1997年04月19日

「お杉の方」とはどんな女性だろう(毛利弘元側室)

備陽史探訪:76号」より

出内 博都

大河ドラマ異聞

毎年NHKの大河ドラマは、歴史愛好家にとっては何が選ばれるかが、最も関心のあるところである。今年の『毛利元就』は、ご当所番組としてすごいブームの中で快調に展開している。

一年五十回におよぶ長丁場である。史実をこえて多分にドラマを加えなくては話がもたない。また、史実のみで歴史は語れない。ほんの一部しか残っていない史実から、その時代の姿(真実)をどのように理解するかが歴史である。そのために作者自身の歴史感によってドラマ(虚構)を入れる。こうして一つの小説や劇ができるのだと思う。『忠臣蔵』や『太閤秀吉』が何回出ても面白いのは、どんなドラマが仕組まれているかという興味があるからだろう。

それにしても、昨年の『秀吉』には少々参った。後半がいきさかオーバーだったように思う。「正室おね」が病気で不妊症になる筋道は、彼女の生涯の生き方からみてうなずける。しかし「石川五右衛門」にはこだわりすぎたきらいがあったように思う。

さて、絶好調の『毛利元就』だが、ただ一つ気になったのが父弘元の側室「お杉の方」である。彼女については「大方どの」という通称と、高橋姓であったという以外何も分からない。

松寿丸(元就)は五歳で母を失っている(文亀元年=一五〇一)。おそらくその頃から日常の養育はこの大方殿が当ったものと思える。それから五年、十歳のとき父弘元(三十九歳)の死にあい、何も分からないまま孤児になった(後年の元就の手紙)。それから後の十年間(永正十三年=一五一六、兄興元没。幸松丸の後見になる)二人の間はいったいどうだったのだろうか。

大方殿(お杉の方)にしてみれば、反抗期の継子をかかえ、井上、桂、渡辺などの必ずしも一枚岩でない家臣をかかえ、さらに、もう一人の側室相合の方(この時一男四女の母)との女の戦いがあった。こうした情勢の中で、元就元服までの数年間をどう描くか…。ここらが史実にない歴史描写として、作家の腕の見せ所だろう。

作家永井路子氏はNHK人間大学(火曜十時四十分。『戦国武将の素顔』)の中で、孤児としての松寿丸の心境を

お母さまが病床についてしまったころ、松寿丸はお父さまの身辺にまつわりつく一人の女性がいることに気づきます。子供というものは、案外敏感なもので、なんだ召使のくせに……お母さまの敵だ、くらいに思ったかもしれません。そしてお母さまが亡くなると、この女が母親面しはじめる。ますます彼はその女に反発……

と表現されている。松寿丸の反抗の姿の中に織田信長の少年時代の姿がダブッてみえるところに、新しい時代をつくる戦国武将の一面を偲ばすものがうかがえる。

若い身空で独り身となった女性心理、頼るべき新しい主を、という弱気も頭をもたげるが、誇り高き彼女の現実はそれをゆるさなかった。弘元との間に実子をもつ相合の方との戦いであった。永井氏はまた

正妻が亡くなるとこの側室はぐっとウエイトを増します。この女性に対抗して、猿掛城の御方様でいるためには、どうしても松寿丸の母親であることを強調しなければなりません。まして弘元が死んでしまうと、子どものない側室の立場はいよいよおぼつかなくなりますから、大方どのにとって、松寿丸は猿掛城を守る『旗』のような存在となります。松寿九としても、孤立無援となった以上、大方どのを頼りにしなければなりません。いわば愛憎と利害のまじった二人三脚がここにはじまった、と思われます

と述べている。

大方殿についての記述は「毛利家文書」のなかに二ヶ所ある。その一つは弘治四年八月(一五六一)長男隆元にあてた家政の諸注意書(家政の執権制確立、家中に対し強硬たれ、賞罰の確立、厳命と忍耐)で、そのなかに次のようにある。

