神辺町(旧中条村)『一対川』の名称について

備陽史探訪:83号」より

鼓 正人

神辺中条(旧中条村)を流れる川

神辺中条(旧中条村)を流れる川

①堂々川②貝谷川③深水川④山田川⑤箱田川⑥今信川⑦ 一対川③六反田川

「旧中条村」(現神辺町)には北側から南方に向けて流れる河川が大小合わせて8本も流れている。それらの川は総て神辺町の中央をながれる高屋川に合流していて、同川は芦田川に合流し海にそそいでいる。芦田川は国の一級河川のうち水質汚濁がもっとも進んだ川である。

旧中条村にある川で一番東側にある川は堂々川で、大原池付近を水源に、大原池、淀池を経て流水している。谷間を流れる堂々川は、度々の洪水により下流は被害を受けた。特に、天保7年(一六九四)頃の大洪水で池は氾濫し土石流れで、国分寺や付近の民家が流され死者がでるなど村は流された。住民の手での改修は無理である。そこで福山藩も改修に意を注ぎ、藩主水野勝種(4代)が順次、「砂留」の砂防堰堤を築かせた。石垣を一見すると、その工法は城の石組みの様で、半円形の石積みにし絶対に崩れないように内部には小石を敷きつめる等の特殊な工法で施工し、特に6基目は大きな防堰堤となっている。大原池付近には、「福山カントリークラブ」のゴルフ場もあり、中腹部には「堂々公園」も出来ていて、せせらぎも流れていて、町の観光名所となっている。

その川の西側、山を隔て寒水寺山付近を水源とした貝谷川が流れている。同川には、深水川、山田川が途中で合流している。深水地区、山田地区の土地名が、即ち川名となっている。平素は水は流れていないが、土手下には小さな溝のような川があり水は流れている。

旧中条村のほぼ中央を流れている一番大きな川、それが箱田川である。

平素水は殆んど流れていない。広山寺付近上流で木ノ内地区の「池之坊池」を経た今信川と合流し、大坊新池東側を流れ、下流の箱田地区を経て高屋川にと合流している。

箱田川は正式名称で、通称は天井川と呼んでいる。

同川には殆んど水は流れていないが、土手は県道三谷神辺線、町道梶久才原線となっている。土手下両側には小川が流れていて常に田畑を潤し生活用水となっている。

箱田川は大雨で洪水となると濁流神辺中条(旧中条村)を流れる川に土砂が流れだし上手は崩れ、その度に土砂を取り除く作業を繰り返す。除いた土砂は土手に積み上げられ、川底や土手は田畑より高くなり天井川と呼ばれるようになった。

その原因は、旧村の山には樹木が少なく、俗に云う「ハゲ山」だったのだ。現在その面影はないが、一昔前迄は、中条の「ハゲ山」は有名で神辺町や、福山市から夜間帰るときは、「ハゲ山」を目標に帰れば「道に迷うことはない」、と云われた程である。

そのような状態だった為、ひとたび洪水に遭遇すると下流の箱田地区、特に千田地区は沼と化し、切角植えた稲も水びたしになり、二度も田植えをせねばならなぬ悲惨な状態であった。

現在は汚水の濾過施設、新河川法による「環境の整備と保全」にもとづき、河川の拡張、池の堰堤、道路の改修などが施工されている。

左は黄龍山からの川、右はケイホウの河原からの川
左は黄龍山からの川、右はケイホウの河原からの川

それはさておき、私が特に興味を抱いた短い川がある。箱田川の西側、即ち、西中条川西の大坊谷を流れる「一対川」である(図面参照)。この川は全長360m位いの極く短い川で、水源は二つあり、その一つは黄龍山(遍照寺山)であり、いま一つは加茂町に通じる谷合の通称『ケイホウの河原』を水源としている。同河原の下には砂止め工事が施されている。

重厚な石積みで、半円形で傾斜に5段積に重ねられている。その石垣の一部に、

明治十五年八月
中以地方税砂留
五尺増築
戸長 金尾直樹

と刻されている。
(明治5年庄屋から戸長に改められ、明治22年町村施行、戸長を廃して村長)

