山城志:第9集」より

吉田 和隆

福山城の絵について十序

福山城を見て、いつも思う。なんでみんな同じ構図なのだろう、と。描く人は、人と同じような絵を描いて満足なのだろうか。福山城を違った構図で描き、別の美しさを発見しよう、という意欲は持たないのか。

でも考えて見れば、画家には手本がいるのであって、実物が残っていない以上、復元図を手本に描くしかないのだ。でもそれは、本綿橋(もめんばし)のあたりから見た、例の構図しかない。復元図をつくるのは歴史家の仕事なのだから、それを充分に行なっていない福山の歴史家の方こそ怠慢である。そう反省した。

美人は正面から見るだけが美しいのではない。輪郭の強調された横顔、自いうなじと流れる黒髪をもつた後ろ姿も又、格別である。福山城も例の構図が一番美しいわけではあるまい。

そう思って、従来あまり描かれなかった、東・西・北の三方向から見た復元図を、古絵図を元に描いてみた。この三面は写真が少なく、櫓や門の外観は、推定に頼らざるを得なかった。素人の落書きと思って見て下さい。

復元図を描く為、古絵図をたんねんに見、史料を読む内、築城者の意図に気づかされたり、通説とされる村上氏の本に疑間が溜く事が多かった。それを思いつく儘小文に幾つも書いてみた。根拠の弱い推論が多い為、来年位に史料で補強して又書いてみたい。

天主閣

福山城の天守閣は、元和8年(1622)の建築で、それ以後焼失等により再建された物を除けば、全国でも最晩期の天主の一つである。その形態は層塔式と呼ばれる物で、外壁には防火を重視した総塗寵(ぬりごめ)を採用するなど、この時代の天主の典型であった。

さて、本天主の特徴を考えると

①最上層が回縁(わまりえん)式である事
②内部3・4階に床の間を持つ事
③石蔵が上層と同じ形状の窓を持つ事
④北壁全面が鉄貼りである
⑤最上層の回縁に雨覆(あまおお)いのある事
⑥石落としを備えない事

この内③④⑤は、私の知る範囲では本天主にしか無く、戦後の再建で④⑤が復元されなかった事を残念に思う。①②は他城にも例はあるが、最後期の建築である、本天主が採用している点で特徴的といえる。そして①~④の特徴から、福山城天主閣は、軍事面に重きを置いて設計された天主と考えられる。

詳しく述べるなら

①の回縁は、城の内外を見、敵状を観察して指揮する場、つまり「望楼(ぼうろう)」としての天主の軍事的機能にかなった設備であった。そして大山城、丸岡城に見るような、初期の望楼式天主は一般に回縁を備えていた。しかし平和な時代になると天主の軍事的意味は薄れ、江戸城、名古屋城といった後期の層塔式天守では回縁は設けられなくなる。

②の床の間は、他に大山城の「上段の間」や岡山城の「城主の間」に見る事ができる。これは寵城(ろうじょう)の時、城主他が天主内で生活する場であったと思われる。初期の天主では、通常このような居住施設をある程度持っていた。しかし平和な時代には、天主は城の飾りに過ぎず、城主の生活も御殿で行なわれる事から、天主閣から居住の為の設備は失なわれて行く。

③の石蔵の窓。平和な時代には天主閣は、倉庫として使われる位で、日常使用する建物ではなかった。だから建築の際、窓を設けるにあたっては、採光よりは防火性の方が優先したと思われる。では福山城が石蔵にも沢山の窓を開けたのは何故だろうか。

それは天主閣の軍事面を重視した為と思われる。つまり寵城の時には天主も城兵の宿所となる為、石蔵にも窓をあけてその居住性を高めると共に、石蔵からの射撃を可能にする目的からと考えるのである。

④の北面の鉄貼りは、北方の山々からの砲撃に備えた物であろう。大阪冬の陣では、天主閣に砲弾が命中、淀君の女房二人を粉砕し、講和のきっかけとなったし、(『徳川実記』)島原の乱にも大砲は使用されている。水野勝成はこれらの戦闘にともに参戦しており、大砲の脅威を充分認識していたと思われる。その彼が築城の際指示し、万一天主に砲弾が当たっても、内部にまで貫通しないよう、鉄板を貼らせたと考えるのである。

⑤の雨覆い。回縁を持つ天主は数あれど、こんな物が附くのは本天主しかない。創建時からの物か、後の物かは明らかでないが、多分阿部氏の時代に附けた物だろう。藩主阿部氏は、その多くが幕閣の中枢に加わり、為に江戸に常府の時が多く、福山には不在がちであった。その為城内の建物は使われる時が少なく、その管理は行き届かなかったようで、伏見御殿は多くの建物をこの時代に失っている。天主閣は城のシンボルであり腐朽させるわけに行かず、その最も弱い回縁に雨覆いをかけて守ったと考えられるのである。

