備陽史探訪:76号」より

小林 定市

山崎朝雲の亀山天皇像と平櫛田中

鞆の町には、沼隈郡の長者新庄太郎の娘明子姫が、都にのぼり時の帝の寵愛を受け、后となる出世物語が伝わっているが、備後の男子が天皇になった伝承を追ってみる。

先ず后伝承の、真言宗海吟山福禅寺の前身鞆の観音堂に就いて、寛永十六年(一六三九)三月、水野氏が寺社領の旧記の提出を命じた時、時の観音堂住僧栄親(栄観トモ)は次の様な寺伝を提出していた。

観音堂は天慶年中(九三八~九四七)空也上人来りて、天下七箇所の霊地、則ち当寺は其の随一の真言寺なり。本尊は海中より出現の千手観音なり。永禄元年(一五五八)鞆之浦炎上し当寺堂塔悉く類焼令(せし)め本堂一宇残るなり(以下略)

空也(九〇三~九七二)は少年時代に半僧半俗の山伏として、全国の山や霊場を巡るその途次、危険な道は改修し、水の無い場所には井戸を掘り、野に捨てられた死骸があれば一カ所に集めて火葬をする等の、一連の社会活動を行っていた。

阿波の湯島や陸奥出羽の辺境まで遊行し、その間休むことなく南「無阿弥陀仏」と、念仏を唱えて阿弥陀聖と呼ばれた。空也は晩年に、京都東山の西光寺(六波羅蜜寺)に住み、天暦五年(九五一)に、貴賤に勧進して十一面観音像を造立したり、大般若経六〇〇巻の写経を勧進するなど、宗教・文化活動も行った平安時代中期の僧である。

寺伝の観音堂と空也の関係を原資料として、約二十年後の寛文元年(一六六一)頃に、俳諧文の縁起備『後国鞆之浦観音堂之縁起』の編著を完成させたのが、野々口立圃(りゅうほ)(一五九五~一六六九)である。

次に、本題の天皇伝承であるが、『福岡県百科事典』の亀山上皇銅像の項に

福岡市博多区東公園内にあり、像高四・八四m。明治二一年(一八八八)県内有志で発起され、日清・日露戦争で高まっていく国家主義のシンボルとして、安場保和・福岡県知事をはじめ要職にある有志が発願者となった。特に同県警務部長・湯地丈雄は、長崎在任中、清国水兵の巡査殺害事件に手も足も出ず、国辱として苦い思いをしていただけに、銅像建立に献身的な努力をした。国防思想・護国精神をより高めるねらいで、元冦記念碑建立は国家的事業の色彩があった。原型は高村光雲、竹内久一と並び木彫り御三家といわれた福岡出身の山崎朝雲の制作。上皇のモデルとなった平櫛田中が仮小屋のアトリエで卒倒したというエピソードがある。

と記してある。一般には、平櫛田中(ひらぐちでんちゅう)はモデルを模刻していた事は知られているが、逆に平櫛田中をモデルとして製作された亀山上皇銅像が、福岡に行くとみる事が出来るのである。

亀山天皇(一二四九~一三〇五)の官廷政府は、蒙古襲来時に伊勢神官や博多の笛崎八幡宮に敵国降伏の祈念をはじめ、広く神仏に国家の加護を祈願して国防の体制を固める。

鋼像の真偽に就いて、井原市の田中美術館に問い合わせた所、若かった明治時代の事は資料が殆ど無いとの事であった。平櫛田中は明治五年(一八七二)井原市西江原の田中謙造の子として生まれ、十歳の時福山市今津町平櫛家の養子となった。

山崎朝雲(一人六七~一九五四)は、福岡市博多の陶工の家に生まれ、明治二十八年第四回内国勧業博覧会で「養老孝子」が妙技三等賞を受け、翌年上京して高村光雲に師事し指導を受ける。以後格調の高い作品が多く、帝国美術院会員となり、文化功労者となった彫刻家。