この石は道路西側の二段目の積石に刻されている 石の風化で判読は難しい。当時の社会は、明治6年地租税改正、同10年には地租税減額の緊縮財政から明治15年に税金による工事で、従来は地区の共同作業から、税金による工事の施行は注目すべき工事だったと思う。恐らく土砂の流出が激しく、被害も甚大だったと想像されるが、戸長金尾氏の功績であろうが、その工事は「増築」となっているので、それ迄にも砂留はあるが、土砂の流出が多かった為であろう。砂留めの50m下流にもなだらかな石組で第2の砂堰があるが従前のままの様である。何れにしても公的補助金、税制度の確立の不十分な時代に施工されていることは特に注目に値する。二本の源流からの流水は別々の流れだった。その流れを変えたのは明治の増築の際か、或いはそれ以前に一本の改修し、池の両側を流し、堰を設けて池に流入させ、貯水池とし、南側の樋は大坊地区へ、西側にある樋は田渕地区へと渓流から流出する少ない水を共同で管理し、話し合いで分配していた。

当時水は稲作にとっても飲料水としても生命であり、両地区は運命共同体であった。字典によると「一対とは二つが一組となること」とある。これが川の名称の語源になりそうである。私は古老からの伝え聞きで、「イチイガワ」と聞いていたが「一対川」と書くとは知らなかった。流れの状態をそのまま呼び名にした誠に当を得た川名であると推測し一人で納得している。大坊、田渕、安光地区は箱田川の西側にあるので、西中条字川西と言われている。

一対川の川下は昭和3~4年に改修工事が行われ、その記念碑は倒れたままになっている。一対川と箱田川の合流点は道路下を「トンネル」状にくぐり抜けて道路両側に欄干がある。一風変わった珍しい橋である。

赤褐色の角型石を南面に「一対川橋」、北面に「いっついがわ」と刻されている。

一番西側を流れているのが六反田川で、下流に六反田地区があり川の名称となっている。上流は渡瀬川付近を中心に流れているが土砂というより粘土質のような土が流出し、川底は沼のようになっていて、川の整備工事と並行して道路拡張工事も施工されている。環境の整備、特に水資源の保護に源流に目を向け、高屋川の汚染を防ぎ、芦田川の汚い水を清流にして海に流す。