⑥の石落としについては、古写真で見る限り、城内の櫓、土塀にも見られず、福山城は全体として採用しなかったらしい。石落しは江戸城や大阪城などにも設けてあり、この時代にもその実戦的な意義は失なわれていなかったと思われる。それを省略したのは、経費削減の為か、それとも建設の際実戦を意識しなかったからであろうか。

以上のように福山城天主閣は、平和な時の建築ながら、実戦向きと考えられる特徴を幾つか持っていた。これは福山城が西国における、幕府の重要な拠点であった事から、天主の建築にもその意思が反映したものだろう。

伏見御殿

築城の時、伏見城から移された御殿である。『備陽六郡志』によれば、ここに住んだのは初代勝成だけで、二代勝俊は二の丸東側に新たな御殿を作って住み、伏見御殿は藩主が江戸へ参勤する時と、福山へ参勤から帰った時のみ使われたという。以後の藩主もこれに習った。

ではこの御殿が使われなくなった理由は何だろうか。私は軍事優先に作られ、敷地の狭い本丸に建てられた為、居住性が悪かったからと考える。古絵図を見ると、伏見御殿は本丸最上段に所狭しと建物が建ち並んでおり、いかにも狭苦しい印象を受ける。必要があっても増築は難しいし、庭園も充分な物は作れなかったろう。それに比べると、二の丸の御殿はおよそ三倍近い広い敷地があり、遥かに快適に生活できたと思われる。本丸に御殿があるのに、他の郭に新たに作って移るのは、他城にも例は多い。

勝俊以後も歴代の藩主は、二の丸御殿に住み、哀れ空屋となった伏見御殿は、阿部氏の時代に次々と腐朽倒壊し、建物を失なって行った。(『備陽六郡志』)そしてそれ等は再建される事なく、建物を減じた姿で明治を迎えたのである。城の中心の本丸、その中の藩主の屋敷が荒れるにまかされる等信じ難い気がする。ましてやこの御殿は、幕府から拝領の由緒ある建築である。福山藩の窮乏ぶりを認識させる一事である。

二の九

福山城の郭(くるわ)は、『水野記』や『備陽六郡志』を見ると、水野時代から阿部氏の初期までは、本丸と二の丸の二つから成っていた。それが阿部氏の時代のいつの頃かに、本丸の一部を二の丸とし、二の丸を三の丸と改称し、三区分とした。現在もその区分が定着している。だが三区分だと、本丸と二の丸の境界が必ずしも明確でないので、以下の文では築城当時の本丸。二の丸の二郭構成として書いていく。

福山城の二の丸は、北を吉津川、残る三方を外堀で囲まれた広大な郭で、中には勘定所御蔵屋敷、馬場などの公的な建物と、藩主の御殿、ハイクラスの家臣達の屋敷などがあった。

城としての二の丸の防備をみると、いたって簡素な物である事に気附く。例を掲げると

①三階以上の櫓21の内、二の丸には僅か3しか建てられていない。
②本丸には数多い多聞櫓が、二の丸には全く無い。
③南東部を除けば、堀と土塁、堀と石堀、自然の要害に柵のみといった組み合わせの、貧弱な構えの部分が多い。
④二の丸内部は、平垣な敷地が広がり、中を土塀が仕切るだけの、単純な構造である。堀や石垣・櫓といった本格的な防御設備は存在しない。

①~③から、二の丸の防備は、戦時に惣構えとする程度の、貧弱な物であったといえる。又④から二の丸の性格は城郭というよりは、本来的には屋敷地であると言えようか。

本丸

二の丸に比べると、本丸の防備は格段に充実していた。天主閣と御殿のある主要部を、現在二の丸と呼ばれる腰郭か取り巻き、いづれも石垣で固められている。その外周を、内堀が南側と東西に少し回り、東側と西側の堀を欠く部分は、内堀代用の石垣が長く連なる。北側は小丸山と御蔵屋敷のある小郭か外郭ととなり、内堀の代りをなす。このように本丸は、全周に渡って二重の防塁に守られた城と言える。

そして石垣の上には7つの三重櫓と11の二重櫓が建ち、多間櫓と土堀がつないだ。7つの三重櫓は、その内の幾つかが神辺城と伏見城からの移築とは言え、(『備陽六郡志』)大層豪華な施設といえた。

