赤穂事件について

備陽史探訪:195号」より

岡田 宏一郎

四十七士の人々についてはよく語られているが、浅野内匠頭長矩の事件前の人物像については語られていないと思っている。内匠頭はどのような人物だったのか、また上野介についてはどうか、これについて、磯田道史『殿様の通信簿』(新潮文庫)の中から引用しながら紹介します。

この本の中に「浅野内匠頭と大石内蔵助」の章があり、「長矩、女色を好むこと切なり」とある。これについては

若い内匠頭は女性の好みにうるさく、美女に目がなかった。そのため、家来たちは美女を捜し求めてきては、内匠頭のもとに差し出し、それを手づるにして立身出世するのが当たり前になっていた

それで赤穂は、とんでもなく女に乱れた家になっている

と書かれている。そして

なぜ若い主君が色に溺れるのを黙ってみているのか、なぜ諌めないのか

ととがめ、家老の大石内蔵助と藤井又左衛門を不忠の臣として名指しで非難している。江戸時代以来、大石内蔵助は「忠臣」の代名詞であったはずだがこの記述(土芥寇讎記)を読むかぎり大石は忠臣どころか、悪名高い不忠の臣とされている。

このような記述を読むと真実なのか?正反対の人物像に驚いてしまう。初めて知った内容であり真実なのだろうか。気になる文章である。さて浅野内匠頭については、田舎大名から誰でも知っている歴史上の大名となったのが「赤穂浪士の討ち入り」であるが『赤穂市史』には討ち入り以前の浅野氏については資料がないと言うが、討ち入り以後は比較的資料があるという。

ところで『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)には元禄期の大名について、その行状が網羅されている。この巻二十に「浅野内匠頭長矩」の記載があり冒頭部分に内匠頭の官位・家紋・年齢と家族構成からはじまっていている。浅野内匠頭は幼いころ「又市郎」と呼ばれていたらしい。諒(いみな)は「長矩」(長いものさしという意味である)浅野内匠頭の位階は「従五位下」である。大名の位階は低く抑えられ、一方神主の官位はべらぼうに高く設定されていた。小社の禰宜が大大名と同じ官位を持っている場合も少なくなかったという。これは幕府の意図的な政策で神主をのぞけば二種類の人物の官位をわざと高くしていた。一つが「徳川の親類」で数万石の小大名であっても官位を高くした。もう一つが「高家」で足利将軍や織田倍長の子孫たちである。

一万石以上の領主が大名であるが例外もある。「喜連川」という家がそうである。領地がわずか五千石にすぎないのに幕府はこの家を特別扱いして「大名」とした。なぜなら、この家が幕府公認の「足利の子孫」であったからである。「足利・織田の子孫は優遇する。豊臣の子孫は殺す」というのが徳川家の方針であった。吉良家も足利家の子孫である。そのため吉良家は「高家」であり破格の待遇を受けた。高家は禄高は少ないが、官位はずば抜けて高い。吉良家の家禄はわずか四千二百石にすぎないが、官位は恐ろしく高く「従四位上・左近衛権少上將」と破格の官位である。なんだ「浅野内匠頭の従五位下とたいして変わらないではないか」と思われるが五ランク高いだけだが、この五ランク差は大きく天と地ほどの差である。四千二百石の吉良上野介の位、従四位上といえば加賀百万石の前田綱紀の位と一つしか違わなかったから百万石の前田家に迫る家格である。

江戸城のなかで大名の席順は石高でなく官位で決まる。そのため「官位」は大名の最大の関心事になっていた。吉良上野介にとって家柄と官位のほかに誇るべきものがない。吉良にとって「従五位下」の浅野内匠は田舎のボロ大名にすぎなかった。吉良は、本家筋の足利(喜連川)家とちがって大名の格を与えられていないだけに、大名に対しても得も言われぬコンプレックスがあり官位の低い地方の小大名には、あからさまに強気にでた。内匠頭の本家は広島藩四十二万六千五百石であるが、ここの当主・浅野綱長でさえ位階は「従四位下」であり吉良より下であった。この官位の差から内匠頭を馬鹿にして遠慮なく罵倒したのであろう。

