城郭部会城跡調査報(比婆郡口和町)

備陽史探訪:99号」より

小林 浩二

―平成十二年度後期調査―

比婆郡口和町の城跡

口和町は比婆郡の西端に位置し、北部は釜峰山・笠尾山・八国見山野・呂山などの山々が連なり、この北部山地に発する藤根(とうね)川・湯木川が南流し、宮内川と竹地谷(たけちだに)川が合流して萩川となり、それぞれ西城川に注ぎ、耕地はこれら河川の沿岸に散在する。湯木川中流域の永田および宮内川下流域の向泉(むこういずみ)が比較的開けた地形で小盆地をなす。

明治二二年(一八八九)町村制施行により、恵蘇(えそ)郡の宮内・竹地谷・大月・向泉の四村が口靴北村、湯木・永田・常定・金田の四村が口南村となった。昭和三〇年口北村と口南村が合併して口和村となり、同三五年町制を施行した。

竹山(たけやま)城跡

口和町宮内
竹山城跡略測図

市場集落の入口を防ぐような位置にあり、麓からの比高一〇〇メートルで東西三〇メートル、南北一〇〇メートルの範囲に三段に削平された郭と背後の堀切で構築されている。主郭は一五×一〇メートルで北側に土塁を設けている。二段目の郭は二〇×二〇メートルで主郭とは西端の坂虎口で結ばれている。最下段の郭は一五×三七メートルで中央に低土塁がある。主郭の背後は堀切で断絶している。なお、先端部は鉄穴(かんな)流し(砂鉄採取)で鋭く削られている。

熊谷(くまだに)城跡

口和町宮内
熊谷城跡略測図

東麓からの高さ六〇メートルの頂上を一段のみ削平された郭で北側に土塁と堀切を設けた単純な縄張りである。頂上からの展望は素晴らしく金尾峠を越えて高野町にいたる道を西下に見下ろす。『芸藩通志』は熊谷新右衛門の名前を伝える。

調査日
七月一〇日(月)
竹山城跡・熊谷城跡
参加者
◎高端辰己
(◎は調査担当者以下同じ)

釜峰山(かまがみねやま)城跡

口和町湯木
釜峰山城跡略測図

湯木の北部に位置する釜峰山(七八八メートル)にある。『芸藩通志』は湯木三郎則重の居城と記しているが、湯木氏の系譜については、史料が少なく明らかでない。鎌倉時代、湯木を中心に泉庄という荘園があり、安芸国の葉山城氏が地頭として入り、その一族とみられる武士が涌喜(ゆき)氏を名乗っていたが、この後に現れる湯木(涌喜)氏との関係は定かでない。

『山内首藤家文書』によると、応仁の乱の混乱期に延暦寺領泉田(現庄原市)への進出を図った山内氏・三吉氏・涌喜氏の間で紛争が続き、山内豊成は涌喜城を攻撃した。

応仁の乱後、泉田庄は湯木氏に預けられたが、その後も抗争は続き最終的には山内氏の支配地となり、湯木氏も山内氏の勢力下に入った。

天文二二年(一五五三)五月、大月と向泉の境の竹地谷川を挟んで毛利軍と尼子軍が戦った泉合戦の時、尼子の大軍が侵攻してくると、毛利方であった湯木氏は派遣されていた吉川元春の家臣一三名を討ち、山内氏どともに尼子方となり、尼子晴久は釜峰山城に本陣を置いた。泉合戦は毛利軍の勝利に終り、湯木氏は釜峰山城を失ったが、山内氏の家臣として江戸時代まで存続している。

湯木から伊与谷に入ると、釜峰山の中腹にある釜峰山神社まで車で行くことができ、神社から城跡までは、良く整備された山道があるので、麓からの比高三〇〇メートルの高地にある山城にしては、容易に登ることが出来る。主郭からの展望は素晴らしく、尼子軍がここに本陣を構えたことは当然だったと思われる。

主郭は二五×一五メートルで後ろに高さ三メートルの土塁を設けている。東方に続く尾根は六条の堀切で防備している。主郭から五メートル低いⅡ郭は一四×一〇メートル、さらに七・五メートル低くⅢ郭は一三×一〇メートルで北側に土塁が見られる。南側斜面にも三段の郭が設けられⅢ郭から三メートル低いⅣ郭は三〇×三~六メートルで東側に主郭から坂土塁が下り、主郭との連絡道とも考えられる。土塁の東外側には一条の竪堀(たてぼり)も見える。Ⅳ郭から一五メートル下のⅤ郭は中央で二段に分かれ東側の郭は一段高くなっている。これは西側の郭の南下にある大手道から攻め登って来た敵兵が虎口(こぐち)に入った時、正面から攻撃するためである。東郭の東側にはⅣ郭と同様に坂土塁が下がり、外方にも同じように竪堀が設けられている。