明治三十年、山崎朝雲に一年遅れて上京した平櫛田中は、東京美術専門学校教授で木彫りの重鎮、高村光雲宅を訪れ、自作の観「音像」批評を求めた後光雲の弟子となった。

当時作成された有名な銅像、上野公園の西「郷隆盛」、皇居前の楠「正成」等は、いずれも光雲の木彫りによる原型から型取りをした作品であった。田中は明治三十四年、展覧会に出品した童「子歌君が代」が認められたのか、翌三十五年春には、青年彫刻家の勉強会である三・四会会員となっている。

いきさつは不明であるが、亀山上皇銅像原型木型製作は、地元の彫刻家山崎朝雲に依頼された様で、明治三十五年に朝雲は亀山上皇原型木彫像を完成させている。当時の彫刻家は現代と異なり、彫刻だけで生計を樹てるのは難しい時期であった。

朝雲の仕事に弟弟子の田中が協力するのは当然の事で、田中自身が彫刻家のモデルになる事など無想だにしなかった出来事であったであろう。鋳造は同公園に立つ、日蓮上人銅像と期を同じくして、佐賀の谷口鉄工所が担当し完成させた。福岡県庁前の公園中央に聳える銅像(平櫛田中モデル)は、近代彫刻史に残る明治期の代表作である。

また、日蓮上人銅像の制作は、福山市川口町出身の三村日修が、日蓮宗総本山身延久遠寺の七五世を勤めていた時、日蓮宗が単独で銅像建立の方針を決定した。これは奈良大仏・鎌倉大仏に次ぐ日本史上第三位の巨大青銅像(像高一〇・五m、重量七四t)で、明治時代を代表する最高最大の記念碑と評価されている。
亀山天皇像

福岡東公園に立つ亀山天皇像
備後の男子、平櫛田中が天皇(のモデル)になった。

 

