2010年02月09日

宝篋印塔の変遷と刻經の内容(福山市内三寺院を比較して)

備陽史探訪:152号」より

出内 博都

中世から近世へかけて一番身近に見ることができる仏塔は、五輪塔と宝篋印塔であろう。五輪塔は多く墓塔として建立されたので、近世の舟形墓塔に次いで多いが、宝篋印塔は多くの場合供養塔として建立されたので、数は少ないし大型で形も複雑である、数的には五輪塔よりははるかに少ない。

塔の伝承としては、古代インド、マウリヤ朝三代の王アショーカ王(前二三二年頃)が経文塔八万四千個建立したと伝え、さらに中国五代の呉越王銭弘淑(十世紀)が八万四千の小塔を鋳造し中に”宝篋印陀羅尼経”を収めて配布したが日本でもこれに習い木製の小塔の底に穴をあけて陀羅尼経を墨書した紙に籾一粒づつを包んで納置する”モミ塔”が行われた。高野山金剛峰寺の金鋼製宝篋印塔の銘文(弘安十年=一二八七年)によれば古くは骨が収められていたことが知れる。金属製や木製などあったが仏教の密教の影響をうけ大きな石塔で①の様な形になったのは鎌倉時代と言われている。

宝篋印塔①

この頃になると陀羅尼経を収めると言う事とは関係なくこの塔自体が有難い陀羅尼経の象徴として拝まれ、五輪塔とならんで宗派に関係なく墓碑・供養塔として建立された。

基本的形態は、基礎は方形で上部を段形二段で狭め上に方形の塔身を置く、塔身四面に四方仏又はその種字(梵字)を刻む。屋根(又は笠)は下部に段形二段をつくって斗棋に代え、軒先は直線の帯状になり、四隅に隅飾(耳飾)をたてる。屋根面も五・六段の段形とし、頂上に相輪を置く。ただし詳細は時代差。地域差があるが、大きく分けて関西型と関東型の二つがある。
関西型・関東型

時代差では鎌倉時代中期で大きく二分される(塔そのものが墓碑・追善塔として性格を代える)。

古式なものは隅飾りが軒先面と一体をなし垂直に近いほど時代が古いと見られるが、新式では隅飾りは軒先面よりわずか後退して立ち、室町時代以降は外側に傾斜する傾向が見られ、近世になれば積石の段数も増えたり、隅飾りが翼状に突出し逆ハの字の様に広がり、華奢で細身のものが多くなる。こうした形式の変化よりも中心になる塔身自体に陀羅尼の御利益(ごりやく)を刻み、それを讀誦したり礼拝祈念或いは触誦右廻りすることによって御利益を受けようとする信仰形態の変化も現れてきた。この度、千田町千田の神宮寺・神辺町道上の護国寺・加茂町芦原の法光寺の刻字を比較して建立の経緯や礼拝の相違などを考察する事にした。

陀羅尼と言う語はサンスクリツト語の音写で仏教で用いる呪文の一種で、陀羅尼と真言は大体同じもので通説では長いものを陀羅尼・短いものを真言という、また陀羅尼と経は同じではなく陀羅尼は呪文で経は言説であり、陀羅尼を説くためにカプセルとして経の形式が用いられるもので、経が翻訳される場合は地(じ)の文は翻訳されても、陀羅尼(呪文)の部分は翻訳されず音写される。宝篋印陀羅尼と云う呪は、一切の如来の心内にある全身舎利を念じこめた秘密な神の呪で全文五十字ぐらいのものといわれている。この呪を傳える宝篋印陀羅尼経を要約すると次の様になる。

①宝饉印塔は百千の如来の全身舎利の固まりで、末法がきても堅固不滅である
②この経を読誦し、または写経し、または塔中に収めれば、地獄へ落ちるべき者も、浄土往生できる
③たとえ小塔でも造塔して、神呪をおさめ礼拝すれば寿命は延長し福徳は無尽となる。

宝筐印陀羅尼(呪)の功徳

①浄土への往生(極楽往生
②仏家への生まれ変り(成仏)
③死後の苦しみの救済
④この世での現世利益やあらゆる願いをかなえる

右のような利益をかなえる百千の如来の念力を代表して金剛界曼荼羅の五仏の像や種子(しゅじ)を彫刻するが、大日如来は塔の中心にあるので表現されていない、他の四仏の彫像か種子(字を使うこともある)は次のような梵字で塔身の四面に彫刻してあり、四仏の配置は塔の立地に拘わらず次のようになっている。

四仏の配置

東 ウーン(アシュク如来)
南 タラーク(宝生如来)
西 キリーク(阿弥陀如来)
北 アク  (不空成就如来)

