堀山八幡神社のある地域「岩石(いわいし)」という地名の中にあると思う。地形的に岩石地帯とは思えない地域にあるこの地名、何か由来があるのではないかと思うとき大体次の三点位が考えられる。

1.岩は神の転化したものである。熊本県八代郡宮原町立神にある立神(たてかみ)峡の立神という地名は岩礁など「突き立った岩」によく名づけられている。この場合「神」とは岩の意にはかならない。(松尾俊郎地形地名の知識)

地名の転化論(巨石崇拝などの自然信仰が基盤にある)から岩は神であるとすれば岩石という集落名は明らかに「神石」になるはずである。然もそこが郡家の有在を示す郡村(小堀山八幡社)にあるとすれば神石郷はこの附近、即ち現神石町に比定すべきである。

2.岩は斎(いわ)うの転化ではないか、斎うには神聖なるものとして祀る、神としてあがめるなどの意があり、神石が「斎(まつ)る石」「斎(いわ)う石」などの変化を経て音のみ伝わり岩石に転化したことも考えられる。

3.盤座(いわくら)、岩座から転化して神が岩になったのではないか、盤座は神のいらっしゃる処という意味であり、この「いわ」は神を意味しているから、神が岩にかわることも考えられる。

以上の様に平地にある「岩石(いわいし)」という地名は本来の「神石」という地名の変化とみてよい。

神石町一帯は古代の帝釈峡遺跡に連なり、更には大和政権の前進基地として、既に四世紀には全長七十五メートルという備後随一の前方後円墳である「辰ノロ古墳」が築造され、以後現在判明しているものだけでも町内で百基に近い古墳があり、この面では質量ともに圧倒的に他地区に卓越している。七世紀に固定していく律令体制の中で郡の中核をなす地域としての条件をもっていたといえよう。

従来よくいわれている高光が高市郷の名残だということは全く論外の事と思う。高光というのは明らかに十世紀なかば頃から出てくる律令制の人頭税体制にかわる土地税制として田堵・名主体制の名田の名残といえよう。福永(福長)もこうした名田系の名称である。

包轄的な福長名が荘園化して門田荘領(家不明)となり、その中へ門田、和泉、郡(古堀)などの具体的な生活圏としての自然村落が形成され、荘園消滅期にもとの名田地名である福長(永)が復活したのではないだろうか。

神石郡内の他の三郷のうち境域や範囲は別として、志麻郷の三和町地方、三坂郷の東城町三坂、油木町新免地方(或いは永野地域は含まれるかも?)はほぼ間違いないと思える。

残る高市郷は豊松地域を中心として一部油木町に及ぶ地域を設定できるのではなかろうか、神石郡の境域が近世封建体制のように固定するのは少なくとも和名抄のできる十世紀頃ではないだろうかと思える。

平城京跡から出土した木簡の中に神石郡加茂郷というのがあり、安那郡大家郷を現三和町大矢に比定する説があり、更に現油木町小野地区の東城川に面する西方の谷に後谷とか隠殿などの地名を残す処をみると小野地区が備中町方面から開け一時期備中圏に属していたのではないかなど、未解決な課題が多く古代郷は極めて流動的であったと思う。

こうした現実の中で神石町の辰ノロ古墳、神石大明神、郡村などは神石郡の古代郷の歴史を探る原点の一つといえよう。