御所陣山(ごしょじんやま)城跡

口和町向泉
御所陣山城跡略測図

御所陣山城は向泉全域を展望出来る好位置にあるが、比高四〇メートルで山城としては要害の地ではない。

主郭は四〇×二〇メートルで面積は約六二〇平方メートル(一八坪)である。東方の尾根を幅一一メートル深さ三メートルの堀切で断絶している。この堀切の底と同一高低で主郭の北・西・南下に構築された遺構が特異である。まず南西・側に五~一〇メートル方形で高さニメートルの土盛がそれぞれニメートル幅の堀切状の溝で区画されて構築している。北側にも一〇メートル四方の高まりが見られ、西北側には一五メートル四方の郭があり、主郭に次ぐ広さである。これらの上盛りと主郭のあいだは空堀になっている。これだけの構築をしながら、東方の頂上に続く尾根と、西側のなだらかな尾根には防御の施設が見られない。

『陰徳記』によると、出雲の月山富田城を二万の軍勢で出陣した尼子軍は、本陣を釜峰山城においた。二万の軍勢の中には補給・輸送等の人数も含まれていたであろうが、全軍が釜峰山城に入ったとは考えられない。多くの兵達は周辺の山中に簡単な小屋を立てて雨露をしのいだと思われる。さらに毛利方の黒岩城と相対する前戦基地を築く必要があった。相当数の兵員を収容でき、黒岩城から一・五キロメートルの至近距離にある『御所陣山』はまさに最適の場所であった。さらに第一陣の攻撃後、尼子軍は本陣を釜峰山城から二〇丁(約ニキロメートル)余り先に進めたとあり、まさにこの距離が御所陣山城の位置である。『御所陣山』の名称も泉合戦の故事にちなんで後世につけられたものであろう。

調査日
七月二〇日(火)
釜峰山城跡御・所陣山城跡
参加者
◎枝広博之・出内博都・小林浩二・坂本敏夫・佐藤錦士・田口義之

黒岩(くろいわ)城跡

口和町大月
黒岩城跡略測図

双三郡君田村から「しんぎょ峠」を越えて口和町に入ると、すぐ正面にそびえ立つ山が黒岩城跡である。

県道からの比高一四五メートルを測り、頂上のI郭は一六~二二×三五メートルのほぼ長方形で北端に土塁が見らる。東側の南端にはⅡ郭から延びる連絡道が切岸を掘って虎口になっている。ここから南の尾根に三つの郭と西麓からの大手道を設けている。さらに東の尾根にも五つの郭を構えている。そして北側は鞍部の尾根に小規模な削平地と二条の堀切で北方の山と断絶している。I郭から九メートル下がるⅡ郭は四〇×一一メートルと細長く南側のほぼ中央にⅢ郭からの連絡道が入っている。Ⅲ郭は四〇×一八メートルで、北寄りには素掘の井戸が現存している。Ⅳ郭は二六×二〇メートルで東南隅は大手道を受け入れるために郭内に一段低く枡形状の平坦地を設け防御している。また、ここかから東尾根の郭群との連絡のための道がⅦ郭に延びている。東尾根には五段の郭が設けられており、Ⅴ郭は一五×一五メートル、そこから一〇メートル低いⅥ郭は人×二〇メートル、さらに一五メートル低いⅦ郭は一三×一七メートルの規模である。いずれも幅一メートルの連絡道で結ばれている。そして最下段のⅧ郭との間には三段の小規模な削平地がある。なおⅧ郭の南端からは谷に沿って大手道に延びる連絡道がある。

『芸藩通志』は黒岩城麓に松岳院を載せ、城主泉三郎左衛門久勝、大永年中(一五二一~二八)開基としている。その場所は大手道が出発する東麓の広場で、当初は泉氏の館が設けられていたと思われる。また、周辺には当時をしのぶ殿敷・土居・弓ヶ原・上堀・下堀等の屋号や古い地名が残っている。

調査日
七月二〇日(火)
参加者
◎小林浩二・枝広博之・出内博都・坂本敏夫・佐藤錦士・田口義之

泉氏

大月の黒岩城を本拠として口和町西部を支配していた泉氏について、『芸藩通志』は黒岩城主として「泉久勝より三世久正まで所居」とし、『西備名区』では「信正・信行・久正」という系譜をあげている。大永元年(一五二一)泉久勝が多加意加美神社へ御神体を寄進したと伝え、また同社を天正四年(一五七六)再建したときの棟札に「大檀那 辛巳藤原久正同子息藤原長久」とあり、久正・長久父子は実在の人物であったことが知られる。泉氏の出自については、名前から推して地元向泉に生まれ成長した武士で、口和町西部を勢力範囲にしていたと思われる。また、根拠は薄いが、三次の三吉氏系図(三次町国郡志所載)に室町時代前期の人物として、泉五郎なる名前がみられ、戦国末期には三吉方について行動しているので、三吉氏からの分流の可能性も考えられる。