本丸内の構造も複雑で、12の門を持ち、門から次の門までの距離は長く、攻者は長時間銃火にさらされる事になる。又主要な門は皆、升形虎口(ますがたこぐち)の形をとる、渡櫓門(わたりやぐらもん)であった。

又内部の建物は、最上段の伏見御殿といくつかの番所以外無かった。戦闘に備え、燃え易い建物は極力、郭(くるわ)内に置かなかったのだろう。先述のように伏見御殿は殆ど使われなかった事から、本丸は軍事施設として、日常使われる事は殆ど無かったと思われる。

以上のように、福山城本丸は、二の丸の稀薄さと対称的に、過密とも言える防備施設を持っていた。又その内部も、近代城郭技術を駆使した物であった。福山城本丸は、完成した防備を持つ堅城と言えよう。

本丸と二の丸の関係

三階以上の櫓は、本丸に18あるのに、二の丸には三しかなかった。それも町人街に向いた南東部にしかない。この事からも、福山城は本丸重視、本丸重点防御の城と言ってよかろう。

通常なら、本丸と二の丸のパランスを考えて、本丸の櫓を減らす事により、二の丸の各隅に隅櫓(すみやぐら)を配し、可能ならば各門の傍らに着到櫓を置くといった配置になると思う。

それがいびつとも言える配置になっているのは、築城者の構想によるものだろう。つまり本丸こそが本格的防御の主陣地であって、施設はここに集中し、二の丸は軽防御の前進陣地(惣構え)に過ぎないから、極力施設は省略する。ただ二の丸南東部のみは町人街から見え、町人や他国者も見る事から、ここのみ本格的な造りとして、威厳を繕(つくろ)う。そんな築城者の意思が感じられるのだ。

その背景として次の事があろう。福山城は政庁であると共に、いざ事ある時は、山陽道を東上する敵軍を阻止する、幕府方の要塞でもあった。しかし福山藩は周囲を外様大名に囲まれている為、他国勢の援助が得られず、藩兵のみの寵城といった事態にもなりかねない。そこで福山藩だけの兵力でも守れる規模の本丸を重視し、防備施設を集中した。そしてそのつけを二の丸が払い、貧弱な防備になった。そんな諷に考えるのである。

北側は弱いか?

福山城は、城の背後を吉津川と、幾つかの小山からなる天険(てんけん)で守りしその前面に郭(くるわ)を展開した、いわゆる「後堅固(うしろけんご)の城」と言える。その為二の丸の北側は、自然の要害が防備の主体であり、人工的な設備といっては、柵位しかなかった。この事から、北側の防備は幕府に配慮して本格的には行なわれなかったとする説がある。

しかし吉津川は、設計当初は芦田川本流とする予定で、これが実現しておれば北の守りは充分過ぎる物となったろう。それが洪水により頓座し、吉津川は一転して芦田川の支流となり、水量は減って要害としての意義は下がった。とはいえいくつもの古絵図で見る限り、吉津り||は外堀と同程度か、それ以上の川幅を有している。西側を蓮池とした後の、その下流の水量は明らかではないが、「探訪日本の城」掲載の絵図では、その部分を外濠と記しており、外堀代用とする為の、何らかの水を溜める設備を施してた可能性もある。以上のように吉津川は、藩政時代の当分の間は、充分に外堀の役を果たしていたと思えるのである。

又吉津川の内側、つまり二の丸北側には石垣や櫓、土塀といった設備が無い点については、北側のみでなく、他の部分でも同様であり、特に北を弱いとする理由にはならない。古絵図を見れば、二の丸東側の北御門より北は、堀の内は土塁のみであった。又南側大手門より西は、すぐに土塀は無くなり、石垣のみとなり、西側も同様である。

これらの部分が、郭の内部には土塀以外防御設備を持たぬ事からみれば、かえって北側の方が防備は厚いともいえる。それは吉津川と土塁代用の堤防の内側には、天神山、小丸山の二丘と沼池、そこから東外堀に注ぐ小川などが錯綜する、複雑な地形となっているからだ。

以上の事から、北側を弱いとする説は、吉津川が土砂の堆積や流量の変化で小川と化した現状からの推論と思われ、誤りと考えるのである。

又幕府に遠慮して云々も、築城に際して幕府が多くの援助を行なっている事実、山陽における幕府の要塞としての本城の役割からも、納得できない。幕府も外様大名に遠慮して、福山藩にそんな指示をする程弱くはなかったのである。