また梵字の回りに円を刻んだものもあるがこれは月輪(げちりん)といって、仏の知徳が欠けることなく円満であることを意味している。

相輪の構成は上から宝珠・請花・九輪・請花となりその下に伏鉢・露盤があるがこの伏鉢路盤は印度のお墓を象徴したもので、五重の塔を始め多くの仏塔にあるのが普通だが、これを省いたものもある。

宝篋印塔が此れだけ深い濃密な念力を象徴する尊い仏塔だけに最も身近な存在として映えるように装飾性に富んだ派手で大きな塔形に変化したのだろう。以下旧深安郡の村にあった三カ寺(いずれも真言宗)の塔を紹介しよう。

八幡山宝寿院

(通称神宮寺
福山市千田町千田

千田地区のほぼ中央にある八幡神社の直下にある中世開創された古寺であるが現在無住である。宝篋印塔は高さ三m余で観音堂前広場墓地の入り口に、東面して立っている。
宝寿院宝篋印塔

塔身の上の段に東(ウーン・アシュク如来)・南(タラーク・宝生如来)・西(キリーク・阿弥陀如来)・北(アク・不空成就如来)の種字が刻まれており、下段には次のような経文が刻まれている。

(四佛の種字)
四仏の種字

(彫刻経文)
(東面)

経云若有有
情能於此塔
一香一華
禮拜供養

(南面)

八十億劫
生死十罪
一時消滅
生免災殃

(西面)

死生佛家
若有応随
阿鼻地獄
若於此塔

(北面)

或一禮拝
或一右繞
塞地獄門
開菩提路

本来は音読みで語順に読誦する経文なので、訓読みの和文に訳すことは困難であるが、大体次のように読めるのではなかろうか。「経に云う、若し有情あれば、此の塔に一本の線香・華を捧げて礼拝供養しなさい」、この場合”有情”という言葉が問題である、この語は情(心の動き)をもつもの、として生きとし生きるものをさすが、仏道では情は悩み不平恨みなど人間の迷いにつながる面を重視した解釈が多い、そんな迷いや苦しみがあればこの塔を礼拝供養しなさいとなる。

そうすれば「八十億劫というたくさんの罪も一時に消えて、生きては災害災(自然や事故など外的な害)や、殃(天罰・恨みなど精神的な害)を免れる」とある。十罪とあるのは仏教では悪を身・口・意の三つの働き(三業)に当てはめて殺生・偸盗・邪淫(身三)・妄語・綺語・悪口・両口・両舌(口四)貪欲・瞋恚・邪見(意三)の十項目を十罪としている(これを十重罪・十悪行とも言うので次に調査した二寺の塔では重罪となっている)。

「死んだら仏の家に生き成仏できる。若し、まさに阿鼻地獄に落ちんとする時にはこの塔を礼拝するか、この塔に手を触れて右へ廻りなさい、そうすれば地獄門を塞(ふさ)ぎ、菩提道を開く」という経文になっている、応といつ字は「まさに‥すべし」と返って讀み、つぎの”随”という字は墜落の”墜”と同意語で″おちる″と讀む、従って応随は、”まさに落ちん”とすると読める。右繞の場合、繞という字は巡るとともに”なでる(撫る)”といつ意味をもつので、ただぐるっと回るだけでなく手で経文を押さえて廻れということである。

このような有難い塔が何時頃どういう経緯で建立されたかについて二・三段目の台石に次のような事が彫刻してある。

建立の時期は「享保十三戊申」と「十月十三日」とがあり、一七二八年である。福山藩では三代阿部正右の代であり、享保の改革の最中の頃のものである。建立の経緯を特定できるものはないが「平等和益・福寿増長・災障消除」などの標語があり改革の時勢の中で世の平穏と安全を祈ったものであろう、「自他法界・十方旦那」などの語句もあり、特定の人物でなく檀家一同の共同であったことが知れる。十方というのは仏教の宇宙観では東西南北の四方に艮(うしとら)巽(たつみ)坤(ひつじさる)乾(いぬい)の四維と上下を加えた総ての方向を示すものであり旦那は檀家と見てよいので多くの人が協賛して建立したことを示している。

高木山護国寺

福山市神辺町道上

「福山志料」「西備名区」などで備後国分寺に擬せられたが、実は正治年間(一一九九~一二〇〇)に開基された寺で、後に宮若狭守が再興したと伝えられる古寺である。宝篋印塔は本堂の正面に北面して立っており高さ約三m弱である。
護国寺宝篋印塔

