備陽史探訪:86号」より

柿本 光明

鬼ノ城

むかしむかし、あるところに、爺(じじ)と婆(ばば)がおりましたとさ。ある日のこと爺は山へ柴刈りに、婆は川へ洗濯に行きました。――やがて川上からひと抱えもある滅法大きな桃が、ドンブリコッコ、スッコスッコと流れて来ました

明治二十八年(一八九五)に、巌谷小波(いわたにさざなみ)が編集した『日本昔噺(むかしばなし)』に登場して一躍脚光を浴びた「桃太郎」の出だしである。

婆さんは大きな桃を拾って家へ帰ると、爺さんの帰りを待ち、それを包丁で割ろうとしたとき、その中から可愛い赤ん坊が飛び出てきたのだ。

そして「私は決して怪しいものではありません。実は天津神様から、御命(おおせ)を賜って来たのです。そなた衆二人がこの年頃、子供がないと嘆いているのを、神様も不憫(ふびん)に思(おぼ)し召(め)し、すなわち私を授けるほどに、わが子にして育てよとのことです」と朗(ほが)らかに述べた。やがて彼は姿も美しく勇気を持った若者に成長した。

時季になると、岡山駅などで特産品として「桃」を売っている。岡山県には弥生時代(異論も多いが、通説では紀元前三百年~紀元後三百年)の遺跡が多くある。そんな中、前山遺跡や門田遺跡からは炭化した桃の核の半分が出土しており、かなり古くから桃が存在していたことが判っている。発掘された桃の核は博物館に展示されているので、いつでも見ることができる。当時のものは野性のためか、今のものと比べると大分小さい。

日本の古代史をまとめた『古事記』や『日本書紀』に、愛妻のイザナミの死を悼(いた)んで黄泉国を訪れた夫のイザナギは、やがて妖魔に追われることになるのだが、その時彼は桃の実を投げて逃れたと書いてある。桃に魔除けの力があったことをこんな形で伝承しているのだ。興味を引くのは、それほど古くから日本には桃が存在していたということである。桃は鬼や邪気を払うものとして中国でも珍重され、イザナギが妖魔を追い払うために投げつけたのは、そのためであったのかも知れない。

桃太郎が十五歳になったある日、「この丑寅(北東)の方の遥か海の向こうに鬼の住む島があり、鬼心よこしまにしてわが天津神の御教えに従わず、この葦原の国に仇(あだ)をなし、たみくさを取り喰らい、宝物を奪い取る世にも憎らしき鬼どもを只今より出陣いたし、彼奴を一挫(ひとひじき)に取り押さえ、貯えている宝の数々、残らず取り返して帰る所存であります。何卒この儀お聞き届け下さい」と爺と婆に申し出た。

爺も婆も一時は肝を潰してしまったが、それでも間もなく「皇国の安寧を計るがよい」といい、二人は貯えておいた黍(きび)で団子を作って与えた。いよいよ桃太郎は旅に出た。

すると犬が現われ、猿が現われ、雉(きじ)が現われ来てお供をしたいというのだ。桃太郎は黍団子を与え「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」と教えられて仲良く海を渡り、鬼征伐に向かったのである。

やがて前方に基で削り取ったような険しい岩があり、その上には鉄の門を巡らせた島があるのを発見した。これがまさに人々に恐れられた鬼ヶ島であった。

これを見た雉が飛び立っていった。「やあやあ、この島にいる鬼どもよく聞け。今ここに天津神の御使い、桃太郎将軍が征伐のために出向賜う。命が惜しくばすみやかに角を折り、宝物を捧げて降参せよ。もし歯向かうならば、かくいう雉をはじめ、犬、猿の猛将が日頃鍛えた牙にかけて片っ端から汝らを噛み殺してくれるぞ」と大声で叫んだ。

するとこの島の悪鬼どもはこれを聞いて大いに笑い、「こしゃくな野雉め、征伐呼ばわり片腹痛い、この鉄棒の味をみよ」と虎の革のふんどしを閉め、飛びかかって打ち降ろす。

ついに決戦が始まったのだ。桃太郎と家来たちは勇敢に戦いに挑んでいた。鉄棒を振りかざして抵抗してくる鬼たちへ犬・猿・雉はそれぞれの特技を活かして攻めたてた。

先方は寝耳に水、こちらはかねてより計画通り。寄手に七分の強みあれば、敵に十分の弱みがある。さしもの鬼どもも防ぎかね、みるみるうちに追いまくられて、海に溺(おぼ)れて死ぬものもあれば、岩に落ちて砕(くだ)け死ぬものもあり、とうとう鬼の頭領は宝物とともに自分の角を折って差し出し降参してしまったのである。

桃太郎はこれを見て「命ばかりはお助けとは、面に似合わぬ弱い奴だ。その方は永い間、多くの人間をあやめる罪あれば、所詮生かしておくわけにはいかぬ。是より連れて帰り、法の通り首をはね、瓦となして屋根の上にさらすから、のがれぬところと覚悟いたせ」と、縄をかけて猿にこれを引かせ、また犬と雉には鬼がぶん取っていた宝物、打出小槌、如意の宝珠、珊瑚(さんご)、たいまい、真珠のたぐいを大きな箱に入れて担がせ、再び船に乗って、めでたく凱旋したとさ。めでたしめでたし。

