1997年04月19日

戦国大名の台所―覇者毛利元就の苦悩―

備陽史探訪:76号」より

田口 義之

石見銀山争奪の攻防戦が繰り広げられた山吹城

石見銀山争奪の攻防戦が繰り広げられた山吹城

戦国たけなわの弘治三年(一五五七)、安芸の毛利元就は深刻な事態に直面していた。吉田郡山城三千貫の小身代から身を起こし、厳島で陶晴賢を破り、大内氏を倒し、安芸・備後・周防・長門四ヵ国の大名の座を確保した元就は、この年第一線からの引退を決意したのだが、その「隠居分」をめぐって嫡子の隆元が異議を唱えたのである。

元就は安芸武田氏の旧城佐東銀山(かなやま)城を隠居城とし、それまでの所領、多治比三百貫・中村百貫などに加え、武田氏旧領佐東四千貫の内の半分、二千貫を隠居分として要求した。しかし、隆元はそれが多すぎるというのである。四ヵ国の太守という栄光の座に着きながら、これはいったいどうしたことか………。

実は、戦国大名といっても、その「台所」はお寒い限りだったのである。小説などで読む戦国の武将は、強く逞しく豪奢(ごうしゃ)なものだが、内実はそんなものではない。例えば毛利氏である。元就は四ヵ国を領したといっても、その「隠居分【直轄領】」は二千五百貫【年貢が約二千五百石取れる土地】に過ぎなかった。彼の場合それでも多すぎるといわれた。

これは、当時の戦国大名の性格による。戦国の大名は、後の江戸時代の大名のように、領国を一律に支配していたわけではない。彼らは、戦国を生き抜くためには、ライバル【国人】を蹴落とすだけではなく、取り込むことが必要であった。また、家臣達もそれぞれの領地に帰れば、一個の独立した領主であった。国人といい、家臣といい、彼らの領内には毛利氏の支配は及ばない。それにも増して国人・家臣を毛利氏の合戦に駆り立てるには「恩賞」という餌が必要であった【実は、初めに述べた隆元の「元就隠居分削減要求」はこれらの国人・家臣の突き上げによるものだった】。

つまり、戦国大名の領国といっても、かつての同盟者【国人】や家臣の領地の集合体に過ぎず、元就のように自分の直轄領は僅かにしか過ぎない、という事態が生まれてくるのである。そのため彼らは手っ取り早い現金収入の道として、鉱山の開発や「市・港湾」の支配に躍起になった。鉱山はそのものズバリ「現金」が大名の懐に入るし、「市・港湾」からは流通の発達によって莫大な税収が得られた。

甲斐の武田信玄はたくさんの金山を開発したといわれ、毛利氏も瀬戸内海沿岸への進出を熱望し【そこには内海交易や大陸との交易で栄えた港町があった】、石見銀山の領有をめぐって尼子氏と熾烈な争いを繰り広げたが、言い換えれば、彼らにとって戦国を勝ち抜くための「軍資金」は、そうした方法でしか確保できなかったのである。

これを別の方法で得ようとすればどうなるか。年貢を増やせば農民の反抗を受けるであろうし、恩賞をケチれば国人や家臣は思うように戦ってくれない。戦国大名はその華やかな外面と比べて、その懐は実に苦しいものだったのである。

この点、織田信長は違っていた。敵対者は容赦なく攻め滅ぼし、家臣たちも甘やかさなかった。そして、その家臣たちも毛利と違って土と離れた専業武士であった。その給与は直轄領の収入から充てられ【特に足軽などの下級家臣は】、毛利のように恩賞を与えなければ働かない、といった地侍ではない。

この後この両者は「天下」を賭けて争うが、毛利が押され、結局信長のやり方を継承した豊臣秀吉の前に屈することになるのは、当然といえば当然なのである。