2006年12月09日

山手町の長峰城跡(福山市山手町・銀山城の出城)

備陽史探訪:133号」より

田口 義之

去一一月三日、当会の杉原道彦さんに誘われて、山手町の長峰城跡を訪ねた。今年の春先、杉原さんと山手町の三宝寺を訪ねた時、同地の杉原匡信氏にお会いし、長峰城跡のことを尋ねたところ、それは自分の持ち山で、小さい頃よく遊びに行き、平らなところがあるので、父に聞いたところ、「長峰城」という城があったところだと教えてもらったとのこと…。さっそく帰宅後、三宝寺の御住職を介して、同城跡に案内してもらいたい旨申し入れ、それがこの日の調査行となったものである。

それというのも、以前から「西備名区」などの郷土史書にその名の記載はあったものの、所在がわからなかったからである。以前に行われた広島県の中世城館調査にも漏れ、報告書にも全く記載されていない。私も杉原匡信氏にお会いするまでは、長峰城跡の存在に懐疑的であった。以前、同地の銀山城に当会の例会で登った時、土地の人が参加しておられ、「銀山城の事を長峰城とゆうんよ…」と話されたのを聞き、銀山城の別名ではないか、と思っていたからだ。

朝九時に杉原道彦さんと山手の「しまなみ信用金庫」で待ち合わせ杉原匡信氏宅へ向かう。匡信氏宅は丁度城西中学の北側にあたり、既に同行者二名と共に待っておられた。

匡信氏によると長峰城は同氏宅の西北の山で、送電線の鉄塔が建ち、その保全のための道があるとのこと、さっそく同氏の車に同乗して出発した。県道から弘法さんに向かう道に入り、突き当りを右折、八反田に至る林道を約ニキロ、銀山城下を通り、展望台手前から山道を徒歩で下った。送電線の鉄塔までは急な下り坂だったが、鉄塔のあたりから道は平坦な尾根道となった。

「この辺りかな…」と思っていたら案の定、尾根に堀切の痕跡の窪みがある。さらに行くと、土塁を越えて平坦地が現れた。「ここです」との匡信氏の声、紛れもない中世の山城跡である。周辺を歩き回ると、この城は二段の曲輪と土塁、二本の堀切で構成されていることがわかった。高増山系から南に伸びた標高三百二十メートルほどの尾根を三本の堀切で断ち切り、前面に二段の曲輪を並べただけの簡単な構造だが、主曲輪の堀切側には櫓台状の土塁を設け、小規模ながらも「山城の三要素」(曲輪・切岸・堀切)を持っている。南に細長く伸びた地形から「長峰城」の名が生まれたのだろう。南および束の眺望はすばらしく、本庄・木之庄、福山市街地が一望の下である。

『西備名区』をひもとくと、山手村長峰城として、杉原伯耆守盛政、同石見守盛成の名を挙げ、銀山城主杉原盛重の家臣であったと記している。規模・立地から見て長峰城が銀山城の出城であったことは認めてよかろう。この日改めて銀山城跡にも登ったが、同城の弱点は東方の視界がやや悪いことである。銀山城は標高三百七十傷と長峰城より高く、東方遠方の眺望は良いが、手前の山手から芦田川にかけては長峰城のある尾根にさえぎられて見えない。長峰城はこの銀山城の弱点をカバーするために築かれた山城であったと思われる。また、匡信氏によるとかつては銀山城から長峰城への山道があったそうで、銀山城主杉原氏の居館があったと推定される「旗谷(城西中学のある谷)」から銀山城へのルートを守る役割もあったに違いない。

今回の調査で一番驚いたのは、長峰城の南に広がる丘陵である。この丘陵は現在中学校や墓地の建設で破壊されてしまったが、「朝倉屋敷」や寺跡、さらには道路が四方に通ずる場所があるなど、要所であったことがわかり、銀山城下の武家屋敷が立ち並んでいたことも想像される。山手というと身近な場所であるが、こうも知らない史跡がたくさんあるとは未熟さを痛感した一日であった。(城跡については後日詳細を報告する)

長峰城跡

長峰城跡