自分は、吉良上野介側のプライド、思想にも問題があると思っている。上杉家百二十万石は西軍に味方したため米沢三十万五石に減封され、さらに三代藩主が急死して相続人を定めていなかったからお家断絶の危機となり老中保科正之の奔走により急きょ高家吉良上野介義央の子綱憲を養子に迎えた。ところが上野介は藩政に干渉した。百二十万石から米沢十五万石になっても藩士の人数はそのままでリストラしないままであるから藩の収入の88%は藩士の給与で消えて行った。それなのに石高は四千二百石しかないのに官階だけは従四位上と四十二万余りの大大名である浅野家より上である吉良家は、足利の流れという家柄と高家・位階が上というプライドだけを持っていて上野介は「馬鹿にされまい、上杉の格式を守り伝統を踏襲する」ことに固執して米沢藩を財政的に苦境に至らせた。そのため後に上杉鷹山が寛政改革で苦労するのであるが、この改革については知っていると思う。

ところで江戸城内で浅野内匠頭に切りつけられた吉良上野介の容態について平成28年12月3日の中国新聞に刃傷事件から間もない時期の様子を記録した史料が見つかったと言う記事が掲載されていたので引用して紹介しておきます。

江戸の築地御坊(現築地本願寺)へ宛てた書状を書き写した京都の西本顧寺の『留帳』に元禄14年3月14日に起きた刃傷事件の後、3月21日に『不慮の儀』、4月5目付に内匠頭の『乱心』と表現されている。

病状については

4月5日付で『吉良殿お痛みも軽く、御食事変わることなきよし』と江戸からの記録が記されている。

西本願寺と吉良との関係は

大火で焼けた江戸の浅草御坊の代替地を徳川幕府に求めた際、幕府で儀式や典礼をつかさどった吉良家の協力を仰いだとみられる。今回、上野介の父義冬が東本願寺の情報を西本願寺に流したと記す書状や、築地御坊の再興を祝う上野介の書状も見つかり、西本願寺との親密さがうかがえる。

と記事にある。これは

幕府との関係を維持するため、幕府内で要職に就き、味方になってくれた上野介の容態を探ろうとする西本願寺の必死な姿が伝わってくる

と本願寺史料研究所の大喜直彦上級研究員は話している。このような興味深いことが中国新聞に載っていた。

一方の浅野内匠頭にも「ある自意識」を持ち譲らなかったために、この事件はおきた。浅野がこだわり、一歩も譲らなかった自意識とは「城持ち大名」という強烈な誇りであった。城は平和になった家光の時代に長矩の祖父・長直に「赤穂に城を築け」と言って築城させている。こうした中「山鹿素行」も召し抱えている。浅野家は城を築きながら知らず知らずのうちに、偏狭な自尊心を築いていたかもしれない。「長袖者め」そう思っていたかもしれない。長袖とは、公家や僧侶など袖の長い衣を切る文官を馬鹿にして武人が発する蔑視の言葉である。内匠頭は城持大名として武威を張ることが自尊心の柱になっていた。ところが吉良上野介のもとで、勅使接待役など朝廷だの官位だのを持ち出され、さんざんに自尊心を踏みにじられた。こうしてついに暴発し発作的に切りつけてしまった。突けば殺せたが、切ったので相手は逃げた。そして注目すべきことがある。内匠頭の母親は鳥羽内藤家[三万五千石]から嫁してきたが、その弟、つまり内匠頭の叔父は「松の廊下の刃傷事件」から遡ること二十一年前、芝増上寺で将軍家綱の法事があり、この叔父の内藤忠勝は「勤番」をつとめた。ところが、将軍家の法事という極度の緊張の場でこの叔父・忠勝は何を思ったか、刀を抜き同役であった丹後宮津藩主永井信濃守尚長を刺殺してしまったという事件から血族関係も考慮する必要があるかも?と考えるのである。

このように著者の磯田道史氏は分析して赤穂事件は忠義の美談になっているが、これほど不幸な事件はない。本来、死ななくてもよかった、まっとうな人々の命が、つまらぬ人間のこだわりによって、粉々に打ち砕かれた無残な事件である。冷静に見られぬようでは、歴史を語る資格はない。無意味な人間のこだわりが、人を不幸にした典型的な事例といってよい。と言っている。

長々と引用・転載したが、著者のこのような分析や考えはどうであろうか?一考してもよいのではないだろうか、と思っている。

最後に引用して紹介した「殿様の通信簿」(磯田道史 新潮文庫)は読みやすく面白いので読んで見てはいかがですか?この中には、徳川光固(水戸黄門)についても(ひそかに悪所に通い、酒宴遊興甚だし)とある。テレビなどでおなじみの水戸黄門でない人物像が興味深いと思う。

なお著者が紹介している『土芥寇讎記』は元禄三年ごろ書かれたもので「幕府隠密の『秘密諜報』で公儀の隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたもの、という説がある書物で写本はこの世に一冊しかない。(東京大学史料編纂所に在る。もう一冊の旧広島藩主浅野家にあった浅野本は原爆で焼かれてしまった)