この塔の経文彫刻の様式は前記の神宮寺と異なり「一字金輪」(いちじきんりん)という様式で、塔身の正面に大日如来が最初に説かれた真言「ボロン」の一字を入格化した梵字を大日如来の象徴として大きく彫刻してある。金輪とは金銀銅鉄の四種の転輪聖王(正義をもって世界を治める王で、転輪とは戦車あるいは日輪を馳せるイメージに由来する語らしい)がある中で、金輪王はこの四聖王の中で最強を表す。この呪(真言)を本尊とする修法は無量の罪障があっても必ず成仏するという、この修法は誰でもは行なえないとされていた。この尊い真言の種字を正面(この塔では北面)にいれるので経文は三面のみである。この場合も右繞なので、各面毎の経文は次のようになる。

(一字金輪)ボロン
ボロン

①(東面)

若人謂□此
一巻經即為
讀經温去現
在未来諸佛

②(南面)

所説經典塔
有有情能於
此塔一番一
華禮拝供養

③(西面)

八十億劫生
死重罪一時
消滅生免災
殃死生佛家

《塔の表面が荒れていて判読困難有り、誤字があるかも知れぬ》

四佛の種字は丸い月輪のみがかろうじて分かる程度で、表面が荒れていて拓本も撮影も出来なかった。

前記神宮寺のものと比較して東面の一行日が分からないが、此の一巻の經を読経しそれを本に過去・現在を反省考察すれば未来には諸佛が来るであろう、それによって極楽往生できるとなっている。過去現在を温める(あたためる)という行為の中に、単に反省するだけでなく深く反省せよという意味がある。仏教独特の十罪ではなく一般的な重罪になっているが、同じ意味と見てよいだろう。

この塔が神宮寺のものと違うところは、台座に彫ってある四人の供養塔として立て建てられたことである。その四人の戒名は次のように判読できる。

(北面)妙林院一達通源
(東面)暜光院自証貞蓮
(南面)□池院蓮妙貞身
(西面)理生院繁室貞昌

この下の台座(西面)に修法僧と見られる僧名が、阿閣梨龍澄とあり、南面の基段石に施主 下岩成村藤原新衛門とある。

この塔は神宮寺のように多くの人々が社会の安寧平穏を祈ったものと違い、施主藤原新衛門一族の追善供養のものである。この時代農村の住民で正式に苗字を名のれるものは少ない、村内で私的文書や寄進札などには苗字を使用した例はあるが、下岩成の住民が隣村とは言え道上村(他村)で苗字を名のる権限は認められないもので、実態は良く分からない。建立されたのは、宝暦十辰天(年)三月廿一日なので、大庄屋・御用商人に苗字を許された者があったかも知れないが、この藤原氏についてはよく判明しない。

極楽山蓮台院法光寺

福山市加茂町葦原

行基の開基と伝え、山崩れで現在地に移転したが、旧跡地には布目瓦や平安前期と思われる唐草文軒平瓦など出土し、古代の建立が偲ばれる古寺である。

宝篋印塔は本殿横の広場に北面して建立されている。
法光寺宝篋印塔

この塔も前記護国寺のものと同じように「一字金輪」方式の塔で正面(北面)に大きく一字金輪を示す梵字「ボロン」が刻まれている。護国寺の字と異なるように見えるが箆書体なので異なるように見えるが字は同じである。

他の三面に塔の御利益のエキスのみが簡便に彫刻してあり、金剛界四佛は月輪に蓮弁を添え装飾性豊かに彫刻されている。

建立の時期・経緯については、基壇の東面に「小曳弥五兵衛」といつ人名と、西面に「宝暦十一辛巳天」と「二月吉辰日」とある。二月何日かは分からないが、寺の山門の入り口に「法界萬霊」と彫刻した地蔵塔があり其の日付けが、同年の二月十四日になっているのでこれと関連するのではなかろうか、ほっかい(法界)とは物事の根源、存在の基本を表し真理(真言)と同義とされ、意識の対象のすべての世界である。萬霊は単に人間のみでなく生き物すべての霊で、佛の無限の御利益を示す供養塔である。寺にとって再建とか大修復とかの重要な行事と関連があって萬霊塔や宝篋印塔が建立されたのではなかろうか。

小曳弥五衛門については、小曳氏は代々庄屋を勤めたこの地域の豪家であったことが知られている。

正面(北面)の一字金輪「ボロン」や四佛の種字の一部を示しておきます。

(一字金輪)ボロン
ボロン2

(経文)
(東面)

若有衆人
能於此塔
一香一華
禮拝供養

(南面)

八十億劫
生死重罪
一時消滅
生免災殃

(西面)

死生佛家

(西面はこの一行のみです、内容は前出の神宮寺の者と同じなので省きます)

(四仏の種字の一部)
(西面)キリーク(阿弥陀如来)
キリーク

(北面)アク(不空成就如来)
アク

写真と拓本の二方法を使用したためにコピーに濃淡ができあいすみません、拓本に統一する時間もなくこのようになりました。拓本にご協力有難うございました。