1985年05月25日

座談会『戦前の福山』(近代福山歴史秘話)

備陽史探訪:25号」より

会報編集部では今回初めての試みとして会員による座談会を企画してみました。参加者は次の通りです。

*加藤惣一さん *葉原完二さん
*塚本彰さん *土井ヤスコさん
*宮宗正人さん *平山虎吉さん
編集部 種本・吉田
テープ番 山口

―福山城について―

編集部

今日はお忙しいところお集まりいただきありがとうございます。戦前の福山について語っていただくということなんですが、我々の方で二、三のテーマを用意してきましたので、まずそれらについて教えていただきたいと思います。私らの世代はもう焼けて石垣のみになった天守閣しか知らないんですけど今日集まられた皆さんはおそらく昔の天守閣に登られたことがおありと思います。そこで現在の再建された天守との違いなどについて語ってもらいたいんですが……中はどうなっていたんでしょう。

中はね、がらんどうでした。そして階段がね、非常に急なんです。ちょうど備中高梁城の階段のような感じですかね。

そうずい分急でしたな。それと長州が攻めてきた時の大砲の玉が西側でしたか窓わくの所に残っとりました。まあ昔の大砲ですから少しへこんでいる位でしたが……。

昔の大砲てのは言ってみれば砲丸投げのようなものですからなあ。

そのことについて私の知っとることですが、ウチの会員のTさんがその砲弾のカケラを持っとられまして、私見せてもらったんですが、イモノでして、ラセン状のミゾがついとりました。

あれは色々言われますけれど、どこから打ったんでしょうか。

あれは本庄の寺からです。八幡さんの燐ですが、まあやっととどいたという感じでしょうな。

編集部

え―と、この昔の福山城の写真を見ますと北側がみな黒く見えるんですが、あれは鉄板でもはってあったんですか。

そう鉄板です。あれはね城の北側に森があるでしょう。あの方面が一番敵が攻め易いということで幕末のころにはったんです。

それでね私らも子供のころよく目かされたんだが要するに福山城は卑怯な城だということで世間では評判が良ろしくなかったようです。あれだけきれいな城なのに鉄板なんかはって非常になさけないと、それで名城とは言われなかった。

そのことと関係があるのかなあ。廃藩置県の後に福山城が競売にかけられたことがあったんです。その当時の金で5円でしたが5円でも買い手がなかったと聞いとります。

編集部

天守閣以外で今と変ったところはどうでしょうか。

前の広場が一面芝を植えておりましてな、そこへ大きな松がずらーっとはえとったんですわ。

そりゃあ大きな二抱えも三抱えもある立派なものでね。それが皆枯れたり戦災でやられたりしてね。

編集部

桜はどうでした。

桜もね戦前の方が立派でした。昔は二月の節旬には「お弁当開き」というんで皆あそこへ行きました。私ら子供の時分にはそれが楽しみでね。昔は「ノブロ」というのがあって銅でできてて火を起こすところがついとりましてね酒のカンなんかやったりするんですが、皆そういうものを持ってお弁当開きに行ったんです。

私残念に思ってますのは、昔は「黄金水」とよばれるいい水を出す井戸が城内にあったんですが、戦災後ピタッと水が出なくなりましてね。今でもその屋根と井戸側は残っとります。天守の西にあたりますね。

あと福山城には抜け穴があったという話もありますが本当でしょうかな。

あれはね、天守閣の地下から三蔵稲荷に通じていたそうです。私も入ったことはないんですけど年寄りからそう聞いとります。

編集部

え―あと伏見櫓などについて何かありませんか。現在あそこは鍵がかかってますけど昔もやはり入れなかったんでしょうか。

伏見櫓は、あの頃は「とんど」の山車を次の年までしまっておく倉庫なんかに使われとったようです。

我々中学生の頃はあの中でよく遊んでいたよ。

編集部

え― っ?じゃあ番人もいなかったんで?

いなかった。自由に入ってよかった。

編集部

天守閣なんかも自由ですか?

あれは金を取りよったでしょう。

そう確か5銭だか3銭だかとにかく払ってた気はするね。

う―ん、そうすると我々は看視人の眼を盗んで勝手に入ってたのかもしれんなあ。(と段々あやしくなる)まあ小さい頃は悪かったからなあ。(笑)

それはね、当時は今のように古いものを大切にしようというような気風があまりなかったんですよ。時代も満州事変の直前ということもありましたしね。

いや、あまりなかったなんてもんじゃなくて全然なかった。(キッパリ)

― 市街地のうつりかわり―

編集部

それでは次に福山城かいわいの市街地の様子について話してもらいたいんですが……。

昔と今と全く違うのは水路だと思うんですが、お堀には舟は入ってきとったでしょうか。

入っとりました。今の入江からずーっと町中へ入って来て、麻生の時計屋のあたりに天下橋というのがかかっとりまして、そこから水路が狭くなるんです。そして現在の藤本ビル当時は日米館というんですが、そのとなりに舟溜りがありました。そこまでダンペイ舟が通ってました。

