2003年08月13日

城と百姓(中世備後の民衆を例にして)

備陽史探訪:113号」より

坂本 敏夫

備陽史探訪の会に入会して約十年、入会して以来一貫して城郭部会に所属し、部会の皆さんと共に「備後古城記」をテキストとして中世史を学んでいます。

私は今まで部会の同輩を始め各諸兄とともに備後古城記の記述内容の検証調査・現地見学、例会参加、例会下見調査等で、遠近各地の城館跡約四百ヶ所を訪れ城館に付いて勉学し、合わせて文字資料の勉学も行って来ました。

その備後古城記勉強会も後数回にて終りとなる予定です。

そこで今まで学んだことを振り返り中世の城と百姓について所感を記述してみたいと思います。

人々が一族単位あるいは部族単位で社会的営みを始め、農耕牧畜等の生産活動を始めると年によって又は、場所により単位当り収得物の差が生じ、収得物に依存する単位社会の生活形態が収得物の高低によって大きな影響を受ける。

結果として一定の領域や収得物に対しての権利意識が萌芽する。

このよよな部族社会間の生存環境の差違が主たる要因で争いが起こり部族同士の抗争となる。

結果防御施設を構築する事となり「城・城塞」の出現である。

城とは、広辞苑では「敵を防ぐために築いた軍事的構造物」。大辞泉では「敵襲を防ぐための軍事施設」とあり、更に漢和辞典では「敵を防ぐために土や石で堅固に築いた大規模な構造物」都市を巡る「城壁」とあり、中国では町全体を城壁で取り巻きその中に住民を住まわせ四方に城門を構え、城外の街道沿いに発達した市街地にはさらに郭(外城)を巡らして外敵から守る「城郭」と記述している。

要約すると城とは、本来都市あるいは集落を外敵の襲来から防御するために臨時又は恒久的に構築された構造物のことである。

時代によっては、軍事的防御機能を高度に進化させたもの、又は政治性精神性をより重視した構築物も出現する。

以上の視点で勘案すると弥生期に見られる環濠集落や後の高地性集落も一種の城もしくは城塞集落と呼ぶことも出来ると思います。

備後にも低丘陵上に構築された弥生時代前期の環濠集落と考えられる三重の環濠を構築した「亀山遺跡」が神辺町道上に存在します。

この遺跡も一種の城塞集落と解釈することが出来ると考えます。(最近の研究報告では弥生期が約五百年遡ると言われ時代表現が適切ではないかもしれませんが)

城館について記述する前に中世期の一般庶民はどの様な社会状況と思考で城館・領主を含む上位権力者と関わっていたのでしょうか。この点に付いての考察を最初に行ってみたいと思います。

通説としては、一般庶民は虐げられ一方的に搾取されるだけで抵抗できない弱い立場に置かれていたと考えられているようですが、戦後から最近の中世史研究結果によって、ただ一方的に虐げられるだけではなく中々に強かであったことが判明してきています。

文明十七年(一四八六)二月付け「浄土寺領櫃田村定置状」(現双三郡君田村)同じく「浄土寺領櫃田村百姓等連署起請文」の記述を見ると、百姓等は「一味神水」し領家浄土寺に対し武家代官(間接支配)を廃し浄土寺が直接支配する直務にしてほしいと要求しています。

署名している百姓の多くは苗字もなくたどたどしい字で名前のみ書き略押(○△等)をしています。

この様に団結し「一味神水」する時多くは、村の城に立て籠もり一致結束し事に当ると言われます。

この様な百姓の要求行動は大田庄の正安二年(一三〇〇)「備後国大田庄本郷寺町庄官百姓等申状」や備中国新見庄の寛正二年(一四六一)七月二十六日付「新見庄御百姓等申状」等、百姓側から出された申状が伝わり明らかとなっています。

伝わる文書に依ると水害・早損・虫損等を理由としての減免要求だけでなく領家代官の交代・武家代官の廃止要求もあったようです。中には百姓。地下庄官等が団結し武家代官の入部を阻上し、撤退させたことも有った事が伺えます。

この様な百姓達の行動は、地域による濃淡は有っても地域豪族が国人領主と呼ばれるようになる戦国中期頃まで各地で見られたようです。また、領主地頭が領地経営の基礎とする検注帳(戦国末期に豊臣氏が行った検地とは本質的に異質なもの)作成には、百姓・地下荘官・一分地頭・領主派遣検注使ら全てが同意しなくては検注固めが行えず、検注帳作成が行えなかった。(富澤清人著「中世荘園と検注」より)