山と川と海を結び、水質の悪化を防ぐ、水鳥や魚の住める環境づくりが大切である。生活排水や、工場排水からの汚染も放置できないが、源流から工事が進められている故郷の川を見て、自然との調和はどのように図られるのか、変化の少ない地域、取り残されたような地区に新しく施行されつつある工事に、「天井川」や、「一対川」の文化財的名称に乏しい知識であれ想像し、その起源に思いを走らせ、郷愁を感じている。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/c727a6f0c5f0667855a227bfb68d6400.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/c727a6f0c5f0667855a227bfb68d6400-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:83号」より 鼓 正人 神辺中条(旧中条村)を流れる川 ①堂々川②貝谷川③深水川④山田川⑤箱田川⑥今信川⑦ 一対川③六反田川 「旧中条村」(現神辺町)には北側から南方に向けて流れる河川が大小合わせて8本も流れている。それらの川は総て神辺町の中央をながれる高屋川に合流していて、同川は芦田川に合流し海にそそいでいる。芦田川は国の一級河川のうち水質汚濁がもっとも進んだ川である。 旧中条村にある川で一番東側にある川は堂々川で、大原池付近を水源に、大原池、淀池を経て流水している。谷間を流れる堂々川は、度々の洪水により下流は被害を受けた。特に、天保7年(一六九四)頃の大洪水で池は氾濫し土石流れで、国分寺や付近の民家が流され死者がでるなど村は流された。住民の手での改修は無理である。そこで福山藩も改修に意を注ぎ、藩主水野勝種(4代)が順次、「砂留」の砂防堰堤を築かせた。石垣を一見すると、その工法は城の石組みの様で、半円形の石積みにし絶対に崩れないように内部には小石を敷きつめる等の特殊な工法で施工し、特に6基目は大きな防堰堤となっている。大原池付近には、「福山カントリークラブ」のゴルフ場もあり、中腹部には「堂々公園」も出来ていて、せせらぎも流れていて、町の観光名所となっている。 その川の西側、山を隔て寒水寺山付近を水源とした貝谷川が流れている。同川には、深水川、山田川が途中で合流している。深水地区、山田地区の土地名が、即ち川名となっている。平素は水は流れていないが、土手下には小さな溝のような川があり水は流れている。 旧中条村のほぼ中央を流れている一番大きな川、それが箱田川である。 平素水は殆んど流れていない。広山寺付近上流で木ノ内地区の「池之坊池」を経た今信川と合流し、大坊新池東側を流れ、下流の箱田地区を経て高屋川にと合流している。 箱田川は正式名称で、通称は天井川と呼んでいる。 同川には殆んど水は流れていないが、土手は県道三谷神辺線、町道梶久才原線となっている。土手下両側には小川が流れていて常に田畑を潤し生活用水となっている。 箱田川は大雨で洪水となると濁流神辺中条(旧中条村)を流れる川に土砂が流れだし上手は崩れ、その度に土砂を取り除く作業を繰り返す。除いた土砂は土手に積み上げられ、川底や土手は田畑より高くなり天井川と呼ばれるようになった。 その原因は、旧村の山には樹木が少なく、俗に云う「ハゲ山」だったのだ。現在その面影はないが、一昔前迄は、中条の「ハゲ山」は有名で神辺町や、福山市から夜間帰るときは、「ハゲ山」を目標に帰れば「道に迷うことはない」、と云われた程である。 そのような状態だった為、ひとたび洪水に遭遇すると下流の箱田地区、特に千田地区は沼と化し、切角植えた稲も水びたしになり、二度も田植えをせねばならなぬ悲惨な状態であった。 現在は汚水の濾過施設、新河川法による「環境の整備と保全」にもとづき、河川の拡張、池の堰堤、道路の改修などが施工されている。 それはさておき、私が特に興味を抱いた短い川がある。箱田川の西側、即ち、西中条川西の大坊谷を流れる「一対川」である(図面参照)。この川は全長360m位いの極く短い川で、水源は二つあり、その一つは黄龍山(遍照寺山)であり、いま一つは加茂町に通じる谷合の通称『ケイホウの河原』を水源としている。同河原の下には砂止め工事が施されている。 重厚な石積みで、半円形で傾斜に5段積に重ねられている。その石垣の一部に、 明治十五年八月 中以地方税砂留 五尺増築 戸長 金尾直樹 と刻されている。 (明治5年庄屋から戸長に改められ、明治22年町村施行、戸長を廃して村長) この石は道路西側の二段目の積石に刻されている 石の風化で判読は難しい。当時の社会は、明治6年地租税改正、同10年には地租税減額の緊縮財政から明治15年に税金による工事で、従来は地区の共同作業から、税金による工事の施行は注目すべき工事だったと思う。恐らく土砂の流出が激しく、被害も甚大だったと想像されるが、戸長金尾氏の功績であろうが、その工事は「増築」となっているので、それ迄にも砂留はあるが、土砂の流出が多かった為であろう。砂留めの50m下流にもなだらかな石組で第2の砂堰があるが従前のままの様である。何れにしても公的補助金、税制度の確立の不十分な時代に施工されていることは特に注目に値する。二本の源流からの流水は別々の流れだった。その流れを変えたのは明治の増築の際か、或いはそれ以前に一本の改修し、池の両側を流し、堰を設けて池に流入させ、貯水池とし、南側の樋は大坊地区へ、西側にある樋は田渕地区へと渓流から流出する少ない水を共同で管理し、話し合いで分配していた。 当時水は稲作にとっても飲料水としても生命であり、両地区は運命共同体であった。字典によると「一対とは二つが一組となること」とある。これが川の名称の語源になりそうである。私は古老からの伝え聞きで、「イチイガワ」と聞いていたが「一対川」と書くとは知らなかった。流れの状態をそのまま呼び名にした誠に当を得た川名であると推測し一人で納得している。大坊、田渕、安光地区は箱田川の西側にあるので、西中条字川西と言われている。 一対川の川下は昭和3~4年に改修工事が行われ、その記念碑は倒れたままになっている。一対川と箱田川の合流点は道路下を「トンネル」状にくぐり抜けて道路両側に欄干がある。一風変わった珍しい橋である。 赤褐色の角型石を南面に「一対川橋」、北面に「いっついがわ」と刻されている。 一番西側を流れているのが六反田川で、下流に六反田地区があり川の名称となっている。上流は渡瀬川付近を中心に流れているが土砂というより粘土質のような土が流出し、川底は沼のようになっていて、川の整備工事と並行して道路拡張工事も施工されている。環境の整備、特に水資源の保護に源流に目を向け、高屋川の汚染を防ぎ、芦田川の汚い水を清流にして海に流す。 山と川と海を結び、水質の悪化を防ぐ、水鳥や魚の住める環境づくりが大切である。生活排水や、工場排水からの汚染も放置できないが、源流から工事が進められている故郷の川を見て、自然との調和はどのように図られるのか、変化の少ない地域、取り残されたような地区に新しく施行されつつある工事に、「天井川」や、「一対川」の文化財的名称に乏しい知識であれ想像し、その起源に思いを走らせ、郷愁を感じている。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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