古志豊綱の活躍年代(吉信は豊綱の養子か?)

備陽史探訪:164号」より

矢田 貞美

一 毛利家文書に見える古志豊綱

古志左衛門太夫豊綱は弘治三年二月(一五五七)、備後の国人衆十八名が軍人の狼藉や規律破りをさせないことを誓った、毛利氏親類衆年寄衆家人連署起請文案に登場する(毛利家文書二二五)。また、永禄四年(一五六一)三月、毛利元就・隆元父子が小早川隆景の招待に応じて御調郡本郷の雄高山城を訪問しているが、その接待係の中に古志左衛門太夫の名が見える(小早川家文書一二三、毛利家文書四〇三)。

二 田総氏宛の古志豊綱書状

年欠十二月六日付田総藤蔵人佐宛の古志豊綱書状を次に示す((1)、萩藩閥閲録巻89)。両編者はこの年欠書状の年代を大永六年(一五二六)で、宛先蔵人佐の実名を俊里と比定しているが、年代は尼子氏と大内・毛利氏の関係から、また実名は田総氏の系譜によると(3)、ほぼ間違いないと思われる。この書状は古志豊綱が田総藤蔵人俊里に対して、大永六年(一五二六)十二月六日、多賀山表(庄原市高野町)に出張の尼子詮久軍を撃退した山内直通方の勝利を祝し、田総氏の軍功を讃えたものと思われる。

      古志豊綱書状(切紙)
    端裏切封
   「(墨引)」
雲州衆至多賀山(備後国)表乱入之処、山内(直通)方被相談御合戦被得勝利、敵退散之由其聞候、千今雖不始儀候、御忠節無比類被思召之通、被成御書候、(山内)弥直通被仰談、御粉骨肝要之趣相心得可申入之旨、被仰出候、猶委細自由斎可被申入候条、不能一二候、恐々謹言葉、

十二月六日  (古志)豊綱(花押)
 田総藤蔵人佐殿
       御宿所

この藤蔵人佐俊里宛書状の外、古志豊綱の下記の年欠十一月二十八日付と年欠正月十六日付俊里の父信濃守(好里)宛の二書状があり(前記史料所収)、何れも切紙で好里宛の両書状は書状内容から大永六年(一五二六)十一月廿八日と大永七(一五二七)年正月十六日のものと推定される。即ち、

尼子至其国乱入巳来、別而被抽御馳走、御粉骨之趣、山内(直通)上野介被申上候条、致披露候處、御祝着之通、以御書被仰出候、彌御忠節肝要之由、従私可申入之旨候、恐々謹言
   十一月廿八日   豊綱 判
   田総(好里)信濃守殿 御宿所

革足袋御進上侯、 致披露候處、御祝着之旨、以御書被仰出候、仍其
  (山内直通)
国之儀、上野介方被仰談、御入魂簡要之由御意候、然は此左右二付而、彦次郎殿杯御下向之儀、可相急候趣被仰出候、恐々謹言
   正月十六日    (古志)豊綱 判
   田総(好里)信濃守殿 御宿所

豊綱と田総好里・俊里父子との親しい関係は、以下の如く田総氏が沼隈郡長和庄東方を領有していたことから何等かの接点があったためと思われる。

即ち、田総氏は甲奴郡総領町稲草の平草山城に拠り(2)、その所領は田総庄の外、世羅郡小童保、沼隈郡長和庄東方などに及んでおり、以下の如く、亡父や養母からこれらの地頭職の継承を貞和元年(一三四五)十二月十七日付で足利尊氏が承認している(閥閲録巻89)。

尊氏公ノ
  御判
下 長井縫殿助重継法師 法名聖重可令早領知備後国田総庄・同国小童(頭)保・同国長和庄東方等地領職之事右任去徳治弐年二月五日亡父時継並正和四年十月十五日養母尼阿彌陀佛譲状等、可領掌之状如件
  貞和元年十二月十七日

なお、田総氏の本氏は長井氏で、大江広元の次男長井時広の次男泰重が下野国長井に居住して長井を称したが、泰重の三男重広の代に甲奴郡田総庄の地頭職に補せられ、九代後の時里の代に在名の田総を姓称している(萩藩諸家系譜)。

以上から、豊綱の発行した書状が残っているので大永六年(一五二六)十二月から永禄四年(一五六一)三月までは生存したことなる。豊綱の生没年月日は不明であるが、この大永六年の文面から当時二十歳以上であったと推察され、仮に三十歳とすると、それから三十五年経過した永禄四年には六十五歳であったことになる。

三 古志豊綱と古志清左衛門吉信の関係

天正二十年(一五九二)に謀殺されたと伝える古志清左衛門の諱は吉信と考えられるが、没年齢は不明である。吉信の父宗信は永承三年(一五〇七)生れであるから(比布智神社の棟札写(春日家文書))、仮に一世代二十年とすると宗信の嫡子吉信は一五二七年頃の生れとなり、天正二十年(一五九二)にはほぼ六十五歳であったと推定される。