升形について

福山城の城門は、主要な物は皆、渡櫓門(わたりやぐらもん)を備えた升形虎口となっていた。升形には、敵の直進を防ぐ目的と、反撃の際内部に城兵をためる目的とがある。そして通常は、高麗門(こうらいもん)の一の門と、渡櫓門の二の門から成っていた。ところが福山城の升形は、全て一の門を欠いていた。

一の門が無ければ、升形内の動きを敵に知られて、反撃の際の障害になるし、防御上もたやすく升形内に侵入され、マイナスであろう。近代の城郭技術が完成された時代に作られた福山城で、どうしてこのような不完全と思える升形形式を採用したのだろう。

古絵図を見ると、福山城の升形は、いづれも升形外縁を土塁又は石塁で囲み、内幾つかめぐは土塀も廻らしている。この事から、当初一の門を作る計画で、石垣も築きながら、多分経済上の理由で断念したと推定するのである。一の門を作らないなら、こんな土塁や石垣は、殆ど用をなさないと思われるからである。

福山城に見る経費節減の跡

福山城の絵図を見て行くと、経費削減の為と思われる省略に幾つか気づく。それは

①升形が一の門を持たない事
②内堀は南側と東西の南端にしかない事
③二の丸は南東部のみ、石垣・土塀・櫓から成る。本式の防備を持つ事。

②と③は、いづれも町人街から見える方向なので、町人や他国者に、二の丸の堅い防備と、内堀が全周に及ぶように見せる「ハッタリ」だと思う。

④本丸の腰郭(こしぐるわ)(現二の丸)は、多くは櫓や多間で堅固に作られているのに、南側の東半分、東側の南半分は土塀しかない。

この部分には内堀が存在する事から、その防御力に期待しての省略と思われる。それにしても古写真に見るように、町人街からは三重の自い土塀と二重の堀が見え、堅固な印象は消えない。

⑤本丸の東側と西側の、内堀代用の石塁には、土塀も櫓も無い。

⑥天主閣は、五層ながら他城の物に比べて小ぶりである。以上のように、省略しても左程防御力の落ちない所と、町人街から見えない所は、手を抜かれているように感じられる。その背景を考えると、次のようになる。福山藩は、譜代大名としての威厳を保ち、かつ「西国の鎮衛(ちんえい)」としての堅固な城郭として、福山城を築かねばならなかった。しかし石高は十万石と小さく、又転封早々城と城下町の建設をせねばならず、費用の捻出に苦しんだ。

その為幕府からの経済的援助にも関わらず、全周に堅固な防御を施す事はできなかった。そこで防御力を落とさない範囲で、町人街から見えない部分は、極力施設を省略した。それでも足りず、升形の一の門などは建てる事なく終わり、その儘城の完成の日を迎えた。こんな諷に考えるのである。天主についても周辺の外様の城、広島・岡山・萩・津山が皆五層である事から、譜代としての対面上、三層にする訳にはいかなかったのだろう。

「久松城」の呼称について一言

最近村上正名氏が「久松城」を出された。氏は昭和41年に、ほぼ同じ内容の「福山城」を文化財協会から出版されている。この本は、他に福山城についてのまとまった本が無い事から、大きな影響を与えた。本の中の見解が、その儘通説となっている事も多い。

その本を此度「久松城」と解題し、又文中の福山城を久松城に差し替えて出版した事に私は釈然としない物を感じる。何故変える必要があるのだろう。福山城で定着しているのに。久松城は過去においても、現在でも一般に普及しなかった名称なのに。

江戸時代に書かれた諸本、『水野記』、『水野家記』、『備陽六郡志』、『西備名区』等々を見ると、お城に関する項は、皆福山城を使っている。又近年刊行された、全国の城郭を網羅したシリーズ、「日本城郭大系」、「探訪日本の城」でも福山城と記される。このように江戸時代においても、又現在も福山城の名称が一般に使われ、全国的にも定着しているといえよう。

それに対して久松城は正式の名称とは言え、現在地元の一部に知られる程度に過ぎない。別称としても、自鷺(しらさぎ)城、鳥(う)城といった他城の物程親しまれていないし、知られてもいない。それを福山城に関する唯一の本に使うのは、市民を、他市他県の読者を混乱させるだけではないか。

氏があえて久松城の名を使われたのは、深い理由がおありと思うが、本の中では何も触れられていない。是非お教え戴きたい。

東側から見ると(福山城私的想像復元図)
東側から見ると(福山城私的想像復元図)