戦国時代を迎え、泉氏ははじめ尼子方に従ったが、後に毛利方の三吉氏と主従関係を結ぶようになり、天文二二年の泉合戦では黒岩城が毛利軍の本陣になった。

『芸藩通志』は現三次市三次町にある福谷山城について「福谷山城上里村にあり、泉三郎五郎久正が所居、泉は三吉家士なり」としている。これは、三吉広高がこれまでの比叡尾山城に代わって三次町に新しい城下町を建設して、天正一九年(一五九一)比熊山城へ移るが、このときの家臣団の城下町集中政策として泉氏は大月を離れ、旧領を失って右の新領を与えられたのかもしれない。

工ヶ原(たくみがはら)城跡

口和町金田
工ヶ原城跡略測図

口和町の最南端に位置し、湯木川と西城川が合流する北側にあり、城跡の南側は急斜面で西城川に下がり、西側斜面も急峻で要害の地である。縄張りは小規模で主郭は一九×一〇メートルで、そこから南に三段、北に二段の郭を構築している。城主名等は伝えられていないが立地から西城川を見張る城であったと思われる。

貴船山(きふねやま)城跡

口和町永田
貴船山城跡略測図

別名青掛山城ともいい、北麓からの比高七〇メートルで貴船山から北方に張り出した尾根上に構築されている。主郭は二〇×一五メートルで背後に物見台を兼ねたような土塁を設け、そこから北方に下がる尾根に四段の郭を築いている。東側に谷を隔てて南北に並走する尾根が主郭の下で結合する部分にも四段の腰郭と帯郭と一条の竪堀で防御している。この郭群から東方下斜面に三~四条の竪堀状の溝があるが、鉄穴流しの跡と思われる。『芸藩通志』は城主貴船亮永を記している。

迫(さこ)城跡

口和町湯木
迫城跡略測図

当城跡は西麓からの比高約四〇メートルであるが、その全域は東西三五〇メートル、南北五〇メートルにわたって構築されており、面積は約一万七五〇〇平方メートル(五三〇〇坪)あり、町内最大の規模である。縄張りは全体で三つの区画に分けることができる。まず標高三三〇メートルの頂上部で九〇×三〇メートルのI郭を中心とした中枢部と堀切と土橋を隔てて六七×二五メートルの長方形のⅡ郭を中心とした中央部と特異な土塁状遺構を要する六一×二七メートルのⅢ郭の先端部である。

主郭であるI郭の北方のニメートル低い郭には北端にL字型の土塁を設け、その外側は堀切で断絶している。さらに西と南側にも郭を設けている。I郭とⅡ郭の落差は約七メートルで間には堀切と土橋が複雑に築かれており、虎口だったと考えられる。Ⅱ郭とⅢ郭の間は一五メートルあり、Ⅱ郭側から一段低く張出部を設けさらに堀切で断絶している。Ⅲ郭には北端に高さ三メートル、長さ二〇メートルの土塁を設けている。Ⅲ郭の東側五メートル下の幅一〇メートルのテラス状の平坦面に、高さ約ニメートルで五~八メートル四方の小山を、幅一~ニメートルの溝で切断して南北に九つ並べてあり、あたかも古墳が並んでいる様相である。このような遺構は御所陣山城跡にもあるが、他では見られない特異な構築である。南端先端部は堀切で断絶し西下に幅一〇メートル、長さ五七メートルの腰郭を構えている。

このような広大な城郭を一地侍の湯木氏が領国経営のために構築することは考えられない。Ⅲ郭の東下の特異な構築は御所陣山城跡と同様であることから、二つの遺構は尼子軍の陣地として築かれたと思われる。

調査日
七月三〇日(日)
工ヶ原城跡・貴船山城跡・迫城跡
参加者
◎坂本敏夫・小林浩二・高端辰己

茶臼山城跡

口和町向泉
茶臼山城跡略測図

茶臼山城跡は、標高五六〇メートルの大仙山から南に延びる丘陵尾根に位置し、眼下に大月・向泉の水田地帯が広がっている。『芸藩通志』によると、城主は黒岩城の第二代泉久正で、黒岩城の出城であるという。

主郭は一七×四五メートルで北は次第に狭くなって堀切を設け、その北側に竪堀がある。また、西側には堀切からやや下がって小郭を設けている。なお、主郭の周囲には幅五~一〇メートルの腰郭を巡らせている。このように当城は、郭の配置が簡単で、小規模であることからも、黒岩城の出丸として見張り所程度の機能を果たしていたのであろう。

信安(のぶやす)城跡

口和町向泉
信安城跡略測図

この城は、標高三八〇メートルの尾根先端にあって、小規模ながら複雑な縄張りである。I郭は一八×一四メートルで礎石とみられる石が点在し、北側に土塁を設けている。その背後は堀切で断絶し、さらに屈折した土塁状の削平地が複雑に見られるが、当時の遺構か、あるいは鉄穴流しの跡かの判断は困難である。約八メートル低いⅡ郭は一五×六メートルで、さらに五メートル下がってⅢ郭がある。そこは幅三~五メートルで西側に長く延びてI郭の西下で三段の郭とつながる。Ⅲ郭から一〇メートルの落差で最下段のⅣ郭は一〇×三〇メートルで最大の面積で西瑞はさらに西方に延びて帯郭になっている。小規模ではあるが多くの平坦面で構成されていることから居住した可能性が考えられる。

