1995年10月14日

中世の代表的大荘園 大田荘の実力者・淵信の思考

備陽史探訪:67号」より

柿本 光明

歌の心を求めて、蜜の蜂が花房に慕い寄る。幻のように、春の盛りを物語る桜の姿は消えてゆく。まだ初夏の時にはわずかばかり間のある頃今高野山の塔の岡の展望台にたたずむと、かつて平安時代から室町時代まで大田庄とよばれた大きな荘園が眼下にひろがる。

平清盛の全盛時代、名目上は後白河上皇の荘園、実質的には平家領としてつくられ、平家滅亡後は高野山の荘園となり、やがて源頼朝の重臣三善康信(みよしやすのぶ)が地頭に任命された。

大田荘の東半分は桑原郷(桑原方(がた))西半分は大田郷(大田方(がた))とよばれ、その境はほぼ現在の甲山町と世羅町の境に一致する。

花の時は緑の時にかわって、それでもどこかに、まだ美しい幻の花が咲いているのではないかと、そんな風に思われる。

広い水田のひろがる盆地と、周囲の山々、その間に枝分かれてゆく小さな谷々という大田荘の景観を、まずしっかりと心の中におさめておきたい。かつて今高野山に大田荘支配のための荘政所(まんどころ)が置かれたのも、まことに当然だと思う。

大田荘と港町・尾道の関係が深いのも、平安末期、大田荘の年貢米積み出しのため倉庫の敷地(いわゆる倉敷)として尾道村の五町の田畠が荘園のものと認められたからである。鎌倉初期以来、大田荘とともに尾道村も高野山領となり、鎌倉末には浄土寺をはじめ、いくつもの寺院と一千軒以上の民家を有する港町として繁栄した。大田荘と尾道の港は密接不可分な関係であった。

高野橋のあたりに喚声が上がる。物見の群衆の姿が揺れると行列のためにあけられる路に、一時人が走り出る。淵信は日頃、大田荘と尾道港との往復には輿(こし)五、六挺(ちょう)を用い、女騎(馬に乗った女性)数十騎と家子(いえのこ)郎党百余騎を従え、さらに前後には護衛二、三百人を連れて、一国の守護とて及びもつかぬ勢い。淵信を乗せた行列が今日も尾道の港町に向って行く。このことは、鎌倉後期蒙古襲来、弘安の役一二八一(弘安四)年前から十数年間にわたって大田荘の預所(荘官)として活躍した淵信の行状である。

鎌倉初期以来、荘を管理する預所には高野山の寺僧が任命されるのが原則であった。淵信も阿闍梨(あじゃり)、和泉法眼(ほうげん)と称する僧侶である。

砂埃が舞い、人の喚声がそのまま風となって、どこからか葵の若葉を運んでくる。

進む人の列、見送る人の波。飾り立てた輿が進み、馬がいななく。

左衛門尉範方(さえもんのじょうのりかた)とは淵信の子どもというから、淵信自身もさる豪族武士の一族の出身で、ふだんは地方武士団の首領格として行動していた人物にちがいない。

また反対派(大田方)の訴えによれば、淵信は高利貸や商業活動にも手を出し、数百貫文の資金をもって大田荘の東隣りの河尻社をはじめ伊予国新居荘(新居浜市)。長門国位佐荘(美祢市)や出雲国の荘園など四か荘の支配を請け負い、尾道港の船主や梶取(かじとり)あるいは大田荘内の夏姓らをこれらの荘園支配者の使者に取り立てたという。これら反対派(大田方)の言分に対し淵信はそれぞれ事実無根と弁明しているが、そうでないようでもある。

しかし、淵信は、大田荘地頭三善氏との争いごとに際し、桑原方預所としてあらわれ、自ら鎌倉に参上して地頭の非法を訴え、従横の活躍の結果一二八四(弘安七)年に全五十三か条の長大な判決により高野山の勝訴を勝ち取った。幕府の法律専門家である三善氏の一族を相手取って幕府裁判所で勝訴することは大変な力量の持ち主といえよう。

前に述べた内容は、反対派(大田方)の訴えとしてのもので、後に淵信が桑原方だけでなく、大田方の預所を兼任した時も、大田方の荘官百姓たちが、これを排撃するために記したもので、彼らは淵信が大田荘の年貢四百余石を横領、着服したものとも主張している。

どこまで事実だったかは不明だが淵信が「財宝は倉に満ち、栄華身に余る」といわれる富一象であったことは確かであろう。かれはまさに備後国内だけでなく、ひろく諸国にも手をのばした豪族武士の一員で、高利貸や商業活動にも秀でたやり手であり鎌倉後期の高野山はこうした人物を登用しなければ、とても大田荘支配を続けることが出来ない状況に追いこまれていたようである。