西側からだと(福山城私的想像復元図)
西側からだと(福山城私的想像復元図)
南西から見れば(福山城私的想像復元図)
南西から見れば(福山城私的想像復元図)
北から眺めりゃ(福山城私的想像復元図)
北から眺めりゃ(福山城私的想像復元図)
 
http://bingo-history.net/uploads/2016/02/d99446577cdf8578b10291b08343b11d.jpghttp://bingo-history.net/uploads/2016/02/d99446577cdf8578b10291b08343b11d-150x100.jpg管理人近世近代史「山城志:第9集」より 吉田 和隆 福山城の絵について十序 福山城を見て、いつも思う。なんでみんな同じ構図なのだろう、と。描く人は、人と同じような絵を描いて満足なのだろうか。福山城を違った構図で描き、別の美しさを発見しよう、という意欲は持たないのか。 でも考えて見れば、画家には手本がいるのであって、実物が残っていない以上、復元図を手本に描くしかないのだ。でもそれは、本綿橋(もめんばし)のあたりから見た、例の構図しかない。復元図をつくるのは歴史家の仕事なのだから、それを充分に行なっていない福山の歴史家の方こそ怠慢である。そう反省した。 美人は正面から見るだけが美しいのではない。輪郭の強調された横顔、自いうなじと流れる黒髪をもつた後ろ姿も又、格別である。福山城も例の構図が一番美しいわけではあるまい。 そう思って、従来あまり描かれなかった、東・西・北の三方向から見た復元図を、古絵図を元に描いてみた。この三面は写真が少なく、櫓や門の外観は、推定に頼らざるを得なかった。素人の落書きと思って見て下さい。 序 復元図を描く為、古絵図をたんねんに見、史料を読む内、築城者の意図に気づかされたり、通説とされる村上氏の本に疑間が溜く事が多かった。それを思いつく儘小文に幾つも書いてみた。根拠の弱い推論が多い為、来年位に史料で補強して又書いてみたい。 天主閣 福山城の天守閣は、元和8年(1622)の建築で、それ以後焼失等により再建された物を除けば、全国でも最晩期の天主の一つである。その形態は層塔式と呼ばれる物で、外壁には防火を重視した総塗寵(ぬりごめ)を採用するなど、この時代の天主の典型であった。 さて、本天主の特徴を考えると ①最上層が回縁(わまりえん)式である事 ②内部3・4階に床の間を持つ事 ③石蔵が上層と同じ形状の窓を持つ事 ④北壁全面が鉄貼りである ⑤最上層の回縁に雨覆(あまおお)いのある事 ⑥石落としを備えない事 この内③④⑤は、私の知る範囲では本天主にしか無く、戦後の再建で④⑤が復元されなかった事を残念に思う。①②は他城にも例はあるが、最後期の建築である、本天主が採用している点で特徴的といえる。そして①~④の特徴から、福山城天主閣は、軍事面に重きを置いて設計された天主と考えられる。 詳しく述べるなら ①の回縁は、城の内外を見、敵状を観察して指揮する場、つまり「望楼(ぼうろう)」としての天主の軍事的機能にかなった設備であった。そして大山城、丸岡城に見るような、初期の望楼式天主は一般に回縁を備えていた。しかし平和な時代になると天主の軍事的意味は薄れ、江戸城、名古屋城といった後期の層塔式天守では回縁は設けられなくなる。 ②の床の間は、他に大山城の「上段の間」や岡山城の「城主の間」に見る事ができる。これは寵城(ろうじょう)の時、城主他が天主内で生活する場であったと思われる。初期の天主では、通常このような居住施設をある程度持っていた。しかし平和な時代には、天主は城の飾りに過ぎず、城主の生活も御殿で行なわれる事から、天主閣から居住の為の設備は失なわれて行く。 ③の石蔵の窓。平和な時代には天主閣は、倉庫として使われる位で、日常使用する建物ではなかった。だから建築の際、窓を設けるにあたっては、採光よりは防火性の方が優先したと思われる。では福山城が石蔵にも沢山の窓を開けたのは何故だろうか。 それは天主閣の軍事面を重視した為と思われる。つまり寵城の時には天主も城兵の宿所となる為、石蔵にも窓をあけてその居住性を高めると共に、石蔵からの射撃を可能にする目的からと考えるのである。 ④の北面の鉄貼りは、北方の山々からの砲撃に備えた物であろう。大阪冬の陣では、天主閣に砲弾が命中、淀君の女房二人を粉砕し、講和のきっかけとなったし、(『徳川実記』)島原の乱にも大砲は使用されている。