調査日
九月八日(金)
茶臼山城跡・信安城跡
参加者
◎小林定市

あいが城跡

口和町大月
あいが城跡略測図

大合戦橋(おんがせばし)の下を流れる竹地谷川を少し下ると急に両側から山がせまり渓谷となる。その渓谷の西側で標高約三八五メートルの山頂に東西に五段の郭と背後の鞍部に竪堀と堀切・土塁の遺構が見られる。I郭は一〇×一五メートルで西側には土塁があり、南側斜面には二~三段に積んだ石垣も見られる。I郭から〇・五メートル低いⅡ郭は一二×一八メートルで西側にはI郭からの土塁が途中まで延びている。Ⅱ郭とⅢ郭の間は幅五メートル、深さ一メートルの堀で区画され西側でつながっている。一二×三二メートルのⅢ郭にはドラム缶半分の大きさの石で中央が東西に半分仕切られ東側の端にも同じような石で繋がるL字形の石組がつくられている。なにか特別の建造物か施設でもあったのであろう。Ⅳ郭は一メートル低く東側で腰郭となってⅢ郭の下に回っている。四メートルの落差で一三×一五メートルのⅤ郭は北側に井戸跡と思われる窪みが見られる。ここから急斜面となって北方に下がる尾根上には一条の堀切が設けられている。I郭から西方はいったん急斜面で下がり北・南からの谷が入り込んで小さな鞍部となる所に長さ一〇メートル前後、高さ一~ニメートルの三つの土塁と南斜面に三条の竪堀があり、北斜面は一条の竪土塁と竪堀で断絶している。規模的にはコンパクトな縄張りであるが、石垣・石組・井戸跡、また背後の厳重な守りから一時的ではあるが、戦国時代の騒乱期での居住性を考慮した構築が考えられる。

城主の名前も伝わらず、『芸藩通志』の村絵図に所在が記されているだけである。

調査日
十月九日(月)
参加者
◎小林浩二・坂本敏夫・高端辰己

比婆郡比和町の城跡

比和町は比婆郡の中央西寄りに位置し、町域の北から東にかけて、吾妻山・烏帽子山・比婆山・立烏帽子山・毛無山など標高一〇〇〇メートル級の山々が連なる。備後北部産地は古くより鉄の産地として知られ、なかでも当町域はその中心地で、享保年間(一七一六~三六)の鉄穴の数は、八四で、恵蘇郡総数一三一の六四パーセントを占めた。

明治三二年の町村制施工により、恵蘇郡の比和・森脇・古頃(こごろ)・木屋原(こやばら)・三河内(みつかいち)の五村が合併し、その中心地比和の名をとって比和村となった。同三一年比婆郡が成立して、その所属となり、昭和八年町制を施行した。

錦山城跡

比和町森脇
錦山城跡略測図

城跡は比和川と久泉原(くせんばら)川の合流点東にある錦山(八三二メートル)から西に派生した丘陵先端にあり、墓地造成により一部破壊されているが、郭・堀切・通路がよく残っている。

主郭は五〇×二〇メートルで北東端が約ニメートル高く、さらに北東側には土塁と堀切を設けている。南東端は堀切と竪堀の底とつながっている。郭の西端に虎口があり他の郭に通じている。なお、丘陵続きの山頂部は未調査である。『森脇村谷口社家古文書』や『恵蘇郡国郡志下調書出帳』によると、正和五年(一三一六)頃、山内通資(みちすけ)が関東から新市村(現高野町)移住するが、それ以前は錦山城に拠る森脇豊前守元定・三十郎・市正の三代が、地毗(じび)庄北部を領有したが、正和年間(一三一二~一六)前後、錦山城は落城した。

その後は山内氏の家臣湯浅肥前広吉が錦山城に入ったという。

加土(かど)城跡

比和町木屋原
加土城跡略測図

城跡は比高五〇メートルの丘陵頂部にあって、最高所のI郭には西と南に土塁がある。I郭の南側には深さ約一〇メートルの堀切を設け、その南側にも堀切や掘削の痕跡が見られる。I郭の北側に帯郭を設け、この北東下に三角形の郭を配す。北西下に突き出た小尾根にも郭を配し、I郭との間は堀切状になっている。

『吉川家文書』にみえる、享禄元年(一五二人)頃、出雲の尼子氏が攻撃した「小屋原之城」とはこの城のことであろうか。城主は福光氏と伝えられるが、詳細は不明。山内氏が長州に移ると福光氏は帰農し、子孫は木屋原村の庄屋を勤めた。