我等ハ五歳にて母ニはなれ候。十歳にて父にはなれ候。十一歳之時興元京都へ被上候。誠無了簡ミなし子ニ罷成。大かた殿あまり不便ニ(之)然を御らんすてられかたく候て、我等そたてられ候ためハかリニ若御身にて候すれ共、御逗留候て、御そたて候。それ故ニ、終ニ両夫ニまみえられす、貞女を被遂候。然間、大かた殿ニ取つき申候て、京都之留守三ケ年を送候。殊多治比を我々に弘元御ゆつり候へ共、井上中務丞渡候ハて、押領候、然共、興元も十六七之御事候と申、第一在京都之儀候条、國本之儀えおほせつけられす候つる虎、中務丞不思議ニ死去仕候間、其後井上肥後守、伯者守調法仕候て多治比へよひ上、さ候て、興元之御事、元就十五之時御下候」

以下、現代語訳する。

私は五歳で母を失い、十歳で父を失った。十一歳のとき興元が上洛して、何もわからないまま孤児になった。大かた殿(弘元の側室)がこの様をみて、あまりに不憫に思われ、捨て置きがたくて私を育てるために、まだ年若い身でありながら、留まって育てて下さったり、そのために、若い身そらで再婚もせず、貞女を通された。その間、大かた殿をたよりに兄の上洛の留守三年間を送った。殊に父弘元が多治比を私に譲ったが、それを井上元盛が渡さないで押領した。兄も年が若く、その上京都に在陣のこととて、国元のことまで仰せつけられ兼ねておられたところ、不思議に元盛が死去したので、その後井上肥後守俊久、同伯者守俊秀の取り計らいで多治比へ呼びあげられた。兄は元就十五の年に京より帰られた

これは元就六十二歳のときの文書である。防長二国を一応平定し、戦国大名として一段の飛躍を期して有名な三子への教訓状以下、様々な教訓・注意・指示など一連の文書のなかにある追憶の一文である。四十年にわたる戦いにひと区切りをつけて、東の間の平穏の中で心の底からしみじみと湧き出る温かい追憶だったのだろう。テレビの脚本とは少しズレた感慨を受けるのは、追憶文のせいだけだろうか。ドラマのあのストーリーでは、お杉の方が少々気の毒に思える。

大方殿の記録の他の一つは、弘治三年(一五五七)の教訓状の中の第十二条に次の文がある。

我等十一之年土居ニ候つるニ、井上古河内守(光兼)所へ客僧一人来候て、念仏之大事を受候とて催候。然間、大方殿御出候而御保候、我等も同前二十一歳ニて伝授候而。是も当年之今ニ至候て、毎朝多分呪候。此儀者、朝日をおがミ申候て、念仏十篇つつとなへ候者、後生之儀者不及申、今生之祈祷此事たるへきよし受候つる

以下、現代語訳する。

私は十一歳の時(猿掛城麓の)土居に起居していたが、その時井上古河内守光兼(元兼も河内守を名乗るので「古」をつけた)の処に旅僧が一人来て、念仏の大事を説く講を催した。大方殿と一緒にこれに臨み、その伝授を受けて以来今に至るまで、毎朝大抵祈念している。それは朝日を拝んで念仏を十篇唱えることである。こうすれば後世のことは勿論、今生の幸福をも祈祷することになる由である

これは三子に謙虚な信仰を説いた項目であるが、元就の謙虚な信心の心は、大方殿の導きが多分に影響しているのではないだろうか。ここらあたりにも、ドラマに出てくる反抗期の継子と父の側室との葛藤への違和感や、写経を世間体をつくろう隠れ蓑にするこざかしい女とは思えない感慨がわいてくる。

歴史研究家の増田美貴氏は、天文十四年(一五四五)正妻妙玖と同年に没した法名「順徳妙高大姉」という女性がこの大方殿ではないか、といわれている。元就四十九歳の年である。

移りゆく元就の運命、猿掛城の少年城主―宗家幼主の後見―宗家相続―有田城攻防の初陣等々、一人の母として陰ながら祈った四十年、お杉の方として以て冥すべきであろう。

こうした二人の母の経験は、夫となり父となった元就に、妻や母としての女性の存在の大事さを、痛切に感じさせることになったであろう。

骨と皮だけの史実に、虚構という肉をつけて一つの歴史ドラマができあがるのである。画面を流れゆく画像の中に、自分だけのドラマを構成するのも、一つの楽しみではないだろうか。