福山南部の干拓における矛盾について(野上新開と福山沖新田)

備陽史探訪:167号」より

田中 伸治

消された福山沖新田の謎に迫る

福山南部における初期の干拓史は、これまで文献の矛盾が放置され極めて曖昧に扱われてきた。これは文献自体が少ないことも然るものながら、研究者が俗説に惑わされ文献を内容を厳密に検証しようとしなかったからである。

その矛盾は野上新開の扱いに端を発している。通説では、これまで築城以前の福山は「芒々たる葭原」であったとされ(福山市史、広島県史)、それまで当地にあった野上という村は城下西部の「古野上」へと移され、沖を埋め立てた「野上新開」へと移され、更にその沖合に「沖野上新開」が開発されたとされてきた。しかし、このストーリーでは「福山沖新田」の存在が問題となった。福山沖新田は寛永20年(1643年)小場家文書に造成を命じ正保4年(1647年)に完成した記載があり、存在が確実な新田である。

ところが、野上新開の築造が築城間もなくの元和9年(1623年)とされるので、時系列的には福山沖新田は野上新開より後に造られなければならない。すると、野上新開と沖野上新開に挟まれて福山沖新田が存在することになり、野上新開→沖野上新開という通説のあるべき姿が崩れてしまう。

この矛盾に対し、小場家文書の研究(小場家文書(上)1974年)では野上新開の位置を入川(港)沿いに四角に形成された狭小な区域に比定することで文献に辻褄を合わせている(図1)。一方、福山市史(1978年)や近年の福山市史地理編(2010年)などでは福山沖新田を記載せず、定説に都合が悪い存在はなかったことにしている。
福山藩土地造成図(干拓の歴史)

しかし、当会機関誌「古文書の語る備後諸山と常興寺顛末記(山城志第15集)」などでも述べられているように、福山城周辺は野上村と呼ばれる中世から続くかなりの大村であったことがわかっている。そして、このことを考慮すれば定説のストーリーにも疑念が生じることになる。すなわち、「野上新開」とは福山城下の沖ではなく、築城以前の旧野上村(古野上)周辺、言い換えれば福山の城下町そのものである可能性を指摘できるのである。すると、福山市史などで野上新開とされてきた場所(「新」野上村)こそが福山沖新田ということになり、文献の新田開発の順番(野上新開→福山沖新田→沖野上新開)に問題はなくなる。

では、この場合、野上新開(城下)と福山沖新田(野上村)の境界(堤防)はどこにあったのだろうか。実は、この境界は江戸時代初期の段階で消滅している。というのは、福山城下を描く最古の地図「正保城絵図」には、城下南部に以後の絵図には描かれない堤防の姿が記入されているのである(図2)。
失われた干拓堤防

正保城絵図は正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作らせた軍事目的の絵図で、その性格上防衛に関する部分の描写(堤防=土塁)は比較的正確だとされている。これによると、芦田川から入川まで現在の国道2号線から200mほど南(中央図書館北端付近)に直線的な堤防が引かれており、その外側に野上村と思われる田畑が描かれている。そして、城下を描いた絵図で次に古いと思われる浅野文庫「諸国古城之図」では、城下と野上村との間の堤防はなくなり、藩主の下屋敷や町人地(道三町)などが描かれている。このことから、城下と野上村の間の堤防は江戸時代初期の段階で消滅し城下に取り込まれたことがわかり、このことが見過ごされたために小場家文書の研究のような強引な比定や、福山沖新田の無視が行われた要因のひとつになったと思われる。

なお、正保城絵図はその名の通り作成年代をかなり厳密に特定でき、先の小場家文書と照らし合わせると、福山沖新田開発中の様子を描いていることになる。これは、図中にすでに野上村の田畑が描かれるのに矛盾するようにも思われるが、新田開発は数年の地盤改良を要するので、土地の造成が終わっている状態だと解釈すれば不自然ではない。あるいは、城下との間の堤防を崩した時点をもって、新田の完成としたのかもしれない。
いずれにしても、消滅した堤防の存在から城下南部初期の新田開発は2段階があったことがわかり、野上新開、福山沖新田の2つ新田の存在と合致する。また、新田の名称と周囲の状況を照らし合わせれば城下部が野上新開、野上村部が福山沖新田と判断するのが合理的といえるだろう。

以上をまとめると、福山城築城以前の旧野上村は福山城から城下西部にかけての「古野上」であり、その周囲に築かれたのが「野上新開」、この野上新開に造られた町が城下町「福山」ということなる。そして、この福山沖に築かれたのが「福山沖新田」であり、ここに旧野上村(古野上)を移したのが「野上村」ということになる(図3)。
筆者の比定する野上新開・福山沖新田