調査日
十月二四日(火)
錦山城跡・加土城跡
参加者
◎矢野恭平・石森啓喜・岡田道章
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/6fc28f034667e934a9741767aa966e68.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/6fc28f034667e934a9741767aa966e68-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:99号」より 小林 浩二 ―平成十二年度後期調査― 比婆郡口和町の城跡 口和町は比婆郡の西端に位置し、北部は釜峰山・笠尾山・八国見山野・呂山などの山々が連なり、この北部山地に発する藤根(とうね)川・湯木川が南流し、宮内川と竹地谷(たけちだに)川が合流して萩川となり、それぞれ西城川に注ぎ、耕地はこれら河川の沿岸に散在する。湯木川中流域の永田および宮内川下流域の向泉(むこういずみ)が比較的開けた地形で小盆地をなす。 明治二二年(一八八九)町村制施行により、恵蘇(えそ)郡の宮内・竹地谷・大月・向泉の四村が口靴北村、湯木・永田・常定・金田の四村が口南村となった。昭和三〇年口北村と口南村が合併して口和村となり、同三五年町制を施行した。 竹山(たけやま)城跡 口和町宮内 市場集落の入口を防ぐような位置にあり、麓からの比高一〇〇メートルで東西三〇メートル、南北一〇〇メートルの範囲に三段に削平された郭と背後の堀切で構築されている。主郭は一五×一〇メートルで北側に土塁を設けている。二段目の郭は二〇×二〇メートルで主郭とは西端の坂虎口で結ばれている。最下段の郭は一五×三七メートルで中央に低土塁がある。主郭の背後は堀切で断絶している。なお、先端部は鉄穴(かんな)流し(砂鉄採取)で鋭く削られている。 熊谷(くまだに)城跡 口和町宮内 東麓からの高さ六〇メートルの頂上を一段のみ削平された郭で北側に土塁と堀切を設けた単純な縄張りである。頂上からの展望は素晴らしく金尾峠を越えて高野町にいたる道を西下に見下ろす。『芸藩通志』は熊谷新右衛門の名前を伝える。 調査日 七月一〇日(月) 竹山城跡・熊谷城跡 参加者 ◎高端辰己 (◎は調査担当者以下同じ) 釜峰山(かまがみねやま)城跡 口和町湯木 湯木の北部に位置する釜峰山(七八八メートル)にある。『芸藩通志』は湯木三郎則重の居城と記しているが、湯木氏の系譜については、史料が少なく明らかでない。鎌倉時代、湯木を中心に泉庄という荘園があり、安芸国の葉山城氏が地頭として入り、その一族とみられる武士が涌喜(ゆき)氏を名乗っていたが、この後に現れる湯木(涌喜)氏との関係は定かでない。 『山内首藤家文書』によると、応仁の乱の混乱期に延暦寺領泉田(現庄原市)への進出を図った山内氏・三吉氏・涌喜氏の間で紛争が続き、山内豊成は涌喜城を攻撃した。 応仁の乱後、泉田庄は湯木氏に預けられたが、その後も抗争は続き最終的には山内氏の支配地となり、湯木氏も山内氏の勢力下に入った。 天文二二年(一五五三)五月、大月と向泉の境の竹地谷川を挟んで毛利軍と尼子軍が戦った泉合戦の時、尼子の大軍が侵攻してくると、毛利方であった湯木氏は派遣されていた吉川元春の家臣一三名を討ち、山内氏どともに尼子方となり、尼子晴久は釜峰山城に本陣を置いた。泉合戦は毛利軍の勝利に終り、湯木氏は釜峰山城を失ったが、山内氏の家臣として江戸時代まで存続している。 湯木から伊与谷に入ると、釜峰山の中腹にある釜峰山神社まで車で行くことができ、神社から城跡までは、良く整備された山道があるので、麓からの比高三〇〇メートルの高地にある山城にしては、容易に登ることが出来る。主郭からの展望は素晴らしく、尼子軍がここに本陣を構えたことは当然だったと思われる。 主郭は二五×一五メートルで後ろに高さ三メートルの土塁を設けている。東方に続く尾根は六条の堀切で防備している。主郭から五メートル低いⅡ郭は一四×一〇メートル、さらに七・五メートル低くⅢ郭は一三×一〇メートルで北側に土塁が見られる。南側斜面にも三段の郭が設けられⅢ郭から三メートル低いⅣ郭は三〇×三~六メートルで東側に主郭から坂土塁が下り、主郭との連絡道とも考えられる。土塁の東外側には一条の竪堀(たてぼり)も見える。Ⅳ郭から一五メートル下のⅤ郭は中央で二段に分かれ東側の郭は一段高くなっている。