「古志清左衛門尉吉信、本郷村 大場山城、天文年中(一五三二‐一五五五)雲州より移る」とあるが(西備名区暑例四、三〇二頁)、仮に父宗信十七歳の時に吉信が誕生し、十三歳(天文六年(一五三七))で本郷村に移居したとすると、天正三十年には六十八歳であったことになる。

前記の書状発行者である豊綱は大永六年(一五二六)十二月から永禄四年(一五六一)二月までは存命したことになるが、古志清左衛門(吉信)が元亀三年(一五七二)杉原元恒と「猪の子迫の合戦」をしているので(木梨先祖由来書)、新庄大場山城主であったと思われる豊綱は永禄四年(一五六一)から元亀三年(一五七二)の間に死没したものと推察される。

何故ならば、吉信は出雲生まれで宗信の嫡子であり(古志氏系図)、且つ新庄大場山城主(明泉寺蔵の備後古城記)で、天正十三年(一五八五)七月伊予国から鞆に落行した石井石見守清信が古志清左衛門(吉信)の客分(石井氏系図)または家臣(明泉寺蔵の備後古城記)であったこと、年欠六月十四日付で厳島神社に太刀一腰を寄進している古志元清は通称が四郎五郎であるが(厳島野坂文書1055)、神官棚守房顕の時代なので毛利元就以降、輝元までの間のことになるが、「元」の字は元就、隆元および輝元の内、誰の偏諱を受けたかは不明であり、寄進の年代や系譜も不明である。また、豊清は天文十四年(一五四五)神辺城主山名忠興(理興)に焼かれた本郷村今津村の八幡宮や今津村の剣大明神を再建したと伝えるが(水野記13巻)、事績の年代が豊綱と重複する。しかし、豊清は天文十四年以降には見えないので豊綱の前代と推察されることなどから、吉信の前城主は豊綱と推察され、吉信は豊綱の養子と思われる。

【引用文献】

(1)山口県編刊:山口県史 資料編 中世3 田総家文書、九八四‐九八六.
(2)高田郡郷土史会編:高田郡史、 一四八‐一五〇、 一九七二.
(3)岡部忠夫編:萩藩諸家系譜(田総氏)、九九一‐九九二、琵琶書房、一九八三.