年貢・雑公事等徴税の基礎となる検注帳の作成を行うことで「定田」(徴税の対象地)「除田」(徴税対象外地)が決定し徴税が執行できる。

検注帳作成ができないことには年貢・雑公事の徴収が行えない。

この様に中世においては百姓を中心とする一般民衆は上位者から虐げられるというよりも領主クラスを始めとする上位者と時には対等に渡り合っていたと考えられる。

地域の中小豪族たちと一般民衆との係わりはどの様であったか。

戦国末期は別として、一部の国人領主階層を除いて中世期は兵農未分離の時代と言われています。

この様な兵農未分離の時代背景と城館構築は、密接に関係しあって城館は築かれたと考えられます。

それは武士階層の出現の一因でもあると言われます。

一般に地方武士階層の出現を、平安末期から鎌倉政権初期の地方地頭職設置によると解されがちですが、それだけで地域武士の出現現象は説明付け出来ないと考えます。

それは古代班田収受制が崩壊して、変わって興った「荘園制」と深く係わりがあると考えられます。

本格的な武家政権である鎌倉幕府は荘園制を解体することなくむしろ擁護し、幕府経済基盤としていたものと考えられ、このような方針は、足利政権成立後も引き継がれ基本的には、足利政権末期まで経済基盤として続いたと考える。

荘園制地域単位の一つに「郷」が在り郷は百姓層と荘園在地役人による自治が行われていたと言われ百姓層は「年老(年寄)。中臈(中老)・若中」に別れ年老層の指導の下でまとまっていた。また、納税責任を負う「名主(みょうしゅ)」と呼ばれる階層が存在し、かつ多くは年老・下司役(荘園下級役人の総称)を兼帯していたと考えられています。この様な百姓を含む其々の階層が程度の差はあれ武装していた事も判明しており、多くは村々郷々ごとに武装して事に当っていた様である。

この様な階層の中に中世期「地侍」と呼ばれる土豪階層が含まれると言われ「地頭職」の一種一分地頭を兼帯している者もおり、後にはこの中から中小豪族を経て地域豪族に成長していく一族もいたものと考えられる。

次に記載する文書は応仁時代の文書で「山科家礼記」応仁二年六月二十日条であり、中世応仁期に東西対立の間にあって団結し、武力を行使してでも地域を戦乱から守り且つ過分な軍役要求を拒否し、更に加担した勢力に年貢半済を要求して勝ち取ったことを示す文書の一端である。

一、七郷々民野寄合在之酉時、各具足、今度畠山右衛門佐当国守護職可持之由、先度折紙入候也、然間向後其子細被申方々者、不可立入之由候、敵同意在所候者、則押寄可沙汰之旨各申、然共無事実候間退散候、一郷ヨリモ拾人宛可出之由候き、此郷ヨリモ拾人計出候也、各中臈・年老一人也、

と記されておりさらに、

山城国山科七郷々民等事、依無資縁可引退構番云々、連々忠節異于他之上、当所通路肝要之間、以七郷半済為兵粮料被充行郷民等訖、早於大宅里・四宮河原以下所々年貢者、厳密可被加下知之、至替地者追可被望申便宜在所之由、被仰出候也、仍執達如件、
 文明元
  六月六日     為信 在判
           貞基 在判
   山科内蔵頭家雑掌

備後の例ではないが中世期の民衆が一方的に虐げられ搾取されるだけでなく武具を蓄え一定の戦闘を行う力を保持していたことが伺える文書と考える。備後においてもこの様な民衆の意識と力は程度の差は有っても存在その者まで、否定できないものと考える。

備後においての上下関係が確定し、領主層による年貢を始として種々の徴税が一方的に行われるようになるのは、毛利氏が豊臣氏の臣下となり兵農分離が進められた天正十年代以降と考えられる。

以上この様な中世の人々、特に百姓達は領主や権力者に阿る事なく、ある時は集団の力でまたある時は才覚を発揮し、集落・一族等を守り時代を乗り切ろうとする強かな人々である。

中世城館を考察する時この様な人々のあり様を考慮しないと城本来の姿が見えてこないと考える。

戦国最末期までの地域中小土豪は地元にあっては百姓と同等であるとともに上位の豪族層である守護・地頭とは被官関係にあったものと考えられる。

この様な中小土豪は、地元では地区の指導層の一部を担い且つ戦時には指導者として地域住民の安全を図ることが求められていたと考えられる。地域住民は生命財産の安全を自ら守る事と共に、土豪の力も頼りとし、其の見返りとして種々の公事徴収に応じる。

