備陽史探訪:75号」より

小林 定市

福山市街

第二次大戦末期の福山空襲を記す『福山市史』は福山空襲の際「我軍ノ防戦トシテ見聞セシモノ無シ」と記し、又『福山空襲の記録』も防戦に関する記録の記載は全く見当たらないのであるが、此の記録は果たして真実だったのであろうか。

米軍の空襲は大都市から始まり次第に中小都市にと波及し、福山も空襲の順番が回って来たのである。空襲に先立ち米空軍は数回の偵察飛行で軍事上の重要拠点であることを充分把握していた。『福山空襲の記録』に記された米軍調査資料に依る福山は、①人口五六六五三人、②歩兵四一連隊(実は全軍出陣・暁部隊が入営)、③三菱電気で航空機部品製造④帝国染色工場(日化)他、多くの小規模工場群。

また、米空軍機に対する福山の防空防御能力は、高射砲二一門、中高射砲十五門、サーチライト二六基、高射砲(高角機関砲)の最高高度射程距離は三六〇〇m以下。

昭和二十年八月八日、米五八航空部隊のB二九・九一機(実行機九三機)は、小笠原諸島南方の硫黄島を発進。航空路を北北西に飛行し高射砲陣地の無い、高知県の東端徳島県境に近い松下ヶ鼻岬から、四国山脈を越え、香川県の庄内半島(詫間町)六島・大飛島・芦田川と、硫黄島から福山まで一直線に飛来し、高度を四〇〇〇~四二〇〇mの範囲に保ち夜十時十五分から約一時間十分の間に、約五四〇tの焼夷弾を投下して全機無事に帰還している。

報告書は、福山市に於ける爆撃中の対空砲火として、貧弱で不正確だが猛烈であったと三機が報告、中規模程度の対空砲火と約二十機が報告していた。

日本軍が沖縄戦に敗れ、本土決戦が叫ばれ出すと、戦争に勝つため国民学校(現在の小学校)の学童も食料の増産に協力するため、海や川でアサリ貝やシジミ員の貝掘り、椎の実・樫の実・蓬・嫁菜等の野草の採集。山奥から薪炭材料の搬出にも従事していた。当時は自動車の燃料が払底し堅炭を燃料として用いた。

四一連隊が福山から出陣し、続いて連隊に入った暁船舶歩兵連隊の一隊二・三十名は、兵器を帯せず水呑村洗谷の奥、鎌研山と柳谷の国有林に分け入り、軍の燃料を自給自足するため炭焼き作業に従事していた。四一連隊の兵は常に銃を携行して山野で演習していたが、武器を携行せずして山作業に従事する暁部隊の兵は一見奇異に見えたが、実は暁船舶歩兵連隊には福山防空の大きな責務が課せられていた様である。

大正八年(一九一九)の福山大水害後、堤防の改修で草戸村内(現在の競馬場)の鷹取川河川敷が廃川地となっていた。そこに暁部隊の一分遣隊が高角機関砲陣地を構築し数門の機関砲を据えていた。陣地の四囲に高い堤防を巡らせ電柱に電線を引張り、一〇cm前後の模型飛行機をぶら下げて移動させ、機関砲の射撃訓練をしている姿が見られた。また機関砲陣地の西北(現在の市体育館)には、数年に亘る築造工事でほぼ完工直前の備後護国神社があった。

旧河川敷の広い場所が残されていたから機関砲陣地を構築したのか、護国神社を防衛するためなのか不明であるが、大津野飛行場を襲撃した米軍のグラマン戦闘機は、超低空で機関砲陣地に機銃掃射を浴びせかけていたが、機関砲部隊も果敢に応戦していた事が数回あった。

八月八日夜、B二九の大編隊が焼夷弾を投下すると、市の周辺から一斉に大火災が発生した。米軍が多く投下した集中焼夷弾(一束三六本〉は騒音と共に落下し、地上数百m上空で四散火の雨を降らせた。連隊及び草戸村の機関砲陣地は、即座に猛烈な対空射撃の反撃を開始した。しかし、残念な事に旧型の低性能機関砲だったため、B二九迄砲弾は届かず、徒に砲弾は火の点線となり大きな円弧を描いて落下するばかりだった。敵機撃墜の戦果をあげる事ができない事を知りながら、それでも砲兵隊の士気は高かった様で大火災の煙を越え機関砲の弾は飛び続けていた。そのためか暁部隊では戦死者を十余名出した模様である。

