1995年06月17日

備後灘にみる万葉の旅びと

備陽史探訪:65号」より

柿本 光明

海より見る沼隈半島

瀬戸内海は、優しいおふくろだ。あったかくて大きな懐に抱かれるように、大小三千の島々は海に浮かび長い触手を延ばして人江を囲っている。真冬でも積雪を知らず豊饒の海を形成するのだ。

豊饒の海は文化を生み産業を発達させた。古くは遣新羅使人など大陸文化と交流する拠点ともなり、海上交通の要衝であり、瀬戸内の沿岸には往時を偲ぶ「津」「浦」が数多く存在する。

備後灘を往還する船上より眺める大門湾は、いまの福山の東を限る地域で、備後国に入る門戸として、港津が深く入込んでおり、深津高地と大門湾に突き出た引野山塊の東側に古代から海岸沿いに集落があったのが今の津之下(大門町)と考えられる。蔵工山塊より南に突出する深津高地と引野山塊の間は奈良時代ごろは深く人込んだ湾となり、良き津であったとつたえられている。

深津湾岸にある浦上は(春日町)と能島(春日町)はともに栄えた地で、浦上の地名は古代港湾としての「浦」の上方に集落が存在したことから浦上と称したものと解される。

深津市(蔵王町)は古くは海が深く湾入し、現在の蔵王八幡社の麓辺りは良港で、ここから備後国衙(跡地は現府中市)にゆく道が山陽道につながり、いわゆる国府津となっていたのであろう。

路後(みちのしり) 深津島山(ふかつしまやま) 暫(しましくも)
  君目不見(きみがめみれば) 若有(くるしかりけり)

万葉集巻十一・二四二三

この歌も、このあたりで歌われたロマンスと解されて、大和との交通があったことを物語っている。

蔵王山の南麓に位置する深津は、その名の示すように、深く入込んだ「津」を意味し、蔵王山塊の山麓に良港を形成していたと考えられる。

しかし、この深津島山とは、蔵王山より突き出た蛇山(深津高地)をいうのではなく、深津市(蔵王町)にそびゆる蔵王山を中心とする前後左右の山々を総称していったもので、蛇山もその一部であったであろう。海水が今の市村(蔵王町)平野に満ちていた頃は、蛇山のごときは、やっとその脊稜を出していたにすぎず、その他の理由もくわえてかく断ずることは、誤りではないと思う。

万葉集の中のこの歌は、柿本人麻呂私歌集に入っている歌である。「しばらくの間も、あなたのお姿を見なければ、私は心苦しい」という意味の恋歌で、路後(みちのしり)は備後のことである。「みちのしり深津島山」の二句はシマの繰り返しの音調によって「しましく」を導く序詞であって深津にすんでいる人とか、深津の情景を詠じたものではない。しかし、瀬戸内海の美しい島山に囲まれた港町として、「みちのしり深津島山あり」と奈良の都の人たちにも知れ渡っていたものと思われる。

備後灘の海上を船上より深津島山を眺めた作者が、自分に向かって言った女性のことばを思い出して、女性の心になって歌ったものではないかとおもわれてならない。

この歌は、柿本人麻呂歌集に出ている一首で、人麻呂の歌かどうかは不明である。ただ人麻呂時代の歌であることは確かである。

万葉集に出てくる山陽沿岸の歌の大部分は、定住者のそれでなく、中央派遣の人々のものである。難波と太宰府を往還する官吏、妻子をのこして九州へ出向く東国の防人、遠く異国の空に仰ぐ月に、瀬戸内海の島影はどう映っただろうか。

瀬戸内の海はロマンの海であり歴史の海である。その昔、蔵王山の西南麓に発達した集落があった。今の奈良津・吉津の平地部分は海であり、良き「津」であったものと思われる。大和(奈良)からの備後の国府に至る船着き場であったためか、ここの地名を奈良津と呼ばれるようになったものといいつたえられる。

多島美の瀬戸内海は関門海峡や鳴門海峡など四つの海峡によって、外海と画された内海に浮かぶ島々の沿岸の景勝地からなっている。それは東西四四〇km、琵琶湖の一四倍の大きさだ。

万葉集巻十五遣新羅使の歌は水島灘から備後灘に移るいわば旅日記風に東から順を追って編纂者の手によって配列されたものと推測される。

月読(つきよみ)の 光を清み 神島の
 磯間(いそま)の浦ゆ 舟出する我は

(巻十五・三五九九)

月明かりをたよって船出する。空は澄み切って、沖の島々がシルエットのように見える夜――。

昼間、汗のにじむとのはうって変わって、爽快な涼風が頬をなでるこの感動……。神島はいまどこに。

備中(笠岡市)の神島(こうのしま)説、備後(福山市)の神島(かしま)説が唱えられているが、いまだ決着がついていない。

遣新羅使人の歌は、必ずしも備後の神島を歌ったものとも考えられず、備中神島から高島、白石島、北木島と南下し、大飛島の砂洲に碇泊し、韓国の航海の風習となっている前途平穏を祈る厳粛なる祭祀をおこない一行は潮流にのって鞆の浦に向かったものとも考えられる。

離磯(はなれそ)に 立てるむろの木 うたがたも 久しき時を 過ぎにけるかも

(巻十五・三六〇〇)

しましくも ひとりありうる ものにあれや 島のむろの木 離れてあるらむ

(巻十五・三六〇一)

これらは「舟に乗りて海に入り、路の上にして作る歌」八首の最後の二首である。

吾妹子(わぎもこ)が 見し鞆の浦の むろの本は 常世にあれど 見し人そなき

(巻三・四四六)

鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹(いも)は 忘らめやも

(巻三・四四七)

前の二首は明らかに鞆の浦の「むろの木」を詠んだ歌とわかる。

都びとの間では、大伴旅人がここ鞆の浦の「むろの木」をあの亡妻を偲んで詠んだ悲歌が話題になっていたのであろう。遣新羅使の一行もこれを知らぬ者はいなかった。

磯に根ばう「むろの木」をひと目見て、特別の面持ちで鞆の浦に着いたことであろう。

ぬばたまの 夜は明けぬらし 玉の浦に あさりする鶴 嗚き渡るなり

(巻十五・三五九九)

玉の浦の 沖つ白玉 拾へれど またそ置きつる 見る人をなみ

(巻十五・三六二人)

万葉時代の玉の浦(尾道市)には白砂に鶴が飛びかい、松の緑は濃く一幅の錦絵を見るような佳景が展開されていたのだろうか。

玉の浦とはどこだろう。玉の浦については、三つの説がある。

その一つは尾道市長江あたり、二つに玉野市玉あたり、三つめは倉敷市玉島あたりとされている。

玉野市玉あたりの説は『備前名所記』の玉浦の項に「児島郡、加茂の庄玉村という南おもてなり」としている。いまも玉、奥玉、玉腹の地名が残っておるが、ここは万葉時代は児島という大きな島の南側である。当時の航路を考えるに、東の牛窓あたりから出た船は、往古、本土と児島の間が海であった、いまの児島湾、児島湖、藤戸の渡しを抜けて水島灘へ出る近道の航路を選んだものと考えられる。

そこで、児島と本土の間の内海を西に出ると倉敷市玉島ということになる。そこで玉島説によると『備中国名勝図絵』の玉浦の項に

然れば本州・玉島を玉浦といひたるゆゑに今も玉島とはいへるなるべし。又おもふに玉といえるは、もとより地名にて、島なりし故に玉島といひ、其浦をば玉浦といひしか。

という。

尾道説は『芸藩通志』の備後国尾道、古蹟名勝の部「玉浦」の項に、天平八年遣新羅使人の「ぬばたまの夜は明けぬらし……」の歌をあげ、この歌のつぎに神島や鞆の浦の歌があり、遣新羅使船の西航の順でいえば備前、備中の間とも考えられるので備中の玉島とも考えられるが、歌の順序をみると必ずしも土地の順になっていないから、尾道を詠んでいるかもしれない。同じ古蹟名勝の部の「宝珠岩」の項によれば、千光寺の俗称、烏帽子岩という巨岩の上に玉があって夜はこの玉に月明かりがあたり反射して光っていたことから近くの浦を「玉の浦」と呼んだという。この玉は、いつのころか異国人が奪い去ったといわれている。

いろいろの説はあれど、遣新羅使の一行は、夕方ここ長井の浦(現在の三原市糸崎町の港あたり)に着き船泊りした。

備後国水調郡長井浦に船泊せし夜作れる歌三首

青丹(あおに)よし 奈良の都に 行く人もがも 草枕 旅行く舟の 泊り告げむに

(巻十五・三六一二)

右の一首大判官

この大判官とある作者・壬生使王宇太麻呂(みぶのおみうだまろ)は、従六位上で大使・副使に次ぐ役目をうけていた。

『続日本書紀』によると、大使は阿倍朝臣継麻呂(あべのあそみつぐまろ)、副使は大伴宿弥三中(おおとものすくねみなか)であった。大使は対馬で亡くなり、副使は病にかかり帰京が遅れたという。

海原を 八十島隠り 来ぬれども 奈良の都は 忘れかねつも

(巻十五・三六一三)

鞆の浦からの長井の浦までの海上には島が多く、田島、横島、百島、加島、向島、岩子島、因島、宿弥島、細島、佐木島、小佐木島などなど大小の島が浮かび、その景観のすばらしさは、まさに「八十八島」というにふさわしく、万葉びとの日を見はらせたにちがいない。

帰るさに 妹に見せむに わたつみの 沖の白玉 拾いて行かな

(巻十五・三六一四)

長井の浦の所在地については、糸崎説のほかに、尾道説がある。尾道に長江町の町名が残り、尾道の港は長い水路であり長江の名にふさわしいが「浦」の本義からすれば難点だ。

早春のある朝―。

瀬戸の海を一陣の風が限りなく吹き渡ると、やがて淡い、透明な陽光がさしはじめ、やわらかな春が来る。海はしっとりと濡れる鱗となって、ゆったりと漂いはじめ、やわらかな春がくる。

瀬戸内の船旅はひと月にも及んだ。舟底の浅い木船に身を委ね、人力で潮流の変化に抗して進まねばならなかった。遣唐使も、遣新羅使人らも太宰府へ赴く官人や防人も、望郷や妻恋いの情をつのらせながら、みなこの苦労を味わったらしい。

しかし、自然は淀みなく流れてゆく、ゆったり漂い始めた備後灘は醗酵しはじめる。そしてさくらだい、はるあじ、しらうお、たけのこめばるといった瀬戸の顔なじみがあちこちの島影や磯で春の喜びに弾けるのだ。

こうして、瀬戸の海、備後灘に春は満開のときを迎えるのではなかろうか―。

時が過ぎ人が移り、なおふるさとの情景だけは今も消えさらずそこに生き続ける。先人たちも往還した瀬戸内に点在する由来ある地に降り立ち、辺りの風景をゆっくりと見まわし、深く息を吸いこみ目を閉じて心を澄し、万葉の時代をよみがえらさそう。