誰もが知っている『昔噺桃太郎』はそれで終わるのだ。

しかし桃太郎はなぜ黍団子を持って旅に出たのであろうか――。

「吉備」という名は、岡山県の古代の名称である。『古事記』の「国生み神話」によれば、阿波国(あわのくに)(粟=徳島県)や小豆島(香川県)という五穀の名がつけられた国や島が誕生したころに生まれたのが「吉備児島」である。後の備前・備中・美作それに広島県東部の備後を合わせた地域では黍を多く産していたのだろう。そんなところから国の名も吉備とつけられたと思われる。

黍には「気に活力を与え、五臓の働きを助け、熱性疾患(しっかん)によい」とも「気血の働きを旺盛(おうせい)にして、身体中に精気をゆきわたらせる」ともいわれて、なかなか薬効がある食べ物である。おそらく黍団子は、吉備国を中心としたところで、古代から食べられていたに違いないと思う。

岡山県の地図を広げてみると、今の平野部は古代にはほとんどが海で、山と呼ばれているところが島であったと考えられる。そうしてみると、神南備(かんなび)山(神の山)として名高い吉備中山も昔は島であったと考えられる。その麓には仁徳天皇が創建したと伝えられる吉備国の総鎮守、吉備津神社がある。いうまでもなく、この神社の祭神は吉備津彦命である。

当時、吉備津彦命はその麓の茅葺宮(かやびきのみや)に住んで吉備国の統治にあたっていたのであろう。今の岡山市足守(あしもり)大井地区に、妃に迎えた百田弓矢比売命(ももたゆみやひめのみこと)の名に因んだと思われる「百田」「弓矢」等の地名が残っている。

この『古事記』や『日本書紀』に載っている者に、岡山県と縁の深そうな『昔噺桃太郎』を重ね合わせてみたくなるのが本音であろう。

桃太郎は吉備津彦として見れば、その従者であった「犬」は犬飼健命(いぬかいのたけるのみこと)、「雉」は留玉臣命(とめたまおみのみこと)で、ともに随身として吉備津彦神社に祀られているのである。ただ二人は神ではないので「随神」ではなく、「随身」といっている。

もう一人の「猿」を表わす楽々森彦命(ささもりひこのみこと)は、今の岡山市足守地区に住んでおり、そもそも葦守山(足守山)で国郡を守っていた。その娘が後に吉備津彦命の妃となった高田姫で、ともに鼓神社(足守高田)に祀られている。こうしてみると『昔噺桃太郎』の人物像とビッタリと合うのだ。

では『昔噺桃太郎』に出てくる鬼についてはどうかと考えたくなる。これについては人々に恐れられていた温羅という者がいたのだ。温羅(うら)は備中国新山(総社市黒瀬)に朝鮮式山城の「鬼ノ城」(総社市奥板)を構えて、その近くの岩屋山に楯(たて)(砦(とりで))を築いた。そして麓の阿曽郷(あそごう)(総社市阿曽)の阿曽娘を妻に迎え、近くの岩屋(総社市岩屋)に鬼の岩屋という住居を持っていたのである。

さていよいよ戦闘開始となった。吉備津彦命と温羅は矢を放ち合う矢合戦が始まる。彼らが放った矢が落ちたという矢谷があり、箭坂(やさか)(岡山市八坂)、矢掛(小田郡矢掛町)などというところもある。また、足守川のほとりには吉備津彦命と温羅の放った矢が絡(から)み合って落ちたという矢喰宮(岡山市高松田中)がある。

やがて温羅はその目を射貫かれて血を流して血吸川を生んだ。川下に鮮血に染まった「赤浜」というところがあるのはそのためである。さらに血吸川へ逃げ込んだ温羅と吉備津彦命との間では霊力合戦が行なわれ、鯉に変身した温羅を鵜に姿を変えた吉備津彦命が捕えて喰ったという鯉喰神社(倉激市矢部)があり、刎(は)ねられた首を晒(さら)されたという首村(岡山市首部)もある。

吉備津彦命の活躍と軌跡を『昔噺桃太郎』と重ね合わせてみると、そこにさまざまな点で奇妙な一致が見られる。そんな不可思議なことを追っているうちに、いつしか私の心は時の壁を超え、伝説の壁を超えて彼らが生きていた古代へと飛翔し始めていた。吉備津彦命はすでに熾烈(しれつ)な古代の歴史の中で生き始めていたのである。つまり「桃太郎伝説」がそれである。

物語の中心におかれた吉備津彦命が「桃太郎」となった理由は、吉備国においてよく食されていた「桃」が「百」と解釈され、多くの男の中の男ということになったのだ。

吉備国から見て鬼門(丑寅)の方向には、出雲国が存在しており、これを押さえるために陰陽道(おんみょうどう)による反対側の方向の力を使わなくてはならない。成・酉・申の力を使わなくてはならないということだ。つまり、大飼健(犬)が吉備津彦命に従うことがまず決まり、次いで留玉臣(雉)、楽楽森彦(猿)という従者が決まった。そして鬼門に存在する出雲国を温羅という鬼に象徴させたのだ。出雲から鉄を得た史実を「金銀財宝」を得たことに、また「国魂」を得たのを「宝珠」を得たことに置き換えた。すなわち「桃太郎伝説」は、星の運行から判断された生活規範を決めた、隠された陰陽道物語なのである。