2001年10月13日

二通の傘連判状(山内・宮・渋川・杉原重盛の名が抜ける謎)

備陽史探訪:103号」より

田口 義之

毛利氏の傘連判状について

傘連判状の署名者(右が安芸【二二六号】、左が備後【二二五号】)

傘連判状の署名者(右が安芸【二二六号】、左が備後【二二五号】)

弘治三年(一五五七)十二月、防長を制圧し、四ヶ国の大名となった毛利氏は、改めて配下の国人衆と盟約を結び、結束を固めた。これが『毛利家文書』二二六号、毛利元就他十一名契状である。傘連判状として有名なこの文書は安芸の国人と毛利氏が取り交わした契約状だが、実は備後の国人と毛利氏が取り交わした同様の傘連判状もあった。それが『毛利家文書』二二五号の「毛利氏親類衆年寄衆並家人連署起請文案(ママ)」である。

この文書は長い間、刊本の題名(先に掲げた文書名)に惑わされて誤解されて来た。たとえば杉山博氏はその著『戦国大名』(中央公論社「日本の歴史」十一)の中で、元就が家臣と傘連判状で盟約したことを毛利権力の基盤の弱さを示すものと述べられた。このような例は中央の学者の著書から県内の郷土史書に至るまで多数ある。やはり、「東京帝国大学史料編纂所」の権威は絶大である。

私は、以前からこの文書に付された題名「毛利氏親類衆年寄衆云々」には疑間を持っていた。毛利元就・隆元と共に署名した人物には毛利氏の「親類衆」とか「年寄衆」と呼ばれるような者は一人もいない。このことは以前主張したこともある(拙稿「備後有地氏について」芸備地方史研究一四六号―一九八四年)。

ところが最近になって風向きが変わってきた。矢田俊文氏が正面きってこの問題を通俗本(新人物往来社刊『毛利元就のすべて』―一九八六年)で取り組まれて以来、この文書を刊本『毛利家文書』の文書名通りに解釈する者はいなくなった。私の年来の主張が通ったというよりも毛利氏や芸備の国人衆に関する研究が深化したためである。

この二通の傘連判状は何度読んでも興味深いものである。まず、署名者の数からして十二名と十八名で開きがある。安芸の場合はほとんどの国人衆を網羅しているが、備後の場合は違う。既に毛利氏に服属しているはずの山内隆通・宮景盛・渋川義正・杉原盛重の名が抜けている。何故か…。また、二通の文書を比較してみると、安芸の国人が郡単位に近い所領を持つ有力な国人で占められているのに対し、備後の場合は、湯浅・新見・芥川のようにわずかに郷村一所、貫高で言えば三百貫程度の所領しか持たない弱小国人が多数含まれていることである。また、地域的な偏在も日立つ。

このことの意味することは重大である。この時点で毛利氏は備後を完全には制圧していないことになるのである。勿論、他の史料から山内・宮・渋川・杉原盛重は、この時期毛利氏に服属している。これも確かである。では、何故この連判状に署名しなかったのか…。

私はこのことを次のように理解したい。山内・宮(久代)氏の場合は、両氏の所領は出雲・備後にまたがっていて、出雲の尼子氏と直接堺を接していた。この時期尼子の勢力はまだまだ強力である。両氏は一面で尼子氏とも交渉を持っていたのではないだろうか。つまり、両氏の場合は、尼子・毛利両勢力の間にあって半ば独立を保っていた。これが両氏が署判者に名を連ねなかった理由である。

渋川氏の場合は、家格の違いが理由である。備後渋川氏は九州探題渋川氏の後裔である。毛利氏などとは家格が違う。傘連判は署名者が対等であることを示す起請文の形式である。足利の「御一家衆」という、後の「御三家」のような高い家格を誇りとする渋川氏がこのような文書に署名するはずがない。また、盛重は丁度この時期に山名理興の遺跡を相続しており、かつ杉原一門を代表して隆盛が盟約に参加しており、署判者から外されたのであろう。