中小豪族と地域民衆とはこの様な関係であったものと考えられる。

この様な地域民衆と土豪との基本的な関係は、土豪たちが国人領主と呼ばれる地域支配者に成長した後も続いたものと考えられる。

以上のような中世特有な時代背景を念頭に置きながら、以下城館に付いて考察してみます。

城館ついては、今まで諸先輩方が各視点から記述されていますが、私は時代別に分けて考えてみたいと思います。それは中世以前の城と中世初期から戦国末期までの城、後一つは戦国末期から近世にかけて機能した城、以上の三タイプに分けられると考えます。

中世以前の城とは、前記しました弥生期の遺跡で環濠を伴う集落遺跡と古代奈良期に築造されたと伝わる朝鮮式山城(岡山県の鬼ノ城も)が相当すると思う。

中世初期から戦国末期までの城に付いては、以下のように分類されると考えます。

一つ目は、多くは各地の山頂もしくは丘陵先端部又は小丘陵全体を使って簡単な防御施設を施した小規模の山城。

二つ目は山麓周辺に立地したと言われる居館とセットで各種の防御施設を構築した大小各種の山城。

三つ目は、多くは戦国末期有力豪族が山頂部に築いた城で、軍事機能に合せて居住可能な機能を備えた城郭。

四つ目は、前の三タイプと重複するところもありますが、明確な目的の基に築かれた城。主として物流、中でも水運流通を監視・管理することを目的とした城。

五つ目は、多くは関東地方で平安末期から武家政権が成立する鎌倉期初めにかけて出現し、備後でも見られる垣・堀を単独又は併用して区画された屋敷、なかには石垣・櫓門を備えたものもあり、この様な屋敷を館と云いこれも中世城館の一形態と云われている。

その他、特別な防御構築物として鎌倉中期、文永・弘安の役の時博多湾岸に築造された「石塁」これも一種の城塞と考えられる。

中世城館は大別し以上の各種に別けられると考えます。

戦国末期から近世の城とは、戦国末期に守護・守護代・国人領主等の中から戦国大名と呼ばれる広域支配者が各地に現れ、彼らが軍事のみならず政治または権威の象徴として、平地または低丘陵地に高石垣造りの城郭を構える様になる。このような状態が徳川政権初期まで続きこの時代に講改築された城郭のことを云う。多くは近世大小名の居城として明治初期廃城令発令まで使われています。

次に中世初期から戦国末期を通じて構築された小規模山城に付いて考察してみます。

広島県が十数年前に調査を行って「広島県中世城館遺跡総合調査報告書」(以下県中世城館調査書と表記)と題して発表されている報告書があります。記載内容は表題の通り中世期、中でも戦国中期以後の山城と考えられる城の記載が大部分を占めています。

県中世城館調査書によると県内には、約千四百ヶ所以上の城館遺跡が確認されており、其の内県中世城館調査書第四集執筆時点で、八十七ヶ所が発掘調査されております。(その後の地域開発行為等により現在ではもっと多くの城館遺跡が発掘調査されていると考えられる。)

以下県中世城館調査書等をも参考にしながら山城を中心に中世以降に築かれた城に付いて記述してみたいと思います。

発掘調査された城跡は大部分が小規模城址で、発掘遺物の多くは戦いに必要な用具よりは、日常生活に密着した用具が多く発掘されていると記載されています。

また各地の山城跡を現地調査してみると人為的に工作した痕跡がほとんど見えず、かすかに堀切らしき跡が伺えるのみで、山上部で削平痕跡が伺えなく緩やかな傾斜、またはなだらかな湾曲を呈するのみの城跡が多くあります。

この様な山城跡と云われる城址の多くは、いわゆる村の城と言われている城ではないでしょうか、防御施設としては、堀切以外の痕跡が見られない事実は堀切が防御施設としての目的だけではなくて、堀切には「結界」の意味合いも含まれ村人にとって「聖地」と「俗地」との境界であると言う事をも表わし含んでいると考えます。

城が戦時の避難だけでなく平時の重要な寄合い等にも使われていた事を表すものと考えられます。

この様な形態の城の多くが前記しました「野寄り合い・村一揆」等に使われた山城と考えます。村の城は神聖な場でありこの場で決められた決まり事は村人にとっては「神聖にして冒すべからず」と云うべき事柄であったものと考えます。

