新田を潤した上井出川と下井出川(福山藩の新田開発と灌漑用水)

備陽史探訪:175号」より

種本 実

連載「川筋を訪ねて」【その五】

福山市の東南部の大部分は、江戸時代初期に藩主・水野氏による新田開発によって造成されたかつての沼田である。新田には灌漑用水が不可欠であり、春日池や谷地池、天道池など多数の溜池も造られたが、芦田川からの用水の引き込みが不可欠であった。

用水路のもっとも長いのは上井出川であり、本庄二股から延々と市村の山ノ端へ、さらに南へ折れて割土手の中を通り、引野を通過して手城川と合流して入江に注いでいる。割土手は、寛永19(1642)年に完成した吉田新開を造成するために、当時の海面を潮止めした堤防である。市村は昭和31年に福山市に合併して蔵王町となったが、本稿では市村と記す。

正保元(1644)年に市村沖新田が造られる際に、灌漑用水として上井出川を蔵王山の麓まで堀削して、さらに割土手の中を通し市村から引野へと水路を延ばしたのである。したがって、吉田新開が造られた時期にはまだ土手の中には水路はなかったと思える。

割土手には釣樋が設えてあり、中を流れる上井出川は春日池から流水する手城川と立体交差していた。その構造を地元の方々に何度か尋ねたが、どうしてもイメージが不明朗だった。昭44年から56年にかけて行われた東部地区の区画整理事業の際に破壊されたが、写真を撮って保存されている方はいないものか、と探していたら、釣樋を描いた絵を提供してくださる方がいて大変ありがたく思っている。(画像①注1)
画像①

割土手を流れる上井出川の水嵩が高くなると、石組で築いた割土手の窓の部分から溢流水が流れ落ちて、その上の通路の部分には水が覆わないように構成されている。「釣樋」とはこの構造を称している。

割土手、釣樋の位置は図Aに、現在の地図は図Bに示している。また割土手があった位置は画像②の交差点に面影が残り、付近よりわずかに高くなっているのが往時の土手の跡である。

図A
図B

画像②

割土手には釣樋のほかに、北側から「割土手上樋」「割土手下樋」が設けてあって、上井出川の水を春日池の水利権がなかったと思われる市村沖新田へ流していた。図Aの半田池は、市村の池であるが水利権は春日村にあり、逆に鴨目池は春日村内にあるが水利権は市村が有した。

市村々内の上井出川には西から「篠原樋」「百姓樋」「蛇ヶ前樋」など12カ所の樋門があって、南に開ける新田に用水を分流していた。ただ「篠原樋」(画像③)だけは、市村沖新田に続いて開発された深津沖新田への用水の樋門である。これらの樋門は現在でもほぼ同じ位置に見ることができる。

画像③
篠原樋は惣戸山の北東に位置す

蔵王山麓一帯には様々な伝承が語り継がれているが、「蛇ヶ前樋」は、そのあたりが「深津高地の蛙岩伝説」に登場する蛇の尾に該当するといわれている。

深津公民館の前には周辺の地図が掲示してあり、その中に下井出川が記入されている。西深津町から王子神社、塩崎神社前を北上して蔵王町へと続く川である。下井出川といえば私が住んでいる川口や多治米の灌漑用水と認識していたので、なぜ深津町にこの川の名があるのか不可解だった。

そこで草戸町の土地改良区の事務所に訊ねて分かったのだが、上井出川、下井出川は特定の川を示す名ではないのであって、各地に同名の川がある。井出とは田に引水ための堰、用水路の意味である。

後述するが手城町の古い地図にも同名の川と割土手が記されてある。

上井出川は木之庄町の時計台付近で分流して、一筋は城北中学校の前を流れ、ドンドン池の東で御手洗川と立体交差している。現在の蓮池川(吉津川)は、御手洗川とは別のドンドン池を源流とする川と、立体交差した上井出川の分流とが合流して下流に流れている。

また、上井出川は奈良津町で南へ分流し、その一筋の川と、福山八幡宮の前を流れる御手洗川が合流して流れてくるのが深津町の下井出川である。その先は、篠原樋から深津町へ引いた用水路と合流して東に流れ手城川へ注いでいる。

図Cで示した手城町の割土手、上井出川、下井出川は、今は鬼籍に入られている地元の方が作図された、昭和二年の手城村の地図をもとに記した。割土手とはどのような構造だったのか、付近の年配の人たちに尋ね歩いたが一様に割土手という名すら聞いたことがないと言われた。
図C

