2006年05月24日

本庄の歴史(備後の豪族「杉原氏」苗字の地)

⑩美しい山姿は「本庄富士」と称され親しまれている。

本庄は、杉原本庄ともいい、備後の豪族「杉原氏」の「苗字の地」となったところです。

平安時代後期、石清水八幡神社の「杉原別宮」が置かれ、同神社の庄園として「杉原保」が設定されました。範囲は現在の丸の内から本庄にかけての地域で、芦田川の河口に開けた物資の集散地として繁栄しました。地域の歴史は有史以前にさかのぼり、最近芦田川に架かる山手橋の改築工事に先立って行われた発掘で河川敷となった場所から弥生時代の集落跡が発見され話題になりました。

備後の中世武士団として有名な杉原氏は伊勢平氏の一門で、家祖伯耆守光平が鎌倉幕府に仕え、備後杉原保の地頭職を拝領して「杉原氏」を称しました。芦田川対岸の山手銀山城はこの杉原氏の本拠として築かれたものです。今回たずねる本庄の八幡神社はこの杉原氏が祀った神社で、江戸時代の記録には境内に杉原氏の先祖平貞盛を祭った祠があったと伝えています。同氏は室町時代には将軍の奉公衆として京都で活躍し、東山時代の歌人杉原宗伊を出しています。

戦国時代になると山手銀山城を本拠に福山の西部一帯を支配し、盛重の代になると神辺城主となり、一時備後南部を支配しました。杉原氏が滅んだ後は、毛利氏、福島氏の時代を経て水野勝成が福山城を築き、城下近郊の農村として発展しました。福山藩主は水野氏の後、松平氏、阿部氏と続き明治維新を迎えます。阿部氏は徳川氏の譜代であったため、明治元年1月、長州藩の攻撃を受けました。この時、長州勢は本庄の円照寺門前に大砲を据え、福山城を砲撃しました。焼ける前の天守閣にはこの時の砲弾の跡が残っていたということです。

なお、円照寺は戦国時代まで熊野町にあった真言宗のお寺です。16世紀の初め、熊野町(当時山田と呼ばれていました)に渡辺氏が入って一乗山城を築いたとき、渡辺氏が熱烈な日蓮宗の信者であったため、追い出され、この地に移って来ました。