現在、草戸村護国神社関係の資料は見当たらないが、当時作成された石造文化財を見ることにより其の一端を知ることができる。

護国神社は、従来備後に造営された神社の中では例を見ない最大級の規模だった様で、戦没者の英霊を祭るため草戸村に創祀された神社で、数年掛けて女子学生迄動員して造営が進められた壮大な神社であった。

やがて護国神社に焼夷弾が命中し建造物群は紅蓮の炎に包まれてしまった。福山城天守閣の炎も天高く昇っていたが、八〇〇mの至近距離から見た護国神社の大火災は今もって忘れ去る事が出来ない。

護国神社跡の遺構として見られる文化財は、体育館北方の旧鷹取川に架かる石造太鼓橋(幅八・二m長さ十一・五m)。

大鳥居、戦後同地の砂地に埋納していたが後掘り出して丸之内の護国神社(元阿部神社)、西南西百数十m先の道路に建つ、石柱には「昭和十八年九月吉日・三菱電気株式会社」の刻字がある。

大鳥居、三蔵稲荷北方路上に建つ鳥居、石柱に「昭和十九年十一月吉日・福山市赤垣幾四郎」の刻字がみられる。以上三ヶ所に石造文化財が残されているが、橋・鳥居何れも福山市では最大級の大きさである。

福山市教育委員会や公園課は、体育館の前身が備後護国神社跡と知ってか知らずか、体育館前方の道路を「アジア彫刻の道」として整備し、和風の石造高欄擬宝珠太鼓橋の前方に、派手な洋風トイレを新設しているが、和の神聖な橋と洋の近代的な風景は異様に見えるが、設計の段階で十分検討した後、トイレをあの場所に設置したのであろうか。

また、「アジア彫刻の道」には多額の市費を投入しているが、前記の昭和三大石造文化財には、制作の経過・由緒を示す標示板さえ見当たらず、福山市民が忘れ去ってもよい程の無価値なものだったのだろうか。

