1996年06月22日

『人国記』に見る備後人

備陽史探訪:71号」より

田口 義之

ここに『人国記(じんこくき)』と言う書物がある。

日本六十六ケ国の人情、風俗を国別に記したもので、戦国甲斐の名将・武田信玄が常に座右に置き、諸国計略の参考にしたと言う稀本である。(現在は『群書類従』に収録され図書館などで誰でも読むことが出来る)

作家の故司馬遼太郎さんが言うように、この書物を著した人は相当な眼力を持った人物で、或いは同氏が言われるように、編者は武田信玄その人かも知れない。

それはともかくとして、作者は「人間の本性は悪である」と言う、いわゆる『性悪説』に立っていたと言うべきか、誉められた国はほとんどない。

たとえば、西隣の安芸の国(広島県西部)は、

人の気質実多き国風なれども気自然と狭くして人の善を見てもさして褒美せず

悪を見ても誹(そし)らず、ただ自分の意地を立てるだけだ、とある。また、著者は播磨の国(兵庫県南部)の人情について言う。

知恵あっで義理を知らず親は子をたばかり、子は親を出し抜き……

総じて「悉皆盗賊の振る舞い」だという。言われた国々の人はたまったものではないが、書かれた年代が室町時代末期と言えば『弱肉強食』の戦国の世である。人の善意など当てにしてはいられない、乱世を生き抜くためには、これも致し方ないのである。現に播磨の国では、守護赤松氏を倒した守護代浦上氏は、政宗・宗景兄弟が骨肉の争いを繰り広げ、『人国記』に書かれている通りの様相を呈した。

さて、『人国記」に見る我が備後である、同書は記す。

「備後国の風俗は、人の気実儀にして、一度約をしたる事は、変かへをする事鮮(すくな)し、然れども愚痴なる事多き故、実ならざる事をも弁(わきま)えずして請け合い、終いに悪名を取ること多かるべきなり。大体は西備中の風俗なり。武士の風儀もかくのごとくなり

「愚痴」の者が多いので、正邪を弁えず、安請け合いして、「悪名を取ること多し」とはあんまりだが、それでも前に挙げた播磨の国よりはましである。

戦国期の備後の様子を見ると、山内・三吉・宮・杉原氏等の国人衆は、隣国の国人衆と比べて勢力的には何等遜色がなかったにもかかわらず、互いに牽制しあっている間に、毛利元就につけ込まれ、国を取られてしまったが、この『人国記』の記述を読むと、その原因がなんとなく分かるような気がする。

ほぼ「西備中の風俗なり」とは、現在でも福山地方は井原・笠岡地方(かつての備中西南部である)と縁が深く、思い当たる人も多いであろう。

因みに備中国の人情・風俗は、同書によると次の通りである。

備中国之風儀すべて意地強く、侍を初めとして百姓男女までも勇気の義理をはけます心常に有り、然りと雖も不敵なる意地有る故に道理を弁えぎる事多くして、たとえば兄弟口論をなして兄は弟を哀れまず弟亦兄を敬と云う心を弁えず、一気勢に随て兄弟として切結、終に討ち果たすの類まま有りと見えたり。然れども此の国の内備前堺より半国は風儀不正繕ひの風流なる所有る故に真実は西郡程には中々無之

(これも相当ひどい書かれ方である)

では、この『人国記』の記述は、果たして備後の歴史と風土に根ざしたものなのであろうか。また、「備後人」の気質とは……………。極めてみたいテーマの一つである。