暑い朝である。日は高く上り、雲は一片もなく緑の葉陰を貫く日の光に追い立てられるように、蝉があちこちで鳴き始めた。

尾道を代表する古刹浄土寺に伝わる古文書によると、大和の西大寺で律宗の興隆につとめた定証は布教のため尾道に来港するや、尾道の有力者たちがこれに帰依し、信者の積極的協力により一三〇六(徳治元)年荒廃していた浄土寺を西大寺流律宗の寺院として再興し、盛大な開堂供養を行なった。

その事情を起請文として残している。この起請文の最後に三十一名の僧侶ら同志の名前が列記されている。この「結縁衆(けちえんしゅう)」の最初に淵信、次に淵信の子、範方・頼能の名もある。

『浄土寺文書』によると、この開堂供養の時、淵信はかつて幕府裁判所での勝訴の恩賞として、高野山から与えられていた浄土寺と曼茶羅堂(今は浄土寺の東に隣接する海竜寺)の別当職、さらに付属する山地と浜在家などを定証に寄進している。まさに淵信は戒律をかたく守り、貧民救済の社会事業につくすとともに、流通や交易のかかわりが深く、この時期、全国的に発展をとげた律宗の後援者でもあったのである。これは淵信の今一つの顔であるといってもよかろう。いや、交通や流通との関係の深さからいえば、実際の顔といってもいいのではなかろうか。

ところで淵信の出身地はどこであろうか。久代(くしろ)了信・定淵の二人については法名しかわからないが、この二人より時期的に少し前に活躍した淵信の法名と一字ずつ共通しておりこの三人はなにか深い関係がありそうだ。一説には淵信は備後の豪族久代氏(宮氏の同族)の出身であろうと推測されている。

今高野山の塔の岡は、久代了信がここに多宝塔を建立した跡と伝えられている。幸いにも尾道の浄土寺にも多宝塔が建立されており、了信が仏前にその趣旨を述べた願文がある。その末尾で了信は、この多宝塔建立によって「国治まり民は平和に、仏法興隆すれば淵信頼能らの魂もさぞかし喜ぶであろう」と記している。これによって淵信と了信の深いつながりは明らかであり一般的にいえば同一家族で親子ではないかと推測される。

前に述べた『浄土寺文書』の定証の起請文の末尾に記された「結縁衆」の最初の二人は淵信・範方・頼能である。頼能については今のところ不明だが、おそらく同じ一族関係者であろう。了信の多宝塔願文に淵信・頼能と並べ、二番目に範方の名のないのは何故であろう。範方が淵信の子であることは明らかである。とするとあるいは了信は範方の法名ではなかろうか。すでに淵信の預所在任中範方は「小預所」と称して預所の任務の一部を代行して淵信の後を継ぐにも好適であったろう。久代了信=範方とすれば謎はとけるのである。

今高野山や浄土寺に残っている古文書に淵信や了信らの自筆花押がある。一族や親族の花押は類似することが多いので、花押の比較も一つの方法である。二人の花押を比べてみると、何となく似た点があるように思える。淵信と了信が親子であるという一つの根拠と考えられるが、どうだろうか。

淵信の花押(左)と了信の花押

淵信の花押(左)と了信の花押

いずれも浄土寺に残っている文書に記された花押

淵信を備後一宮吉備津宮の神主宮氏の一族としてみると理解しやすくなることがさらにいくつかある。

淵信が反対派(大田方)によって四か荘の請け負いをしていると告発された中の一つに、大田荘に隣接している河尻社がある。これについて淵信は請け負ってはいないが、わけあって息子の範方が一つの名の支配をしているとの弁明をしている。河尻社の一部を支配していることは認めたわけだが、実は、河尻社には中世に一宮吉備津官の分社が祀られていた。また久代氏の本拠地、奴可郡久代には久代一官として一宮吉備津宮の古い分社があった。そして尾道の浄土寺が西大寺末寺として再興された供養に際しては吉備津宮の楽人たちが参加して結縁のために舞楽を泰しているだけでなく、一宮の別当寺が中世には浄土寺だったとされている。これらはいずれも、吉備津宮と淵信との間の何らかのつながりを物語るもので、淵信が備後最大の吉備津宮の神宮宮氏の一族であったとすれば一連の話の筋がよくわかる。

さて、今高野山の塔の岡には久代了信の建立した多宝塔は跡形もない。しかし、一局さ二・三メートルに及ぶ見事な五輪塔が立っている。

遠き昔に、この地に立って北を望めば遠く山々に囲まれた壮大な大田の荘園がひろがり、また浄土寺奥の院から尾道水道を望むと右側に尾道の町並みが、そして水道をはさんで向島・因島と一条の尾道水道は良き港である。当時淵信はこの光景を眺めながら何を思考したであろうか。