これは西側の郭の南下にある大手道から攻め登って来た敵兵が虎口(こぐち)に入った時、正面から攻撃するためである。東郭の東側にはⅣ郭と同様に坂土塁が下がり、外方にも同じように竪堀が設けられている。 御所陣山(ごしょじんやま)城跡 口和町向泉 御所陣山城は向泉全域を展望出来る好位置にあるが、比高四〇メートルで山城としては要害の地ではない。 主郭は四〇×二〇メートルで面積は約六二〇平方メートル(一八坪)である。東方の尾根を幅一一メートル深さ三メートルの堀切で断絶している。この堀切の底と同一高低で主郭の北・西・南下に構築された遺構が特異である。まず南西・側に五~一〇メートル方形で高さニメートルの土盛がそれぞれニメートル幅の堀切状の溝で区画されて構築している。北側にも一〇メートル四方の高まりが見られ、西北側には一五メートル四方の郭があり、主郭に次ぐ広さである。これらの上盛りと主郭のあいだは空堀になっている。これだけの構築をしながら、東方の頂上に続く尾根と、西側のなだらかな尾根には防御の施設が見られない。 『陰徳記』によると、出雲の月山富田城を二万の軍勢で出陣した尼子軍は、本陣を釜峰山城においた。二万の軍勢の中には補給・輸送等の人数も含まれていたであろうが、全軍が釜峰山城に入ったとは考えられない。多くの兵達は周辺の山中に簡単な小屋を立てて雨露をしのいだと思われる。さらに毛利方の黒岩城と相対する前戦基地を築く必要があった。相当数の兵員を収容でき、黒岩城から一・五キロメートルの至近距離にある『御所陣山』はまさに最適の場所であった。さらに第一陣の攻撃後、尼子軍は本陣を釜峰山城から二〇丁(約ニキロメートル)余り先に進めたとあり、まさにこの距離が御所陣山城の位置である。『御所陣山』の名称も泉合戦の故事にちなんで後世につけられたものであろう。 調査日 七月二〇日(火) 釜峰山城跡御・所陣山城跡 参加者 ◎枝広博之・出内博都・小林浩二・坂本敏夫・佐藤錦士・田口義之 黒岩(くろいわ)城跡 口和町大月 双三郡君田村から「しんぎょ峠」を越えて口和町に入ると、すぐ正面にそびえ立つ山が黒岩城跡である。 県道からの比高一四五メートルを測り、頂上のI郭は一六~二二×三五メートルのほぼ長方形で北端に土塁が見らる。東側の南端にはⅡ郭から延びる連絡道が切岸を掘って虎口になっている。ここから南の尾根に三つの郭と西麓からの大手道を設けている。さらに東の尾根にも五つの郭を構えている。そして北側は鞍部の尾根に小規模な削平地と二条の堀切で北方の山と断絶している。I郭から九メートル下がるⅡ郭は四〇×一一メートルと細長く南側のほぼ中央にⅢ郭からの連絡道が入っている。Ⅲ郭は四〇×一八メートルで、北寄りには素掘の井戸が現存している。Ⅳ郭は二六×二〇メートルで東南隅は大手道を受け入れるために郭内に一段低く枡形状の平坦地を設け防御している。また、ここかから東尾根の郭群との連絡のための道がⅦ郭に延びている。東尾根には五段の郭が設けられており、Ⅴ郭は一五×一五メートル、そこから一〇メートル低いⅥ郭は人×二〇メートル、さらに一五メートル低いⅦ郭は一三×一七メートルの規模である。いずれも幅一メートルの連絡道で結ばれている。そして最下段のⅧ郭との間には三段の小規模な削平地がある。なおⅧ郭の南端からは谷に沿って大手道に延びる連絡道がある。 『芸藩通志』は黒岩城麓に松岳院を載せ、城主泉三郎左衛門久勝、大永年中(一五二一~二八)開基としている。その場所は大手道が出発する東麓の広場で、当初は泉氏の館が設けられていたと思われる。また、周辺には当時をしのぶ殿敷・土居・弓ヶ原・上堀・下堀等の屋号や古い地名が残っている。 調査日 七月二〇日(火) 参加者 ◎小林浩二・枝広博之・出内博都・坂本敏夫・佐藤錦士・田口義之 泉氏 大月の黒岩城を本拠として口和町西部を支配していた泉氏について、『芸藩通志』は黒岩城主として「泉久勝より三世久正まで所居」とし、『西備名区』では「信正・信行・久正」という系譜をあげている。大永元年(一五二一)泉久勝が多加意加美神社へ御神体を寄進したと伝え、また同社を天正四年(一五七六)再建したときの棟札に「大檀那 辛巳藤原久正同子息藤原長久」とあり、久正・長久父子は実在の人物であったことが知られる。泉氏の出自については、名前から推して地元向泉に生まれ成長した武士で、口和町西部を勢力範囲にしていたと思われる。また、根拠は薄いが、三次の三吉氏系図(三次町国郡志所載)に室町時代前期の人物として、泉五郎なる名前がみられ、戦国末期には三吉方について行動しているので、三吉氏からの分流の可能性も考えられる。 