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/1.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2019/11/1-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:195号」より 岡田 宏一郎 四十七士の人々についてはよく語られているが、浅野内匠頭長矩の事件前の人物像については語られていないと思っている。内匠頭はどのような人物だったのか、また上野介についてはどうか、これについて、磯田道史『殿様の通信簿』(新潮文庫)の中から引用しながら紹介します。 この本の中に「浅野内匠頭と大石内蔵助」の章があり、「長矩、女色を好むこと切なり」とある。これについては 若い内匠頭は女性の好みにうるさく、美女に目がなかった。そのため、家来たちは美女を捜し求めてきては、内匠頭のもとに差し出し、それを手づるにして立身出世するのが当たり前になっていた それで赤穂は、とんでもなく女に乱れた家になっている と書かれている。そして なぜ若い主君が色に溺れるのを黙ってみているのか、なぜ諌めないのか ととがめ、家老の大石内蔵助と藤井又左衛門を不忠の臣として名指しで非難している。江戸時代以来、大石内蔵助は「忠臣」の代名詞であったはずだがこの記述(土芥寇讎記)を読むかぎり大石は忠臣どころか、悪名高い不忠の臣とされている。 このような記述を読むと真実なのか?正反対の人物像に驚いてしまう。初めて知った内容であり真実なのだろうか。気になる文章である。さて浅野内匠頭については、田舎大名から誰でも知っている歴史上の大名となったのが「赤穂浪士の討ち入り」であるが『赤穂市史』には討ち入り以前の浅野氏については資料がないと言うが、討ち入り以後は比較的資料があるという。 ところで『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)には元禄期の大名について、その行状が網羅されている。この巻二十に「浅野内匠頭長矩」の記載があり冒頭部分に内匠頭の官位・家紋・年齢と家族構成からはじまっていている。浅野内匠頭は幼いころ「又市郎」と呼ばれていたらしい。諒(いみな)は「長矩」(長いものさしという意味である)浅野内匠頭の位階は「従五位下」である。大名の位階は低く抑えられ、一方神主の官位はべらぼうに高く設定されていた。小社の禰宜が大大名と同じ官位を持っている場合も少なくなかったという。これは幕府の意図的な政策で神主をのぞけば二種類の人物の官位をわざと高くしていた。一つが「徳川の親類」で数万石の小大名であっても官位を高くした。もう一つが「高家」で足利将軍や織田倍長の子孫たちである。 一万石以上の領主が大名であるが例外もある。「喜連川」という家がそうである。領地がわずか五千石にすぎないのに幕府はこの家を特別扱いして「大名」とした。なぜなら、この家が幕府公認の「足利の子孫」であったからである。「足利・織田の子孫は優遇する。豊臣の子孫は殺す」というのが徳川家の方針であった。吉良家も足利家の子孫である。そのため吉良家は「高家」であり破格の待遇を受けた。高家は禄高は少ないが、官位はずば抜けて高い。吉良家の家禄はわずか四千二百石にすぎないが、官位は恐ろしく高く「従四位上・左近衛権少上將」と破格の官位である。なんだ「浅野内匠頭の従五位下とたいして変わらないではないか」と思われるが五ランク高いだけだが、この五ランク差は大きく天と地ほどの差である。四千二百石の吉良上野介の位、従四位上といえば加賀百万石の前田綱紀の位と一つしか違わなかったから百万石の前田家に迫る家格である。 江戸城のなかで大名の席順は石高でなく官位で決まる。そのため「官位」は大名の最大の関心事になっていた。吉良上野介にとって家柄と官位のほかに誇るべきものがない。吉良にとって「従五位下」の浅野内匠は田舎のボロ大名にすぎなかった。吉良は、本家筋の足利(喜連川)家とちがって大名の格を与えられていないだけに、大名に対しても得も言われぬコンプレックスがあり官位の低い地方の小大名には、あからさまに強気にでた。内匠頭の本家は広島藩四十二万六千五百石であるが、ここの当主・浅野綱長でさえ位階は「従四位下」であり吉良より下であった。この官位の差から内匠頭を馬鹿にして遠慮なく罵倒したのであろう。 自分は、吉良上野介側のプライド、思想にも問題があると思っている。上杉家百二十万石は西軍に味方したため米沢三十万五石に減封され、さらに三代藩主が急死して相続人を定めていなかったからお家断絶の危機となり老中保科正之の奔走により急きょ高家吉良上野介義央の子綱憲を養子に迎えた。