2010年09月01日

大可島城跡(福山市鞆町鞆)

福山の遺跡一〇〇選」より

藤波 平次郎

大可島城跡

大可島城跡

たいが島とて離れたる小島あり、遊女の世を逃れて庵をならべてすまいたるところなり、中略

乾元二(一三〇二)年後深草院二条による『とはずがたり』による大可島の初見である。潮の干満によって渡れたり、渡れなかったりする島に老いた遊女達の住家が並んでいたのであろう。今も、真言宗南林山円福寺に登る石段の手前に「爽明楼」と彫られた石柱が立ち、境内より西に下りた満越町には港町らしいなまめかしさの偲ばれる屋並などがある。

瀬戸内海の丁度真ん中に当たり、天平時代からすでに海外や四国、九州への道として重要な拠点であった鞆港は、動乱の時代になると制海権も含めて否応なしにその渦に巻き込まれた。

足利幕府は「鞆に起こりて側に滅ぶ」の言葉どおり、中世の鞆は足利尊氏が光厳上皇の院宣を受けて京に攻め上る足掛かりにしたし、幕府最後の将軍義昭は信長に追われ、鞆にてその終焉を迎えたと言われている。

大可島城跡は鞆港の東南にあり、港を守る最前線の機能をもっていた。足利直冬が中国探題としてこの港を押さえようとしたのもその証であり、幾度も争奪の的となった。中でも康永元(一三四二)年、中四国守護の幕府方と宮方の武将たちが激しく争った合戦は有名で、宮方として戦って全滅した桑原伊勢守重信一族のものと伝える五輪塔群が今も円福寺境内の一隅にさびしく建っている。

桑原氏は備後品治郡服部出身の武士であり、大可島城を伊予の南朝方と守っていたが、伊予勢は味方救援のために四国に帰り、残された少数の桑原一族は幕府方の杉原氏、宮氏、渡辺氏、馬屋原氏、江田氏らの猛攻を受け、一族全減して島の一隅にその名を残した。

やがて、室町幕府が確立されて明との交易など鞆が経済的文化的交流も盛んになるものの大可島城は要害としての役目は終らず応仁二(一四六八)年鞆の津代官、藤原光吉(村上光吉か?)の名が残っている。その後、天正年間(一五七三~一五九一)まで村上水軍が要害とするもやがて廃城となる。

近世水野氏時代には遠見番所としての機能は持っていたが、慶長年間、円福寺が建立された。境内に芭蕉の句碑が建っている。

疑うな うし保のはなも 浦の春

現在、大可島はこの句のように穏やかな潮や陽光を浴びて海と歴史の展望地になっている。

【大可島城跡】