2005年02月18日

福山の歴史を読みなおす(古代から中世までの地域特性)

備陽史探訪:122号」より

田口 義之

地域の特性

慶長十四年(一六〇九)七月、広島城主福島正則は、家康の怒りに震え上がった。この年、数年前より正則が取りかかっていた鞆城の普請が家康の目にとまり、「正則は何のために鞆に堅固な城を築くのかと」家康のあらぬ疑いを受けたからだ(薩藩旧記)。

福山の歴史を考える場合、この出来事は示唆にとむ話である。家康は何故正則の鞆築城に神経を尖らせたのか。鞆城が立派であったと言うこともあろう。だが、真の理由はその位置にあった。鞆は瀬戸内海航路の丁度中央に位置する。ここを押さえれば、西国の制海権を押さえることができる。徳川幕府にとってどうしても押さえなければならない枢要の地だった。これが、勝成が福山城を築いた理由だ。

このように福山が位置する備後南部は、時の為政者が西国支配の要(かなめ)として常に欲した地域である。この地政学的な位置は近世後期に至るまで変わらなかった。

古代の備後

原始時代は別として、古墳時代後期になると、この備後南部の特性は顕著となる。この地域の古墳文化の特徴は後期古墳の巨大化にある。備後南部に目立った前期古墳はない。ところがこの地域には福山市駅家町を中心に六世紀の後半になって、突然立派な横穴式石室を持つ古墳が築かれるようになる。そして、奈良時代に近づく頃になると、畿内以外では珍しい終末期古墳が五基も築かれる。これは畿内大和政権の勢力が直接この地に入ってきたことを示している。

備後の中世

鎌倉幕府の開設によってはじまった「武家の世」は、東国武士の世界でもあった。幕府の支配権は、東海・東山の両道で強く、西国は、点と線の支配であったと言ってよい。だが、幕府の西国支配は、「承久の乱」の勝利によって強まり、モンゴルの来襲を契機としてその支配権は不動のものとなった。備後も幕府の中枢に参画した守護長井氏の下で幕府の勢力は次第に浸透し、尾道・鞆は幕府の支配下に置かれた。

室町時代に入っても備後南部の特徴は顕著だ。幕府は、一族を守護に任じ、外様の守護大名を牽制しながら全国の統治を行ったが、備後は外様の有力守護大内氏と一門守護の細川氏勢力の接点にあたり、歴代将軍がその支配に最も意を注いだ地域であった。大内氏の勢力増大に対して在地の有力武士を将軍直属の武士である「奉公衆」に組織し、これに対抗させようとした。備後の奉公衆としては「一万六千貫の宮殿」と呼ばれた宮氏をはじめ、杉原・大和・三吉氏などが轡(くつわ)を並べて柳宮に出仕し、将軍権力の牙城となった。また、安国寺が鞆に置かれたのもこの理由で、瀬戸内航路の中心を占めた鞆の支配は、将軍足利氏にとって西国支配の要の位置を占めていた。

こうした歴史的特性は、以後も変わらず、備後南部の拠点であった神辺城は尼子。大内・毛利三氏の争奪の的となった。鞆が益々活況を呈したのもこの時代で、戦国中期には海賊村上氏の勢力が及び、さらに戦国末期には毛利氏の直轄地として代官が置かれた。

城下町福山の誕生

近世城下町としての福山の成立は、こうした古代以来の備後南部地域の歴史的特質を前提として理解しなければならない。そもそも、現在の福山城の位置する福山湾岸に注目した人物は水野勝成が最初ではない。天正十九年、備後神辺城に入城した毛利元康は、深津に新城を築き神辺から居城を移そうとした。結局、元康のこの企ては、関ヶ原の合戦による毛利氏の移封によって未完成に終ったが、これが事実とすれば、勝成の福山築城は歴史的な必然性を持っていたことになる。なぜ、元康や勝成は肥沃な平野に恵まれた神辺城から、福山湾岸に城を築こうとしたのか。それはその先に海があったからだ。元康、勝成など毛利氏や徳川氏の武将として配された大名には、鞆を支配し、瀬戸内海航路を押さえる重大な役割が課せられていた。神辺城は一流の山城であったが、海は見えない。彼等には、海を押さえるために福山湾岸に居城を築く必要があった。海に開かれた町、これが福山の歴史的特質なのであり、今後も海を離れては福山の発展は望まれない。