ところが上野介は藩政に干渉した。百二十万石から米沢十五万石になっても藩士の人数はそのままでリストラしないままであるから藩の収入の88%は藩士の給与で消えて行った。それなのに石高は四千二百石しかないのに官階だけは従四位上と四十二万余りの大大名である浅野家より上である吉良家は、足利の流れという家柄と高家・位階が上というプライドだけを持っていて上野介は「馬鹿にされまい、上杉の格式を守り伝統を踏襲する」ことに固執して米沢藩を財政的に苦境に至らせた。そのため後に上杉鷹山が寛政改革で苦労するのであるが、この改革については知っていると思う。 ところで江戸城内で浅野内匠頭に切りつけられた吉良上野介の容態について平成28年12月3日の中国新聞に刃傷事件から間もない時期の様子を記録した史料が見つかったと言う記事が掲載されていたので引用して紹介しておきます。 江戸の築地御坊(現築地本願寺)へ宛てた書状を書き写した京都の西本顧寺の『留帳』に元禄14年3月14日に起きた刃傷事件の後、3月21日に『不慮の儀』、4月5目付に内匠頭の『乱心』と表現されている。 病状については 4月5日付で『吉良殿お痛みも軽く、御食事変わることなきよし』と江戸からの記録が記されている。 西本願寺と吉良との関係は 大火で焼けた江戸の浅草御坊の代替地を徳川幕府に求めた際、幕府で儀式や典礼をつかさどった吉良家の協力を仰いだとみられる。今回、上野介の父義冬が東本願寺の情報を西本願寺に流したと記す書状や、築地御坊の再興を祝う上野介の書状も見つかり、西本願寺との親密さがうかがえる。 と記事にある。これは 幕府との関係を維持するため、幕府内で要職に就き、味方になってくれた上野介の容態を探ろうとする西本願寺の必死な姿が伝わってくる と本願寺史料研究所の大喜直彦上級研究員は話している。このような興味深いことが中国新聞に載っていた。 一方の浅野内匠頭にも「ある自意識」を持ち譲らなかったために、この事件はおきた。浅野がこだわり、一歩も譲らなかった自意識とは「城持ち大名」という強烈な誇りであった。城は平和になった家光の時代に長矩の祖父・長直に「赤穂に城を築け」と言って築城させている。こうした中「山鹿素行」も召し抱えている。浅野家は城を築きながら知らず知らずのうちに、偏狭な自尊心を築いていたかもしれない。「長袖者め」そう思っていたかもしれない。長袖とは、公家や僧侶など袖の長い衣を切る文官を馬鹿にして武人が発する蔑視の言葉である。内匠頭は城持大名として武威を張ることが自尊心の柱になっていた。ところが吉良上野介のもとで、勅使接待役など朝廷だの官位だのを持ち出され、さんざんに自尊心を踏みにじられた。こうしてついに暴発し発作的に切りつけてしまった。突けば殺せたが、切ったので相手は逃げた。そして注目すべきことがある。内匠頭の母親は鳥羽内藤家[三万五千石]から嫁してきたが、その弟、つまり内匠頭の叔父は「松の廊下の刃傷事件」から遡ること二十一年前、芝増上寺で将軍家綱の法事があり、この叔父の内藤忠勝は「勤番」をつとめた。ところが、将軍家の法事という極度の緊張の場でこの叔父・忠勝は何を思ったか、刀を抜き同役であった丹後宮津藩主永井信濃守尚長を刺殺してしまったという事件から血族関係も考慮する必要があるかも?と考えるのである。 このように著者の磯田道史氏は分析して赤穂事件は忠義の美談になっているが、これほど不幸な事件はない。本来、死ななくてもよかった、まっとうな人々の命が、つまらぬ人間のこだわりによって、粉々に打ち砕かれた無残な事件である。冷静に見られぬようでは、歴史を語る資格はない。無意味な人間のこだわりが、人を不幸にした典型的な事例といってよい。と言っている。 長々と引用・転載したが、著者のこのような分析や考えはどうであろうか?一考してもよいのではないだろうか、と思っている。 最後に引用して紹介した「殿様の通信簿」(磯田道史 新潮文庫)は読みやすく面白いので読んで見てはいかがですか?この中には、徳川光固(水戸黄門)についても(ひそかに悪所に通い、酒宴遊興甚だし)とある。テレビなどでおなじみの水戸黄門でない人物像が興味深いと思う。 なお著者が紹介している『土芥寇讎記』は元禄三年ごろ書かれたもので「幕府隠密の『秘密諜報』で公儀の隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたもの、という説がある書物で写本はこの世に一冊しかない。(東京大学史料編纂所に在る。もう一冊の旧広島藩主浅野家にあった浅野本は原爆で焼かれてしまった)備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