草戸稲荷

草戸稲荷の卯の祭、徳川三代将軍家光の霊をなぐさめるために始まったのをご存知だろうか?その陰には、由井小雪の「慶安の変」がある。

江戸幕府成立から家光の間に改易された大名は131家にのぼるが、特に大名が取漬されると大量の浪人が発生し、生活に窮した浪人達の不満は高まる一方であった。

慶安4年(1651)、家綱が将軍の座に就くと、この機会に乗じて由井正雪を中心とした浪人達が徳川幕府を転覆を謀った。これが「慶安の変」である。

慶安の変は事前に発覚し未遂に終わるが、この翌年に新たな幕府転覆が計画された。この計画は、芝増上寺で行なわれている徳川秀忠正室崇源院(お江)の27回忌の法要に乗じて江戸に火を放ち、寺に乱入して老中を暗殺するというものであった。

この計画も事前に発覚し首謀者が取調べを受けるが、この中にいたのが福山藩2代藩主水野勝俊家中の石橋源右衛門だったのである。

石橋源右衛門は傑刑となり、弟又次郎と、子の兵部左衛門(5才)も斬罪となった。

しかし、藩主勝俊の苦悩はここから始まった。幕府転覆に加担した家臣を出した大名は譜代といえどいつ取漬されてもおかしくなかったのである。

そこで、勝俊は幕府に恭順の意を表わすため、徳川家光に丁重に祀ることを決めるが、藩財政は福山城下や干拓で出費が嵩み、極度に悪化していた。

こうした状況で苦心の末に決まったのが明王院と常福寺を合併させることであった。

草戸稲荷の卯の祭りは、明王院で卯の月に徳川家光のために盛大な供養を行った事に始まり、明王院の別当社である稲荷神社の「卯の大祭」として祭りが継承されることになった。

現在も、旧暦五月の「卯の祭」には、参道に露店が立ち並び多くの参詣者が訪れる。