水野勝成はこれらの戦闘にともに参戦しており、大砲の脅威を充分認識していたと思われる。その彼が築城の際指示し、万一天主に砲弾が当たっても、内部にまで貫通しないよう、鉄板を貼らせたと考えるのである。 ⑤の雨覆い。回縁を持つ天主は数あれど、こんな物が附くのは本天主しかない。創建時からの物か、後の物かは明らかでないが、多分阿部氏の時代に附けた物だろう。藩主阿部氏は、その多くが幕閣の中枢に加わり、為に江戸に常府の時が多く、福山には不在がちであった。その為城内の建物は使われる時が少なく、その管理は行き届かなかったようで、伏見御殿は多くの建物をこの時代に失っている。天主閣は城のシンボルであり腐朽させるわけに行かず、その最も弱い回縁に雨覆いをかけて守ったと考えられるのである。 ⑥の石落としについては、古写真で見る限り、城内の櫓、土塀にも見られず、福山城は全体として採用しなかったらしい。石落しは江戸城や大阪城などにも設けてあり、この時代にもその実戦的な意義は失なわれていなかったと思われる。それを省略したのは、経費削減の為か、それとも建設の際実戦を意識しなかったからであろうか。 以上のように福山城天主閣は、平和な時の建築ながら、実戦向きと考えられる特徴を幾つか持っていた。これは福山城が西国における、幕府の重要な拠点であった事から、天主の建築にもその意思が反映したものだろう。 伏見御殿 築城の時、伏見城から移された御殿である。『備陽六郡志』によれば、ここに住んだのは初代勝成だけで、二代勝俊は二の丸東側に新たな御殿を作って住み、伏見御殿は藩主が江戸へ参勤する時と、福山へ参勤から帰った時のみ使われたという。以後の藩主もこれに習った。 ではこの御殿が使われなくなった理由は何だろうか。私は軍事優先に作られ、敷地の狭い本丸に建てられた為、居住性が悪かったからと考える。古絵図を見ると、伏見御殿は本丸最上段に所狭しと建物が建ち並んでおり、いかにも狭苦しい印象を受ける。必要があっても増築は難しいし、庭園も充分な物は作れなかったろう。それに比べると、二の丸の御殿はおよそ三倍近い広い敷地があり、遥かに快適に生活できたと思われる。本丸に御殿があるのに、他の郭に新たに作って移るのは、他城にも例は多い。 勝俊以後も歴代の藩主は、二の丸御殿に住み、哀れ空屋となった伏見御殿は、阿部氏の時代に次々と腐朽倒壊し、建物を失なって行った。(『備陽六郡志』)そしてそれ等は再建される事なく、建物を減じた姿で明治を迎えたのである。城の中心の本丸、その中の藩主の屋敷が荒れるにまかされる等信じ難い気がする。ましてやこの御殿は、幕府から拝領の由緒ある建築である。福山藩の窮乏ぶりを認識させる一事である。 二の九 福山城の郭(くるわ)は、『水野記』や『備陽六郡志』を見ると、水野時代から阿部氏の初期までは、本丸と二の丸の二つから成っていた。それが阿部氏の時代のいつの頃かに、本丸の一部を二の丸とし、二の丸を三の丸と改称し、三区分とした。現在もその区分が定着している。だが三区分だと、本丸と二の丸の境界が必ずしも明確でないので、以下の文では築城当時の本丸。二の丸の二郭構成として書いていく。 福山城の二の丸は、北を吉津川、残る三方を外堀で囲まれた広大な郭で、中には勘定所御蔵屋敷、馬場などの公的な建物と、藩主の御殿、ハイクラスの家臣達の屋敷などがあった。 城としての二の丸の防備をみると、いたって簡素な物である事に気附く。例を掲げると ①三階以上の櫓21の内、二の丸には僅か3しか建てられていない。 ②本丸には数多い多聞櫓が、二の丸には全く無い。 ③南東部を除けば、堀と土塁、堀と石堀、自然の要害に柵のみといった組み合わせの、貧弱な構えの部分が多い。 ④二の丸内部は、平垣な敷地が広がり、中を土塀が仕切るだけの、単純な構造である。堀や石垣・櫓といった本格的な防御設備は存在しない。 ①~③から、二の丸の防備は、戦時に惣構えとする程度の、貧弱な物であったといえる。又④から二の丸の性格は城郭というよりは、本来的には屋敷地であると言えようか。 本丸 二の丸に比べると、本丸の防備は格段に充実していた。天主閣と御殿のある主要部を、現在二の丸と呼ばれる腰郭か取り巻き、いづれも石垣で固められている。その外周を、内堀が南側と東西に少し回り、東側と西側の堀を欠く部分は、内堀代用の石垣が長く連なる。北側は小丸山と御蔵屋敷のある小郭か外郭ととなり、内堀の代りをなす。