戦国時代を迎え、泉氏ははじめ尼子方に従ったが、後に毛利方の三吉氏と主従関係を結ぶようになり、天文二二年の泉合戦では黒岩城が毛利軍の本陣になった。 『芸藩通志』は現三次市三次町にある福谷山城について「福谷山城上里村にあり、泉三郎五郎久正が所居、泉は三吉家士なり」としている。これは、三吉広高がこれまでの比叡尾山城に代わって三次町に新しい城下町を建設して、天正一九年(一五九一)比熊山城へ移るが、このときの家臣団の城下町集中政策として泉氏は大月を離れ、旧領を失って右の新領を与えられたのかもしれない。 工ヶ原(たくみがはら)城跡 口和町金田 口和町の最南端に位置し、湯木川と西城川が合流する北側にあり、城跡の南側は急斜面で西城川に下がり、西側斜面も急峻で要害の地である。縄張りは小規模で主郭は一九×一〇メートルで、そこから南に三段、北に二段の郭を構築している。城主名等は伝えられていないが立地から西城川を見張る城であったと思われる。 貴船山(きふねやま)城跡 口和町永田 別名青掛山城ともいい、北麓からの比高七〇メートルで貴船山から北方に張り出した尾根上に構築されている。主郭は二〇×一五メートルで背後に物見台を兼ねたような土塁を設け、そこから北方に下がる尾根に四段の郭を築いている。東側に谷を隔てて南北に並走する尾根が主郭の下で結合する部分にも四段の腰郭と帯郭と一条の竪堀で防御している。この郭群から東方下斜面に三~四条の竪堀状の溝があるが、鉄穴流しの跡と思われる。『芸藩通志』は城主貴船亮永を記している。 迫(さこ)城跡 口和町湯木 当城跡は西麓からの比高約四〇メートルであるが、その全域は東西三五〇メートル、南北五〇メートルにわたって構築されており、面積は約一万七五〇〇平方メートル(五三〇〇坪)あり、町内最大の規模である。縄張りは全体で三つの区画に分けることができる。まず標高三三〇メートルの頂上部で九〇×三〇メートルのI郭を中心とした中枢部と堀切と土橋を隔てて六七×二五メートルの長方形のⅡ郭を中心とした中央部と特異な土塁状遺構を要する六一×二七メートルのⅢ郭の先端部である。 主郭であるI郭の北方のニメートル低い郭には北端にL字型の土塁を設け、その外側は堀切で断絶している。さらに西と南側にも郭を設けている。I郭とⅡ郭の落差は約七メートルで間には堀切と土橋が複雑に築かれており、虎口だったと考えられる。Ⅱ郭とⅢ郭の間は一五メートルあり、Ⅱ郭側から一段低く張出部を設けさらに堀切で断絶している。Ⅲ郭には北端に高さ三メートル、長さ二〇メートルの土塁を設けている。Ⅲ郭の東側五メートル下の幅一〇メートルのテラス状の平坦面に、高さ約ニメートルで五~八メートル四方の小山を、幅一~ニメートルの溝で切断して南北に九つ並べてあり、あたかも古墳が並んでいる様相である。このような遺構は御所陣山城跡にもあるが、他では見られない特異な構築である。南端先端部は堀切で断絶し西下に幅一〇メートル、長さ五七メートルの腰郭を構えている。 このような広大な城郭を一地侍の湯木氏が領国経営のために構築することは考えられない。Ⅲ郭の東下の特異な構築は御所陣山城跡と同様であることから、二つの遺構は尼子軍の陣地として築かれたと思われる。 調査日 七月三〇日(日) 工ヶ原城跡・貴船山城跡・迫城跡 参加者 ◎坂本敏夫・小林浩二・高端辰己 茶臼山城跡 口和町向泉 茶臼山城跡は、標高五六〇メートルの大仙山から南に延びる丘陵尾根に位置し、眼下に大月・向泉の水田地帯が広がっている。『芸藩通志』によると、城主は黒岩城の第二代泉久正で、黒岩城の出城であるという。 主郭は一七×四五メートルで北は次第に狭くなって堀切を設け、その北側に竪堀がある。また、西側には堀切からやや下がって小郭を設けている。なお、主郭の周囲には幅五~一〇メートルの腰郭を巡らせている。このように当城は、郭の配置が簡単で、小規模であることからも、黒岩城の出丸として見張り所程度の機能を果たしていたのであろう。 信安(のぶやす)城跡 口和町向泉 この城は、標高三八〇メートルの尾根先端にあって、小規模ながら複雑な縄張りである。I郭は一八×一四メートルで礎石とみられる石が点在し、北側に土塁を設けている。その背後は堀切で断絶し、さらに屈折した土塁状の削平地が複雑に見られるが、当時の遺構か、あるいは鉄穴流しの跡かの判断は困難である。約八メートル低いⅡ郭は一五×六メートルで、さらに五メートル下がってⅢ郭がある。そこは幅三~五メートルで西側に長く延びてI郭の西下で三段の郭とつながる。