この他村の城に近いものに中規模以下の山城の中に前面・側面は切岸・堀切・竪堀・虎口・土塁・横堀等で堅固な構えを施してはいるが後部は、防御が薄く城の中心部とは異なり簡単な削平を施しただけの平地が続いている城跡が各地にあります。この様な城も一種の村の城もしくは地区の城と呼べるものと考えます。

この様な城は村々の豪族が戦いの時立て籠もる城で有ると同時に支配地の村人が避難する場所でも有ったと考えられます。

即ち中小豪族たちは、戦を勝ち抜くためだけでなく勢力下の村人を戦いから守ることも大事な事であったと考えられます。

豪族たちにとっては、村人を守り抜くことが将来にわたって年貢その他の徴税を円滑に行い得るだけでなく、村人からの信頼を得る事にもつながっていた。

県城館調査書のまとめの項で、毛利氏の居城吉田郡山城でも尼子氏との戦いの時、城下の人々を郡山城内各所に避難させた可能性があると記述されています。

また天正十二年に秀吉と家康が小牧・長久手で戦った時、秀吉方の池田恒興の迂回作戦を家康が察知し、勝利したのも支配地領民の通報によると伝えられています。

支配者と領民の信頼関係を表し伝えるものと考えます。

次に市との関係で考えて見ます。中世十三世紀半ば以降になると各地に、和市と呼ばれる私的な市が出現し、市には物資の集積流通を通して富が集積して行きその富を求めて様々な勢力が食指を伸ばし、自己の勢力下に置こうとします。この様な過程で市場内の有力者が地域豪族と被官関係を結び市の機能を守ろうとします。結果市場周辺に市の有力者、または豪族の館や城が築かれます。

芦田川河口の草戸千軒遺跡調査でも多量の唐銭が発掘されると同時に、かなりな規模の館跡が確認されています。

次に前記の市とも関係する物流、特に川を利用した水運との関係でも城が築かれています。近代的物流システムが出現するまで中近世を通じて、物流の主役は舟運であり特に内陸部においては、川船が主役であったことは広く知られています。

豪族たちにとって、この様な川筋を押さえ舟運を自己の勢力下に組み込むことは、最も重要なことであったと考えられる。

この様な視点で考察すると県東部でも江の川流域を始め各地に川城とも呼べる山城が多く存在する。

最後に足利政権初期に戦闘が行われて以後城として使われずに忘れられた城跡を紹介します。

中世前半までの戦闘においては恒久的な城は一部を除いて構築されず臨時の城を構築し戦闘に用いたと言われております。

備後地方でも足利政権初期の観応の擾乱時に城が在り、戦いを行った事が文書に記述されています。

三吉鼓家文書

   岩松頼宥感状(切紙)
備後國石成上下城退治事、去十三日致軍忠之条、尤神妙、京都殊可注申之状如件
 観応二年八月十五日 頼宥(花押)
  三吉少納言御房

   岩松頼宥感状(切紙)
於備後國在々所々被致忠節上、殊被籠當城勝戸之条、戦功之至、尤以神妙候、至恩賞者最前可申沙汰状如件
 観応二年十月十日  頼宥(花押)

  足利義詮御感御判御教書(切紙)
備後國凶徒退治事、自備前打越當国、於石成河原致忠節云々、尤以神妙也、弥可抽戦功之状如件、   文和元年十二月卅   (義詮)(花押)

三吉覺弁軍忠状
三吉小納言房覺弁申軍忠事
去(文和元)十月自京都御下向之時、令御共以来致忠之処、山名左馬權頭打越備前國取鳥庄之間、被召向陣、仍令在陣刻備後國御敵上椙修理亮以下凶徒等依令蜂起、打越備後、可令御敵等退治之由、自大将御方被仰下之間、同十二月十三日惣領三吉備後守秀経相共馳越備後、同十六日當国岩成上村於石崎河原、致合戦忠節者也、将又同廿八日馳参備前御陣令在陣・矣、
一當年(文和元)正月十日備前国迫山合戦、備前備中両国御方軍勢等打負及難儀之間、大将御懸之時、惣領秀経相共入替依致軍忠、御敵等引退了、同十五日迄千御敵没落之期令在陣、抽忠節之上者、下賜御判、為備向後龜鏡、恐々言上如件、
 文和三年正月 日
      (證判)「(石橋和義ヵ)
               (花押)」

以上、福山市御幸町上岩成正戸から神辺町道の上岩崎周辺に陣城が存在し戦いが行われ且つ、戦いの年月日と場所が判明する文書です。備後古城記の勉強会も終りに近づき執りとめもなく書き連ねてみましたがここらで筆を置きます。