このように本丸は、全周に渡って二重の防塁に守られた城と言える。 そして石垣の上には7つの三重櫓と11の二重櫓が建ち、多間櫓と土堀がつないだ。7つの三重櫓は、その内の幾つかが神辺城と伏見城からの移築とは言え、(『備陽六郡志』)大層豪華な施設といえた。 本丸内の構造も複雑で、12の門を持ち、門から次の門までの距離は長く、攻者は長時間銃火にさらされる事になる。又主要な門は皆、升形虎口(ますがたこぐち)の形をとる、渡櫓門(わたりやぐらもん)であった。 又内部の建物は、最上段の伏見御殿といくつかの番所以外無かった。戦闘に備え、燃え易い建物は極力、郭(くるわ)内に置かなかったのだろう。先述のように伏見御殿は殆ど使われなかった事から、本丸は軍事施設として、日常使われる事は殆ど無かったと思われる。 以上のように、福山城本丸は、二の丸の稀薄さと対称的に、過密とも言える防備施設を持っていた。又その内部も、近代城郭技術を駆使した物であった。福山城本丸は、完成した防備を持つ堅城と言えよう。 本丸と二の丸の関係 三階以上の櫓は、本丸に18あるのに、二の丸には三しかなかった。それも町人街に向いた南東部にしかない。この事からも、福山城は本丸重視、本丸重点防御の城と言ってよかろう。 通常なら、本丸と二の丸のパランスを考えて、本丸の櫓を減らす事により、二の丸の各隅に隅櫓(すみやぐら)を配し、可能ならば各門の傍らに着到櫓を置くといった配置になると思う。 それがいびつとも言える配置になっているのは、築城者の構想によるものだろう。つまり本丸こそが本格的防御の主陣地であって、施設はここに集中し、二の丸は軽防御の前進陣地(惣構え)に過ぎないから、極力施設は省略する。ただ二の丸南東部のみは町人街から見え、町人や他国者も見る事から、ここのみ本格的な造りとして、威厳を繕(つくろ)う。そんな築城者の意思が感じられるのだ。 その背景として次の事があろう。福山城は政庁であると共に、いざ事ある時は、山陽道を東上する敵軍を阻止する、幕府方の要塞でもあった。しかし福山藩は周囲を外様大名に囲まれている為、他国勢の援助が得られず、藩兵のみの寵城といった事態にもなりかねない。そこで福山藩だけの兵力でも守れる規模の本丸を重視し、防備施設を集中した。そしてそのつけを二の丸が払い、貧弱な防備になった。そんな諷に考えるのである。 北側は弱いか? 福山城は、城の背後を吉津川と、幾つかの小山からなる天険(てんけん)で守りしその前面に郭(くるわ)を展開した、いわゆる「後堅固(うしろけんご)の城」と言える。その為二の丸の北側は、自然の要害が防備の主体であり、人工的な設備といっては、柵位しかなかった。この事から、北側の防備は幕府に配慮して本格的には行なわれなかったとする説がある。 しかし吉津川は、設計当初は芦田川本流とする予定で、これが実現しておれば北の守りは充分過ぎる物となったろう。それが洪水により頓座し、吉津川は一転して芦田川の支流となり、水量は減って要害としての意義は下がった。とはいえいくつもの古絵図で見る限り、吉津り||は外堀と同程度か、それ以上の川幅を有している。西側を蓮池とした後の、その下流の水量は明らかではないが、「探訪日本の城」掲載の絵図では、その部分を外濠と記しており、外堀代用とする為の、何らかの水を溜める設備を施してた可能性もある。以上のように吉津川は、藩政時代の当分の間は、充分に外堀の役を果たしていたと思えるのである。 又吉津川の内側、つまり二の丸北側には石垣や櫓、土塀といった設備が無い点については、北側のみでなく、他の部分でも同様であり、特に北を弱いとする理由にはならない。古絵図を見れば、二の丸東側の北御門より北は、堀の内は土塁のみであった。又南側大手門より西は、すぐに土塀は無くなり、石垣のみとなり、西側も同様である。 これらの部分が、郭の内部には土塀以外防御設備を持たぬ事からみれば、かえって北側の方が防備は厚いともいえる。それは吉津川と土塁代用の堤防の内側には、天神山、小丸山の二丘と沼池、そこから東外堀に注ぐ小川などが錯綜する、複雑な地形となっているからだ。 以上の事から、北側を弱いとする説は、吉津川が土砂の堆積や流量の変化で小川と化した現状からの推論と思われ、誤りと考えるのである。 又幕府に遠慮して云々も、築城に際して幕府が多くの援助を行なっている事実、山陽における幕府の要塞としての本城の役割からも、納得できない。