http://bingo-history.net/uploads/2016/02/89e3f934ead0813e08bb0d35a8755cfd.jpghttp://bingo-history.net/uploads/2016/02/89e3f934ead0813e08bb0d35a8755cfd-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:75号」より 小林 定市 第二次大戦末期の福山空襲を記す『福山市史』は福山空襲の際「我軍ノ防戦トシテ見聞セシモノ無シ」と記し、又『福山空襲の記録』も防戦に関する記録の記載は全く見当たらないのであるが、此の記録は果たして真実だったのであろうか。 米軍の空襲は大都市から始まり次第に中小都市にと波及し、福山も空襲の順番が回って来たのである。空襲に先立ち米空軍は数回の偵察飛行で軍事上の重要拠点であることを充分把握していた。『福山空襲の記録』に記された米軍調査資料に依る福山は、①人口五六六五三人、②歩兵四一連隊(実は全軍出陣・暁部隊が入営)、③三菱電気で航空機部品製造④帝国染色工場(日化)他、多くの小規模工場群。 また、米空軍機に対する福山の防空防御能力は、高射砲二一門、中高射砲十五門、サーチライト二六基、高射砲(高角機関砲)の最高高度射程距離は三六〇〇m以下。 昭和二十年八月八日、米五八航空部隊のB二九・九一機(実行機九三機)は、小笠原諸島南方の硫黄島を発進。航空路を北北西に飛行し高射砲陣地の無い、高知県の東端徳島県境に近い松下ヶ鼻岬から、四国山脈を越え、香川県の庄内半島(詫間町)六島・大飛島・芦田川と、硫黄島から福山まで一直線に飛来し、高度を四〇〇〇~四二〇〇mの範囲に保ち夜十時十五分から約一時間十分の間に、約五四〇tの焼夷弾を投下して全機無事に帰還している。 報告書は、福山市に於ける爆撃中の対空砲火として、貧弱で不正確だが猛烈であったと三機が報告、中規模程度の対空砲火と約二十機が報告していた。 日本軍が沖縄戦に敗れ、本土決戦が叫ばれ出すと、戦争に勝つため国民学校(現在の小学校)の学童も食料の増産に協力するため、海や川でアサリ貝やシジミ員の貝掘り、椎の実・樫の実・蓬・嫁菜等の野草の採集。山奥から薪炭材料の搬出にも従事していた。当時は自動車の燃料が払底し堅炭を燃料として用いた。 四一連隊が福山から出陣し、続いて連隊に入った暁船舶歩兵連隊の一隊二・三十名は、兵器を帯せず水呑村洗谷の奥、鎌研山と柳谷の国有林に分け入り、軍の燃料を自給自足するため炭焼き作業に従事していた。四一連隊の兵は常に銃を携行して山野で演習していたが、武器を携行せずして山作業に従事する暁部隊の兵は一見奇異に見えたが、実は暁船舶歩兵連隊には福山防空の大きな責務が課せられていた様である。 大正八年(一九一九)の福山大水害後、堤防の改修で草戸村内(現在の競馬場)の鷹取川河川敷が廃川地となっていた。そこに暁部隊の一分遣隊が高角機関砲陣地を構築し数門の機関砲を据えていた。陣地の四囲に高い堤防を巡らせ電柱に電線を引張り、一〇cm前後の模型飛行機をぶら下げて移動させ、機関砲の射撃訓練をしている姿が見られた。また機関砲陣地の西北(現在の市体育館)には、数年に亘る築造工事でほぼ完工直前の備後護国神社があった。 旧河川敷の広い場所が残されていたから機関砲陣地を構築したのか、護国神社を防衛するためなのか不明であるが、大津野飛行場を襲撃した米軍のグラマン戦闘機は、超低空で機関砲陣地に機銃掃射を浴びせかけていたが、機関砲部隊も果敢に応戦していた事が数回あった。 八月八日夜、B二九の大編隊が焼夷弾を投下すると、市の周辺から一斉に大火災が発生した。米軍が多く投下した集中焼夷弾(一束三六本〉は騒音と共に落下し、地上数百m上空で四散火の雨を降らせた。連隊及び草戸村の機関砲陣地は、即座に猛烈な対空射撃の反撃を開始した。しかし、残念な事に旧型の低性能機関砲だったため、B二九迄砲弾は届かず、徒に砲弾は火の点線となり大きな円弧を描いて落下するばかりだった。敵機撃墜の戦果をあげる事ができない事を知りながら、それでも砲兵隊の士気は高かった様で大火災の煙を越え機関砲の弾は飛び続けていた。そのためか暁部隊では戦死者を十余名出した模様である。 現在、草戸村護国神社関係の資料は見当たらないが、当時作成された石造文化財を見ることにより其の一端を知ることができる。 護国神社は、従来備後に造営された神社の中では例を見ない最大級の規模だった様で、戦没者の英霊を祭るため草戸村に創祀された神社で、数年掛けて女子学生迄動員して造営が進められた壮大な神社であった。 やがて護国神社に焼夷弾が命中し建造物群は紅蓮の炎に包まれてしまった。福山城天守閣の炎も天高く昇っていたが、八〇〇mの至近距離から見た護国神社の大火災は今もって忘れ去る事が出来ない。 護国神社跡の遺構として見られる文化財は、体育館北方の旧鷹取川に架かる石造太鼓橋(幅八・二m長さ十一・五m)。 大鳥居、戦後同地の砂地に埋納していたが後掘り出して丸之内の護国神社(元阿部神社)、西南西百数十m先の道路に建つ、石柱には「昭和十八年九月吉日・三菱電気株式会社」の刻字がある。 大鳥居、三蔵稲荷北方路上に建つ鳥居、石柱に「昭和十九年十一月吉日・福山市赤垣幾四郎」の刻字がみられる。以上三ヶ所に石造文化財が残されているが、橋・鳥居何れも福山市では最大級の大きさである。 福山市教育委員会や公園課は、体育館の前身が備後護国神社跡と知ってか知らずか、体育館前方の道路を「アジア彫刻の道」として整備し、和風の石造高欄擬宝珠太鼓橋の前方に、派手な洋風トイレを新設しているが、和の神聖な橋と洋の近代的な風景は異様に見えるが、設計の段階で十分検討した後、トイレをあの場所に設置したのであろうか。 また、「アジア彫刻の道」には多額の市費を投入しているが、前記の昭和三大石造文化財には、制作の経過・由緒を示す標示板さえ見当たらず、福山市民が忘れ去ってもよい程の無価値なものだったのだろうか。備後地方(広島県福山市)を中心にした地域の歴史を研究しする歴史愛好の集いです