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark.pnghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark-150x100.png管理人中世史「備陽史探訪:164号」より 矢田 貞美 一 毛利家文書に見える古志豊綱 古志左衛門太夫豊綱は弘治三年二月(一五五七)、備後の国人衆十八名が軍人の狼藉や規律破りをさせないことを誓った、毛利氏親類衆年寄衆家人連署起請文案に登場する(毛利家文書二二五)。また、永禄四年(一五六一)三月、毛利元就・隆元父子が小早川隆景の招待に応じて御調郡本郷の雄高山城を訪問しているが、その接待係の中に古志左衛門太夫の名が見える(小早川家文書一二三、毛利家文書四〇三)。 二 田総氏宛の古志豊綱書状 年欠十二月六日付田総藤蔵人佐宛の古志豊綱書状を次に示す((1)、萩藩閥閲録巻89)。両編者はこの年欠書状の年代を大永六年(一五二六)で、宛先蔵人佐の実名を俊里と比定しているが、年代は尼子氏と大内・毛利氏の関係から、また実名は田総氏の系譜によると(3)、ほぼ間違いないと思われる。この書状は古志豊綱が田総藤蔵人俊里に対して、大永六年(一五二六)十二月六日、多賀山表(庄原市高野町)に出張の尼子詮久軍を撃退した山内直通方の勝利を祝し、田総氏の軍功を讃えたものと思われる。       古志豊綱書状(切紙)     端裏切封    「(墨引)」 雲州衆至多賀山(備後国)表乱入之処、山内(直通)方被相談御合戦被得勝利、敵退散之由其聞候、千今雖不始儀候、御忠節無比類被思召之通、被成御書候、(山内)弥直通被仰談、御粉骨肝要之趣相心得可申入之旨、被仰出候、猶委細自由斎可被申入候条、不能一二候、恐々謹言葉、 十二月六日  (古志)豊綱(花押)  田総藤蔵人佐殿        御宿所 この藤蔵人佐俊里宛書状の外、古志豊綱の下記の年欠十一月二十八日付と年欠正月十六日付俊里の父信濃守(好里)宛の二書状があり(前記史料所収)、何れも切紙で好里宛の両書状は書状内容から大永六年(一五二六)十一月廿八日と大永七(一五二七)年正月十六日のものと推定される。即ち、 尼子至其国乱入巳来、別而被抽御馳走、御粉骨之趣、山内(直通)上野介被申上候条、致披露候處、御祝着之通、以御書被仰出候、彌御忠節肝要之由、従私可申入之旨候、恐々謹言    十一月廿八日   豊綱 判    田総(好里)信濃守殿 御宿所 革足袋御進上侯、 致披露候處、御祝着之旨、以御書被仰出候、仍其   (山内直通) 国之儀、上野介方被仰談、御入魂簡要之由御意候、然は此左右二付而、彦次郎殿杯御下向之儀、可相急候趣被仰出候、恐々謹言    正月十六日    (古志)豊綱 判    田総(好里)信濃守殿 御宿所 豊綱と田総好里・俊里父子との親しい関係は、以下の如く田総氏が沼隈郡長和庄東方を領有していたことから何等かの接点があったためと思われる。 即ち、田総氏は甲奴郡総領町稲草の平草山城に拠り(2)、その所領は田総庄の外、世羅郡小童保、沼隈郡長和庄東方などに及んでおり、以下の如く、亡父や養母からこれらの地頭職の継承を貞和元年(一三四五)十二月十七日付で足利尊氏が承認している(閥閲録巻89)。 尊氏公ノ   御判 下 長井縫殿助重継法師 法名聖重可令早領知備後国田総庄・同国小童(頭)保・同国長和庄東方等地領職之事右任去徳治弐年二月五日亡父時継並正和四年十月十五日養母尼阿彌陀佛譲状等、可領掌之状如件   貞和元年十二月十七日 なお、田総氏の本氏は長井氏で、大江広元の次男長井時広の次男泰重が下野国長井に居住して長井を称したが、泰重の三男重広の代に甲奴郡田総庄の地頭職に補せられ、九代後の時里の代に在名の田総を姓称している(萩藩諸家系譜)。 以上から、豊綱の発行した書状が残っているので大永六年(一五二六)十二月から永禄四年(一五六一)三月までは生存したことなる。豊綱の生没年月日は不明であるが、この大永六年の文面から当時二十歳以上であったと推察され、仮に三十歳とすると、それから三十五年経過した永禄四年には六十五歳であったことになる。 三 古志豊綱と古志清左衛門吉信の関係 天正二十年(一五九二)に謀殺されたと伝える古志清左衛門の諱は吉信と考えられるが、没年齢は不明である。吉信の父宗信は永承三年(一五〇七)生れであるから(比布智神社の棟札写(春日家文書))、仮に一世代二十年とすると宗信の嫡子吉信は一五二七年頃の生れとなり、天正二十年(一五九二)にはほぼ六十五歳であったと推定される。 「古志清左衛門尉吉信、本郷村 大場山城、天文年中(一五三二‐一五五五)雲州より移る」とあるが(西備名区暑例四、三〇二頁)、仮に父宗信十七歳の時に吉信が誕生し、十三歳(天文六年(一五三七))で本郷村に移居したとすると、天正三十年には六十八歳であったことになる。 前記の書状発行者である豊綱は大永六年(一五二六)十二月から永禄四年(一五六一)二月までは存命したことになるが、古志清左衛門(吉信)が元亀三年(一五七二)杉原元恒と「猪の子迫の合戦」をしているので(木梨先祖由来書)、新庄大場山城主であったと思われる豊綱は永禄四年(一五六一)から元亀三年(一五七二)の間に死没したものと推察される。 何故ならば、吉信は出雲生まれで宗信の嫡子であり(古志氏系図)、且つ新庄大場山城主(明泉寺蔵の備後古城記)で、天正十三年(一五八五)七月伊予国から鞆に落行した石井石見守清信が古志清左衛門(吉信)の客分(石井氏系図)または家臣(明泉寺蔵の備後古城記)であったこと、年欠六月十四日付で厳島神社に太刀一腰を寄進している古志元清は通称が四郎五郎であるが(厳島野坂文書1055)、神官棚守房顕の時代なので毛利元就以降、輝元までの間のことになるが、「元」の字は元就、隆元および輝元の内、誰の偏諱を受けたかは不明であり、寄進の年代や系譜も不明である。また、豊清は天文十四年(一五四五)神辺城主山名忠興(理興)に焼かれた本郷村今津村の八幡宮や今津村の剣大明神を再建したと伝えるが(水野記13巻)、事績の年代が豊綱と重複する。しかし、豊清は天文十四年以降には見えないので豊綱の前代と推察されることなどから、吉信の前城主は豊綱と推察され、吉信は豊綱の養子と思われる。 【引用文献】 (1)山口県編刊:山口県史 資料編 中世3 田総家文書、九八四‐九八六. (2)高田郡郷土史会編:高田郡史、 一四八‐一五〇、 一九七二. (3)岡部忠夫編:萩藩諸家系譜(田総氏)、九九一‐九九二、琵琶書房、一九八三.備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 中世を読む