2008年04月10日

古墳ロードCコース(服部大池~北塚古墳)

備陽史探訪:141号」より

田口 義之

待望の「福山古墳ロード」が完成した。行政、地元の皆さん、会員の協力の結晶だ。完成記念ウォーキングは、三月二十三日(日曜日)朝九時半から八十六名の参加者を集めて実施された。まず、除幕式を行った。協力企業の社長、地元の方、会員ら六名で真っ白な幕が取り除かれた。生憎の天候だったが、総合案内板は光輝いていた。その後、三班に分かれた参加者は、会員の案内で無事全行程を踏破した。

Cコースは、服部大池から北に向かい、服部雨木の泉山城跡に至るコースである。基点の服部大池は「備後三大大池」の一つに挙げられる灌漑用のため池で、江戸時代初期、水野藩の地方巧者神谷冶部が奉行として築造したもので、高い土手には人柱伝説が残っている。総合案内板の前から、土手を渡って、池の西側の道路を北に向かう。最初の見学地は「刈山古墳」だ。建築資材置き場の角に立つ道標にしたがって、左手の山に入る。登り口にある木製の案内板は当会の地方巧者I氏の手作りだ。細い山道を登ると山畑が開け、やがて畑の中に横穴式石室が開口している。封土は取り払われ、石室の前部も破壊されているが、横穴式石室の構造を見るにはいい標本である。一帯にはまだまだ古墳があるが、一般の人は山に入らないほうがいいだろう。刈山古墳の東側の窪にある畑は「大坊屋敷」という小字で、新山にある真言宗の古刹大坊福盛寺は、最初この地で創建され、後に現在地に移ったという。

刈山古墳から山道を引き返し、北に十分ほど歩くと、県史跡「大迫古墳」だ。道標にしたがつて左に五〇メートル歩くと屋敷の前の道端に横穴式石室が口を開けている。両袖式の精美な横穴式石室で全長約十二メートル、付近では二子塚、二塚と共に傑出した規模を持っている。側壁奥壁共に、巨石を使用し、石の表面が平らに整えられていることから、三巨墳の中では一番新しく、七世紀に入ってからの築造と考えられている。かつて金環が出土したことから「金環塚」とも呼ぶ。大迫古墳から道路を挟んで反対側の小山は、今回のコースには入れなかったが、戦国時代の「新山城」の跡である。現在は天満神社の境内となっているが、境内周辺には曲輪の跡も残っている。大迫古墳の次のポイント「椋山城跡」の出城で桑原縫殿介が立て籠もり、服部谷に侵入する敵を見張っていた。

ここから八百メートル、徒歩三十分で「椋山城跡」の登山口に着く。ここからは曲がりくねった山道となる。今回のコース整備で一番苦労した場所で、会員が担いで登った道標のお陰で、迷うことなく山頂本丸に達する。比高百メートルだが、途中から山中に設けられた「お大師道」が良く整備され、登りやすい山城だ。山頂に近づくと、左右に城の曲輪、空掘が見られ、山城の構造を身を以って知ることが出来る。本丸から南に一段下がった曲輪には円形石組み井戸が残り、今も水を湛えている。椋山城は桑原氏が拠った山城で、南北朝時代から戦国時代まで、一帯の領主宮氏の家老として勢いを振るった。

椋山城跡の次のポイントは服部八幡神社だ。この神社は初代備後守護梶原景時・土肥実平によって蛇園山中に創建された(今八幡ヶ嶽という)が、室町時代この地の領主宮常陸介が現在地に移した。境内から南の一帯からは奈良時代の布目瓦が出土し、「市場廃寺跡」と呼ばれている。礎石などが見られないことから、私は窯跡の可能性が高いと思っている。ここにはトイレもあり、一休みの場所としては最適だ。苦心の説明板をじっくり読んで欲しい。

八幡神社から健脚の人は泉山城跡に足を伸ばして欲しい。初代備後守護土肥実平が鎌倉時代初期に築城したと伝える古い山城で、南の山麓には「土居」という城主の居館の跡を示す地名も残っている。山頂にテレビ等や給水施設が建ち一部が破壊されているが、それでも曲輪の跡が良く残り一見の価値がある。現在の遺構は土肥氏の後にこの地の領主となった宮氏が修築したもので、天文三年(一五三四)、毛利氏の攻撃を受けて落城した。山城に関心がない人は、八幡神社から谷を隔てて東側の山麓にある「北塚古墳」を見学して大池に帰るのがいいだろう。

北塚古墳は謎の古墳だ。一見すると南に開口した横口式石槨のように見えるが、開口部の石を良く見ると、小口石をはめ込んだ跡が見られ、「石棺」のようにも思える。一説に、この「石棺」を覆った「石室」があったというが、発掘では確認されなかった。いずれにしても七世紀半ばの高松塚系の終末期古墳と考えられている。

以上が、C コースの概略である。今回、Bコースは歩かなかったが、五月五日のこどもの日には、Bコースの完成披露を兼ねた「親と子の古墳めぐり」を実施する。期待していだきたい。