2011年06月01日

「比志島文書」備後城山について(「しろやま」と「きのやま」)

備陽史探訪:160号」より

田口 義之

史料は見方、読み方を変えることによって、新たな解釈が可能だ。

たとえば、先年、わが備陽史探訪の会が行った神辺町の「今大山城」の調査だ。『山城志』20集で、詳細な調査報告を公表したが、この報告で「今大山城」と、城名を確定できたのは、当会会員で、気鋭の中世史家である木下和司さんの次の一言であった。

「会長、今大山なら高須の文書の渋川義陸の書状に出てきますよ…」

早速、『萩藩閥閲録』67巻高須惣左衛門書出しの「年不詳9月7日付渋川義陸書状」を見てみると、

今太山江今朝人を遣わし候、宮上自身出らるべきこと肝要の由申し遣わし候

とあるではないか…。文意は「今太山へ使者を出し、宮上野介に、ご自身がご出陣されるべきだと伝えた」、すなわち、この文書こそ、今回の報告の結論、「今大山城は備後の雄宮上野介家の居城であった」を裏付ける大変重要な史料だったのである。木下さんは今回の調査の考証面での最大の功労者であった。

『閥閲録』巻67の渋川義陸書状のような、私が中世史に興味を抱くようになった高校生の頃から親しんだ文書でも見方、読み方を変えればこのような大きな収穫がある。既知の史料も、見方読み方を変えて解釈しなおすことが必要だ。

以来、ことに触れて史料を読み返すようにしているが、最近になって二つの新しい事実に気がついた。

一つは、これも高須氏関係の文書に出てくる「三抱村」だ。大永末年(1527頃)、備後国人衆の中で行われた「神辺和談」に際して、高須元盛は「木之庄西方」を元の給人に返し、替わりに「三抱村代官職」を与えられた(年不詳7月10日付宮実信書状など『閥閲録』遺漏4の2)。

備後に「三抱村」などない。だがこれを「みかかえ」ではなく「さんば」と読めばどうか、高須の南隣に「山波(さんば)」があるではないか。原文書を確認する必要があるが、「抱」は「把」の読み間違いと見て誤りあるまい。

また、以前から頭を悩ませていた「備後城山」も「しろやま」ではなく「きのやま」と読むことであっさり解決した。備後城山は建武の新政で、足利尊氏の弟左馬頭直義に与えられた恩賞地15カ所の一つとして見えるものだ。備後にはその内2ヵ所「備後高野、同 城山」があった(比志島文書)。高野は庄原市高野町とみて良いが、城山という地名は備後にない。だが、これを「きのやま」と読むとどうなるか。府中市木野山町がその遺名として当てはまるのである。地名や名字を「の」を付けて読むのは珍しくなく、「杉原」は「すぎのはら」であるし、津郷も「つのごう」であった。

直義領「備後城山」を府中市木野山町に比定して良いとなると、もう一つ解決するのは、戦国期、本野山の領主であった「芥川氏」の出自だ。備後に元々芥川氏は存在しない。ところが、戦国期になると木野山の国人として芥川氏が現れ、後には毛利氏に臣従する(毛利家文書二二五号)。木野山が足利氏の所領であったとすれば、この芥川氏は摂津の有力国人で、幕府に出仕した芥川氏の一族であった可能性が出てくる。幕府御家人が、将軍御料所の代官となるのは、良くある事例で、摂津芥川氏の一族が将軍料所備後木野山の代官となり、そのまま土着した。こう考えればいいのだ。