Ⅲ郭から一〇メートルの落差で最下段のⅣ郭は一〇×三〇メートルで最大の面積で西瑞はさらに西方に延びて帯郭になっている。小規模ではあるが多くの平坦面で構成されていることから居住した可能性が考えられる。 調査日 九月八日(金) 茶臼山城跡・信安城跡 参加者 ◎小林定市 あいが城跡 口和町大月 大合戦橋(おんがせばし)の下を流れる竹地谷川を少し下ると急に両側から山がせまり渓谷となる。その渓谷の西側で標高約三八五メートルの山頂に東西に五段の郭と背後の鞍部に竪堀と堀切・土塁の遺構が見られる。I郭は一〇×一五メートルで西側には土塁があり、南側斜面には二~三段に積んだ石垣も見られる。I郭から〇・五メートル低いⅡ郭は一二×一八メートルで西側にはI郭からの土塁が途中まで延びている。Ⅱ郭とⅢ郭の間は幅五メートル、深さ一メートルの堀で区画され西側でつながっている。一二×三二メートルのⅢ郭にはドラム缶半分の大きさの石で中央が東西に半分仕切られ東側の端にも同じような石で繋がるL字形の石組がつくられている。なにか特別の建造物か施設でもあったのであろう。Ⅳ郭は一メートル低く東側で腰郭となってⅢ郭の下に回っている。四メートルの落差で一三×一五メートルのⅤ郭は北側に井戸跡と思われる窪みが見られる。ここから急斜面となって北方に下がる尾根上には一条の堀切が設けられている。I郭から西方はいったん急斜面で下がり北・南からの谷が入り込んで小さな鞍部となる所に長さ一〇メートル前後、高さ一~ニメートルの三つの土塁と南斜面に三条の竪堀があり、北斜面は一条の竪土塁と竪堀で断絶している。規模的にはコンパクトな縄張りであるが、石垣・石組・井戸跡、また背後の厳重な守りから一時的ではあるが、戦国時代の騒乱期での居住性を考慮した構築が考えられる。 城主の名前も伝わらず、『芸藩通志』の村絵図に所在が記されているだけである。 調査日 十月九日(月) 参加者 ◎小林浩二・坂本敏夫・高端辰己 比婆郡比和町の城跡 比和町は比婆郡の中央西寄りに位置し、町域の北から東にかけて、吾妻山・烏帽子山・比婆山・立烏帽子山・毛無山など標高一〇〇〇メートル級の山々が連なる。備後北部産地は古くより鉄の産地として知られ、なかでも当町域はその中心地で、享保年間(一七一六~三六)の鉄穴の数は、八四で、恵蘇郡総数一三一の六四パーセントを占めた。 明治三二年の町村制施工により、恵蘇郡の比和・森脇・古頃(こごろ)・木屋原(こやばら)・三河内(みつかいち)の五村が合併し、その中心地比和の名をとって比和村となった。同三一年比婆郡が成立して、その所属となり、昭和八年町制を施行した。 錦山城跡 比和町森脇 城跡は比和川と久泉原(くせんばら)川の合流点東にある錦山(八三二メートル)から西に派生した丘陵先端にあり、墓地造成により一部破壊されているが、郭・堀切・通路がよく残っている。 主郭は五〇×二〇メートルで北東端が約ニメートル高く、さらに北東側には土塁と堀切を設けている。南東端は堀切と竪堀の底とつながっている。郭の西端に虎口があり他の郭に通じている。なお、丘陵続きの山頂部は未調査である。『森脇村谷口社家古文書』や『恵蘇郡国郡志下調書出帳』によると、正和五年(一三一六)頃、山内通資(みちすけ)が関東から新市村(現高野町)移住するが、それ以前は錦山城に拠る森脇豊前守元定・三十郎・市正の三代が、地毗(じび)庄北部を領有したが、正和年間(一三一二~一六)前後、錦山城は落城した。 その後は山内氏の家臣湯浅肥前広吉が錦山城に入ったという。 加土(かど)城跡 比和町木屋原 城跡は比高五〇メートルの丘陵頂部にあって、最高所のI郭には西と南に土塁がある。I郭の南側には深さ約一〇メートルの堀切を設け、その南側にも堀切や掘削の痕跡が見られる。I郭の北側に帯郭を設け、この北東下に三角形の郭を配す。北西下に突き出た小尾根にも郭を配し、I郭との間は堀切状になっている。 『吉川家文書』にみえる、享禄元年(一五二人)頃、出雲の尼子氏が攻撃した「小屋原之城」とはこの城のことであろうか。城主は福光氏と伝えられるが、詳細は不明。山内氏が長州に移ると福光氏は帰農し、子孫は木屋原村の庄屋を勤めた。 調査日 十月二四日(火) 錦山城跡・加土城跡 参加者 ◎矢野恭平・石森啓喜・岡田道章備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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