http://bingo-history.net/uploads/2016/02/cce822bb9c86a3ffda6297a093a513c5.jpghttp://bingo-history.net/uploads/2016/02/cce822bb9c86a3ffda6297a093a513c5-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:76号」より 小林 定市 山崎朝雲の亀山天皇像と平櫛田中 鞆の町には、沼隈郡の長者新庄太郎の娘明子姫が、都にのぼり時の帝の寵愛を受け、后となる出世物語が伝わっているが、備後の男子が天皇になった伝承を追ってみる。 先ず后伝承の、真言宗海吟山福禅寺の前身鞆の観音堂に就いて、寛永十六年(一六三九)三月、水野氏が寺社領の旧記の提出を命じた時、時の観音堂住僧栄親(栄観トモ)は次の様な寺伝を提出していた。 観音堂は天慶年中(九三八~九四七)空也上人来りて、天下七箇所の霊地、則ち当寺は其の随一の真言寺なり。本尊は海中より出現の千手観音なり。永禄元年(一五五八)鞆之浦炎上し当寺堂塔悉く類焼令(せし)め本堂一宇残るなり(以下略) 空也(九〇三~九七二)は少年時代に半僧半俗の山伏として、全国の山や霊場を巡るその途次、危険な道は改修し、水の無い場所には井戸を掘り、野に捨てられた死骸があれば一カ所に集めて火葬をする等の、一連の社会活動を行っていた。 阿波の湯島や陸奥出羽の辺境まで遊行し、その間休むことなく南「無阿弥陀仏」と、念仏を唱えて阿弥陀聖と呼ばれた。空也は晩年に、京都東山の西光寺(六波羅蜜寺)に住み、天暦五年(九五一)に、貴賤に勧進して十一面観音像を造立したり、大般若経六〇〇巻の写経を勧進するなど、宗教・文化活動も行った平安時代中期の僧である。 寺伝の観音堂と空也の関係を原資料として、約二十年後の寛文元年(一六六一)頃に、俳諧文の縁起備『後国鞆之浦観音堂之縁起』の編著を完成させたのが、野々口立圃(りゅうほ)(一五九五~一六六九)である。 次に、本題の天皇伝承であるが、『福岡県百科事典』の亀山上皇銅像の項に 福岡市博多区東公園内にあり、像高四・八四m。明治二一年(一八八八)県内有志で発起され、日清・日露戦争で高まっていく国家主義のシンボルとして、安場保和・福岡県知事をはじめ要職にある有志が発願者となった。特に同県警務部長・湯地丈雄は、長崎在任中、清国水兵の巡査殺害事件に手も足も出ず、国辱として苦い思いをしていただけに、銅像建立に献身的な努力をした。国防思想・護国精神をより高めるねらいで、元冦記念碑建立は国家的事業の色彩があった。原型は高村光雲、竹内久一と並び木彫り御三家といわれた福岡出身の山崎朝雲の制作。上皇のモデルとなった平櫛田中が仮小屋のアトリエで卒倒したというエピソードがある。 と記してある。一般には、平櫛田中(ひらぐちでんちゅう)はモデルを模刻していた事は知られているが、逆に平櫛田中をモデルとして製作された亀山上皇銅像が、福岡に行くとみる事が出来るのである。 亀山天皇(一二四九~一三〇五)の官廷政府は、蒙古襲来時に伊勢神官や博多の笛崎八幡宮に敵国降伏の祈念をはじめ、広く神仏に国家の加護を祈願して国防の体制を固める。 鋼像の真偽に就いて、井原市の田中美術館に問い合わせた所、若かった明治時代の事は資料が殆ど無いとの事であった。平櫛田中は明治五年(一八七二)井原市西江原の田中謙造の子として生まれ、十歳の時福山市今津町平櫛家の養子となった。 山崎朝雲(一人六七~一九五四)は、福岡市博多の陶工の家に生まれ、明治二十八年第四回内国勧業博覧会で「養老孝子」が妙技三等賞を受け、翌年上京して高村光雲に師事し指導を受ける。以後格調の高い作品が多く、帝国美術院会員となり、文化功労者となった彫刻家。 明治三十年、山崎朝雲に一年遅れて上京した平櫛田中は、東京美術専門学校教授で木彫りの重鎮、高村光雲宅を訪れ、自作の観「音像」批評を求めた後光雲の弟子となった。 当時作成された有名な銅像、上野公園の西「郷隆盛」、皇居前の楠「正成」等は、いずれも光雲の木彫りによる原型から型取りをした作品であった。田中は明治三十四年、展覧会に出品した童「子歌君が代」が認められたのか、翌三十五年春には、青年彫刻家の勉強会である三・四会会員となっている。 いきさつは不明であるが、亀山上皇銅像原型木型製作は、地元の彫刻家山崎朝雲に依頼された様で、明治三十五年に朝雲は亀山上皇原型木彫像を完成させている。当時の彫刻家は現代と異なり、彫刻だけで生計を樹てるのは難しい時期であった。 朝雲の仕事に弟弟子の田中が協力するのは当然の事で、田中自身が彫刻家のモデルになる事など無想だにしなかった出来事であったであろう。鋳造は同公園に立つ、日蓮上人銅像と期を同じくして、佐賀の谷口鉄工所が担当し完成させた。福岡県庁前の公園中央に聳える銅像(平櫛田中モデル)は、近代彫刻史に残る明治期の代表作である。 また、日蓮上人銅像の制作は、福山市川口町出身の三村日修が、日蓮宗総本山身延久遠寺の七五世を勤めていた時、日蓮宗が単独で銅像建立の方針を決定した。これは奈良大仏・鎌倉大仏に次ぐ日本史上第三位の巨大青銅像(像高一〇・五m、重量七四t)で、明治時代を代表する最高最大の記念碑と評価されている。 福岡東公園に立つ亀山天皇像備後の男子、平櫛田中が天皇(のモデル)になった。  備後地方(広島県福山市)を中心にした地域の歴史を研究しする歴史愛好の集いです