編集部

ダンペイ舟というのは何ですか。

ダンペイ舟は幅が広くて浅い舟で、石炭をつんどったんです。ちょうど今の駅前の三菱銀行のあたりが、紡績のエンジンルームでして、そこまで石炭を運んどったんですわ。

あそこに大きいボイラーがあってね。湯をわかして蒸気で機械を動かしたんですね。

さっきの日米館のとなりの舟溜りのところへその湯が出よったんですよ。昔はみなそこへ洗濯に行ってました。

あの水路は掘ったんでしょうかな。それとも川があったんでしょうか。

まあたぶんもともと川がそこを流れていたものに若干手を加えてということの様ですがどうも今ひとつその辺は文献的に明らかになってないようです。お城から北側はわかるんです。本庄の辺りからドンドン池にかけて芦田川が分れて入ってたというのは。

芦田川が分かれて入ったというのは確かですな。というのは私らの子供時分まで本庄辺りまでは川も何もないところに土手だけがまだ残っとりましたからな。

水の話が出たので一寸言っときたいんですが、皆さんご承知の様に福山には全国で東京と長崎とここにしかなかった「蒸留しない水道」というのがありました。これは水野時代に出来まして、木管で池と民家を直につないであるんですが、これがまだ私らの子供の頃は使われてました。

あれは面白いんで。池と直につながってるから民家の井戸をのぞくと、フナが泳いでたりしてな。

それはいつ頃なくなったんですか。熊野の水源地から水をひきだしてからだから、大正末期ですね。

編集部

あと市街地の様子もお聞きしたいんですが、天満屋なんかは、いつごろ……。

あれは戦後ですがな。

今の天満屋の場所にはもと「はとや」というのがありました。それが業績が悪くてつぶれて、その後天満屋が入ってきたんです。それまでは天満屋というのはまだ小さくて……。

天満屋は今の宮通りにね、お宮があるでしょう、あの北側でね。小さい所をかりて商品券とか見本だけ置いてやりょうちゃったですよ。

編集部

その頃から「お中元は天満屋」という感じだったんですか。

いいえ、天満屋なんか知らない人も多かった位じゃないでしょうか。

編集部

あの当時の繁華街は本通りの辺りですか。

本通りよりも胡町の辺が一番にぎやかでしたね。そのころの胡町は福山で一番ハイカラな町でして、福山で最初の自転車屋なんかもここにありました。

自転車は当時高級品で一般には仲々手が出なかったですな。

当時は国産品がまだなくてね。全部外車でした。しかも子供用なんてのはまだなかったですから、あの三角のところに足をつっこんで「横のり」と言うんですが、そうして乗ってました。ちなみに私のウチは福山で二番目に自転車が入りました。えへん。

ずい分裕福だったんですな―(笑)それはいつごろの話ですか。

確か……大正の3~4年だったと思います。

編集部

えー自転車の話が出たところで、三番目の交通の問題に入りたいんですが……福山駅の出来たのが明治24年だそうですね。

そう株式会社山陽鉄道、後に国鉄になりましたが、次に鞆鉄が出来てこれが明治の末、そして両備鉄道が大正3年ころですね。

編集部

鞆鉄の始発駅はどの辺にあったんですか。

あれは高架になる前の西の第一踏切の辺りでした。

編集部

鞆鉄は山陽鉄道なんかに比べると大分小さかったようですね。

小さい小さい。もっとも煙突だけは大きくて私らは「ラッキョ」と呼んどりました。

力が弱いんだ。水呑と田尻の境の「三方坂」の辺ではよう登りきらんでね、乗客に降りて押してくれ言うてね、皆押しとりましたわ。

両備鉄道はあれよりはずっと良かったですな。後には電化になりましたし……。

両備鉄道は当時から日本でも有数の収益をあげる鉄道だったんですよ。

編集部

それが今の「福塩線」ですか。いや一寸違ってね。今の奈良津の消防署から焼場の前を通ってたんです。あそこに切り通しがあるでしょう。あれが昔はトンネルだったんです。戦後あのトンネルを崩して道ができた。

汽車が全盛になる以前には乗合馬車というのがありましたなぁ。府中―福山間とか鞆―福山間なんかにね。それと人力というのは大分後まで残ってましたな。

あれは、いつ頃まであったですかなあ。

確か昭和の……10年位まではあった様な気がします。

編集部

自動車が登場するのはいつ頃ですかね。

これは多分皆さんご存知ないでしょうが、福山で一番にアメリカの車を買ったのが水呑のUさん、二番目が笠岡町にハイカラ堂という店があったんですが、そこの親父です。

それはいつ頃ですか。

大正5年位のことです。

編集部

タクシーなんかはもっとずっと遅いんでしょうね。

いや、それ程でもない。大正10年頃には「文化タクシー」というのがもうあった。

編集部

ヘー、そんなに早くから。

※この座談会は一二〇分のテープに入りきらない程えんえんと行なわれ、話はまだまだつきないのであるが、ひとまずこの辺りでしめさせてもらいたい。テープ起しをしながら思うことは、どなたの話も単なるものしりといったものではなく、まさしくその時代を生きて来た人にふさわしく「生活」の匂いを充分に感じさせるものであったということである。それが今回うまく表れていないならそれはテープ起しをした私の責任である。興味のおありの方にはテープを貸しますので是非それで私の至らぬところを補なわれたい。会員の体験を記録するこういった企画は今後も出来ればつづけていきたいと思う。但し私自身はもうテープ起しなど二度とやりたくはないが……。発言者A、B、C……は特に誰をさすということもない。また誰が何を言ったかについても余り正確さにのみ気をくばらなかった。出席者の方々には事後なれど御承諾いただきたい。
戦前の福山