幕府も外様大名に遠慮して、福山藩にそんな指示をする程弱くはなかったのである。 升形について 福山城の城門は、主要な物は皆、渡櫓門(わたりやぐらもん)を備えた升形虎口となっていた。升形には、敵の直進を防ぐ目的と、反撃の際内部に城兵をためる目的とがある。そして通常は、高麗門(こうらいもん)の一の門と、渡櫓門の二の門から成っていた。ところが福山城の升形は、全て一の門を欠いていた。 一の門が無ければ、升形内の動きを敵に知られて、反撃の際の障害になるし、防御上もたやすく升形内に侵入され、マイナスであろう。近代の城郭技術が完成された時代に作られた福山城で、どうしてこのような不完全と思える升形形式を採用したのだろう。 古絵図を見ると、福山城の升形は、いづれも升形外縁を土塁又は石塁で囲み、内幾つかめぐは土塀も廻らしている。この事から、当初一の門を作る計画で、石垣も築きながら、多分経済上の理由で断念したと推定するのである。一の門を作らないなら、こんな土塁や石垣は、殆ど用をなさないと思われるからである。 福山城に見る経費節減の跡 福山城の絵図を見て行くと、経費削減の為と思われる省略に幾つか気づく。それは ①升形が一の門を持たない事 ②内堀は南側と東西の南端にしかない事 ③二の丸は南東部のみ、石垣・土塀・櫓から成る。本式の防備を持つ事。 ②と③は、いづれも町人街から見える方向なので、町人や他国者に、二の丸の堅い防備と、内堀が全周に及ぶように見せる「ハッタリ」だと思う。 ④本丸の腰郭(こしぐるわ)(現二の丸)は、多くは櫓や多間で堅固に作られているのに、南側の東半分、東側の南半分は土塀しかない。 この部分には内堀が存在する事から、その防御力に期待しての省略と思われる。それにしても古写真に見るように、町人街からは三重の自い土塀と二重の堀が見え、堅固な印象は消えない。 ⑤本丸の東側と西側の、内堀代用の石塁には、土塀も櫓も無い。 ⑥天主閣は、五層ながら他城の物に比べて小ぶりである。以上のように、省略しても左程防御力の落ちない所と、町人街から見えない所は、手を抜かれているように感じられる。その背景を考えると、次のようになる。福山藩は、譜代大名としての威厳を保ち、かつ「西国の鎮衛(ちんえい)」としての堅固な城郭として、福山城を築かねばならなかった。しかし石高は十万石と小さく、又転封早々城と城下町の建設をせねばならず、費用の捻出に苦しんだ。 その為幕府からの経済的援助にも関わらず、全周に堅固な防御を施す事はできなかった。そこで防御力を落とさない範囲で、町人街から見えない部分は、極力施設を省略した。それでも足りず、升形の一の門などは建てる事なく終わり、その儘城の完成の日を迎えた。こんな諷に考えるのである。天主についても周辺の外様の城、広島・岡山・萩・津山が皆五層である事から、譜代としての対面上、三層にする訳にはいかなかったのだろう。 「久松城」の呼称について一言 最近村上正名氏が「久松城」を出された。氏は昭和41年に、ほぼ同じ内容の「福山城」を文化財協会から出版されている。この本は、他に福山城についてのまとまった本が無い事から、大きな影響を与えた。本の中の見解が、その儘通説となっている事も多い。 その本を此度「久松城」と解題し、又文中の福山城を久松城に差し替えて出版した事に私は釈然としない物を感じる。何故変える必要があるのだろう。福山城で定着しているのに。久松城は過去においても、現在でも一般に普及しなかった名称なのに。 江戸時代に書かれた諸本、『水野記』、『水野家記』、『備陽六郡志』、『西備名区』等々を見ると、お城に関する項は、皆福山城を使っている。又近年刊行された、全国の城郭を網羅したシリーズ、「日本城郭大系」、「探訪日本の城」でも福山城と記される。このように江戸時代においても、又現在も福山城の名称が一般に使われ、全国的にも定着しているといえよう。 それに対して久松城は正式の名称とは言え、現在地元の一部に知られる程度に過ぎない。別称としても、自鷺(しらさぎ)城、鳥(う)城といった他城の物程親しまれていないし、知られてもいない。それを福山城に関する唯一の本に使うのは、市民を、他市他県の読者を混乱させるだけではないか。 氏があえて久松城の名を使われたのは、深い理由がおありと思うが、本の中では何も触れられていない。是非お教え戴きたい。  備後地方(広島県福山市)を中心にした地域の歴史を研究しする歴史愛好の集いです