国道二号線の新橋の袂には手城町の上井出川(画像⑤)と下井出川に蓮池川から分流するための、大きな樋門(画像④)が備えてある。町内では上井出川、下井出川の呼称は既に失われていて川の名前は特に無いようだ。

画像④
蓮池川から手城町方面へ流す樋
画像⑤
上井出川には豊かな清流が流れ

本庄町の二股は現在では「久松用水」と称する上井出川、蓮池川、下井出川の分流地点である。下井出川は野上、多治米、川口など三町の灌漑用水であるが、昭和8年に福山市への合併を契機に、それまでの山手橋の傍に設けてあった下井出樋門からの取水を廃して、新たに二股からの取水となったのである。

したがって本庄の二股は、元々は上井出川と蓮池川の分岐点、文字通り二股であった。それで市村方面に流れる上井出川に対して、御手洗川は蓮池川から続くドンドン池を源とするので下の井出と位置づくから、御手洗川から延びる深津村の用水を、下井出川と呼んでいるのではないかと推察する。

新田を潤した用水路は、区画整理などでかつての場所から少し移動しているものもあるが、ごく一部を除いて一様にコンクリートで三面を囲った水路に生まれ変わっている。「瀬掘り」といつて、かつて大勢の農民が渇水した芦田川の砂を掘って取水した作業や樋門の水番は、今では語り草になっている。水車を踏んで水路から田に引水する作業を体験した人さえ少なくなっている。

先人が連綿と耕作してきた美田の母なる用水路として、今なお芦田川からの取水が流れている井出用水、その歴史も次代に語り継ぎたいものである。

(注・画像Aは、蔵王町に在住の羽原耀明氏から提供していただき、元画を縮小して引用させていただきました)

<訂正>
「新田を潤した上井出川と下井出川」において「上井出川は奈良津町で南へ分流し、その一筋の川と、福山八幡宮の前を流れる御手洗川が合流して流れてくるのが深津町の下井出川ある。」と記述したが、現在では深津町の下井出川には、奈良津町で上井出川が分流した水路だけが通じていて、御手洗川は西深津小学校の傍で蓮池川ヘ合流している。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/d9a68610e5d6bfb97f0c8e56898db6b9.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/d9a68610e5d6bfb97f0c8e56898db6b9-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:175号」より 種本 実 連載「川筋を訪ねて」【その五】 福山市の東南部の大部分は、江戸時代初期に藩主・水野氏による新田開発によって造成されたかつての沼田である。新田には灌漑用水が不可欠であり、春日池や谷地池、天道池など多数の溜池も造られたが、芦田川からの用水の引き込みが不可欠であった。 用水路のもっとも長いのは上井出川であり、本庄二股から延々と市村の山ノ端へ、さらに南へ折れて割土手の中を通り、引野を通過して手城川と合流して入江に注いでいる。割土手は、寛永19(1642)年に完成した吉田新開を造成するために、当時の海面を潮止めした堤防である。市村は昭和31年に福山市に合併して蔵王町となったが、本稿では市村と記す。 正保元(1644)年に市村沖新田が造られる際に、灌漑用水として上井出川を蔵王山の麓まで堀削して、さらに割土手の中を通し市村から引野へと水路を延ばしたのである。したがって、吉田新開が造られた時期にはまだ土手の中には水路はなかったと思える。 割土手には釣樋が設えてあり、中を流れる上井出川は春日池から流水する手城川と立体交差していた。その構造を地元の方々に何度か尋ねたが、どうしてもイメージが不明朗だった。昭44年から56年にかけて行われた東部地区の区画整理事業の際に破壊されたが、写真を撮って保存されている方はいないものか、と探していたら、釣樋を描いた絵を提供してくださる方がいて大変ありがたく思っている。(画像①注1) 割土手を流れる上井出川の水嵩が高くなると、石組で築いた割土手の窓の部分から溢流水が流れ落ちて、その上の通路の部分には水が覆わないように構成されている。「釣樋」とはこの構造を称している。 割土手、釣樋の位置は図Aに、現在の地図は図Bに示している。また割土手があった位置は画像②の交差点に面影が残り、付近よりわずかに高くなっているのが往時の土手の跡である。 割土手には釣樋のほかに、北側から「割土手上樋」「割土手下樋」が設けてあって、上井出川の水を春日池の水利権がなかったと思われる市村沖新田へ流していた。図Aの半田池は、市村の池であるが水利権は春日村にあり、逆に鴨目池は春日村内にあるが水利権は市村が有した。 市村々内の上井出川には西から「篠原樋」「百姓樋」「蛇ヶ前樋」など12カ所の樋門があって、南に開ける新田に用水を分流していた。ただ「篠原樋」(画像③)だけは、市村沖新田に続いて開発された深津沖新田への用水の樋門である。これらの樋門は現在でもほぼ同じ位置に見ることができる。 蔵王山麓一帯には様々な伝承が語り継がれているが、「蛇ヶ前樋」は、そのあたりが「深津高地の蛙岩伝説」に登場する蛇の尾に該当するといわれている。 深津公民館の前には周辺の地図が掲示してあり、その中に下井出川が記入されている。西深津町から王子神社、塩崎神社前を北上して蔵王町へと続く川である。下井出川といえば私が住んでいる川口や多治米の灌漑用水と認識していたので、なぜ深津町にこの川の名があるのか不可解だった。 そこで草戸町の土地改良区の事務所に訊ねて分かったのだが、上井出川、下井出川は特定の川を示す名ではないのであって、各地に同名の川がある。井出とは田に引水ための堰、用水路の意味である。 後述するが手城町の古い地図にも同名の川と割土手が記されてある。 上井出川は木之庄町の時計台付近で分流して、一筋は城北中学校の前を流れ、ドンドン池の東で御手洗川と立体交差している。現在の蓮池川(吉津川)は、御手洗川とは別のドンドン池を源流とする川と、立体交差した上井出川の分流とが合流して下流に流れている。 また、上井出川は奈良津町で南へ分流し、その一筋の川と、福山八幡宮の前を流れる御手洗川が合流して流れてくるのが深津町の下井出川である。その先は、篠原樋から深津町へ引いた用水路と合流して東に流れ手城川へ注いでいる。 図Cで示した手城町の割土手、上井出川、下井出川は、今は鬼籍に入られている地元の方が作図された、昭和二年の手城村の地図をもとに記した。割土手とはどのような構造だったのか、付近の年配の人たちに尋ね歩いたが一様に割土手という名すら聞いたことがないと言われた。 国道二号線の新橋の袂には手城町の上井出川(画像⑤)と下井出川に蓮池川から分流するための、大きな樋門(画像④)が備えてある。町内では上井出川、下井出川の呼称は既に失われていて川の名前は特に無いようだ。 本庄町の二股は現在では「久松用水」と称する上井出川、蓮池川、下井出川の分流地点である。下井出川は野上、多治米、川口など三町の灌漑用水であるが、昭和8年に福山市への合併を契機に、それまでの山手橋の傍に設けてあった下井出樋門からの取水を廃して、新たに二股からの取水となったのである。 したがって本庄の二股は、元々は上井出川と蓮池川の分岐点、文字通り二股であった。それで市村方面に流れる上井出川に対して、御手洗川は蓮池川から続くドンドン池を源とするので下の井出と位置づくから、御手洗川から延びる深津村の用水を、下井出川と呼んでいるのではないかと推察する。 新田を潤した用水路は、区画整理などでかつての場所から少し移動しているものもあるが、ごく一部を除いて一様にコンクリートで三面を囲った水路に生まれ変わっている。「瀬掘り」といつて、かつて大勢の農民が渇水した芦田川の砂を掘って取水した作業や樋門の水番は、今では語り草になっている。水車を踏んで水路から田に引水する作業を体験した人さえ少なくなっている。 先人が連綿と耕作してきた美田の母なる用水路として、今なお芦田川からの取水が流れている井出用水、その歴史も次代に語り継ぎたいものである。 (注・画像Aは、蔵王町に在住の羽原耀明氏から提供していただき、元画を縮小して引用させていただきました) <訂正> 「新田を潤した上井出川と下井出川」において「上井出川は奈良津町で南へ分流し、その一筋の川と、福山八幡宮の前を流れる御手洗川が合流して流れてくるのが深津町の下井出川ある。」と記述したが、現在では深津町の下井出川には、奈良津町で上井出川が分流した水路だけが通じていて、御手洗川は西深津小学校の傍で蓮池川ヘ合流している。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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