以上の流れが本当に妥当であるかは更に踏み込んだ検証が必要であるが、少なくとも通説とは異なる解釈を成り立つ可能性を指摘できたと思う。それにもかかわらず、研究者が野上新開という名前に固執し野上村の実態を把握しようとしなかったために、あろうことか歴史的事実である福山沖新田の存在が無視されてきたのである。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/66caf9ce37399f5f2a455838389a18f4-1024x556.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/66caf9ce37399f5f2a455838389a18f4-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:167号」より 田中 伸治 消された福山沖新田の謎に迫る 福山南部における初期の干拓史は、これまで文献の矛盾が放置され極めて曖昧に扱われてきた。これは文献自体が少ないことも然るものながら、研究者が俗説に惑わされ文献を内容を厳密に検証しようとしなかったからである。 その矛盾は野上新開の扱いに端を発している。通説では、これまで築城以前の福山は「芒々たる葭原」であったとされ(福山市史、広島県史)、それまで当地にあった野上という村は城下西部の「古野上」へと移され、沖を埋め立てた「野上新開」へと移され、更にその沖合に「沖野上新開」が開発されたとされてきた。しかし、このストーリーでは「福山沖新田」の存在が問題となった。福山沖新田は寛永20年(1643年)小場家文書に造成を命じ正保4年(1647年)に完成した記載があり、存在が確実な新田である。 ところが、野上新開の築造が築城間もなくの元和9年(1623年)とされるので、時系列的には福山沖新田は野上新開より後に造られなければならない。すると、野上新開と沖野上新開に挟まれて福山沖新田が存在することになり、野上新開→沖野上新開という通説のあるべき姿が崩れてしまう。 この矛盾に対し、小場家文書の研究(小場家文書(上)1974年)では野上新開の位置を入川(港)沿いに四角に形成された狭小な区域に比定することで文献に辻褄を合わせている(図1)。一方、福山市史(1978年)や近年の福山市史地理編(2010年)などでは福山沖新田を記載せず、定説に都合が悪い存在はなかったことにしている。 しかし、当会機関誌「古文書の語る備後諸山と常興寺顛末記(山城志第15集)」などでも述べられているように、福山城周辺は野上村と呼ばれる中世から続くかなりの大村であったことがわかっている。そして、このことを考慮すれば定説のストーリーにも疑念が生じることになる。すなわち、「野上新開」とは福山城下の沖ではなく、築城以前の旧野上村(古野上)周辺、言い換えれば福山の城下町そのものである可能性を指摘できるのである。すると、福山市史などで野上新開とされてきた場所(「新」野上村)こそが福山沖新田ということになり、文献の新田開発の順番(野上新開→福山沖新田→沖野上新開)に問題はなくなる。 では、この場合、野上新開(城下)と福山沖新田(野上村)の境界(堤防)はどこにあったのだろうか。実は、この境界は江戸時代初期の段階で消滅している。というのは、福山城下を描く最古の地図「正保城絵図」には、城下南部に以後の絵図には描かれない堤防の姿が記入されているのである(図2)。 正保城絵図は正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作らせた軍事目的の絵図で、その性格上防衛に関する部分の描写(堤防=土塁)は比較的正確だとされている。これによると、芦田川から入川まで現在の国道2号線から200mほど南(中央図書館北端付近)に直線的な堤防が引かれており、その外側に野上村と思われる田畑が描かれている。そして、城下を描いた絵図で次に古いと思われる浅野文庫「諸国古城之図」では、城下と野上村との間の堤防はなくなり、藩主の下屋敷や町人地(道三町)などが描かれている。このことから、城下と野上村の間の堤防は江戸時代初期の段階で消滅し城下に取り込まれたことがわかり、このことが見過ごされたために小場家文書の研究のような強引な比定や、福山沖新田の無視が行われた要因のひとつになったと思われる。 なお、正保城絵図はその名の通り作成年代をかなり厳密に特定でき、先の小場家文書と照らし合わせると、福山沖新田開発中の様子を描いていることになる。これは、図中にすでに野上村の田畑が描かれるのに矛盾するようにも思われるが、新田開発は数年の地盤改良を要するので、土地の造成が終わっている状態だと解釈すれば不自然ではない。あるいは、城下との間の堤防を崩した時点をもって、新田の完成としたのかもしれない。 いずれにしても、消滅した堤防の存在から城下南部初期の新田開発は2段階があったことがわかり、野上新開、福山沖新田の2つ新田の存在と合致する。また、新田の名称と周囲の状況を照らし合わせれば城下部が野上新開、野上村部が福山沖新田と判断するのが合理的といえるだろう。 以上をまとめると、福山城築城以前の旧野上村は福山城から城下西部にかけての「古野上」であり、その周囲に築かれたのが「野上新開」、この野上新開に造られた町が城下町「福山」ということなる。そして、この福山沖に築かれたのが「福山沖新田」であり、ここに旧野上村(古野上)を移したのが「野上村」ということになる(図3)。 以上の流れが本当に妥当であるかは更に踏み込んだ検証が必要であるが、少なくとも通説とは異なる解釈を成り立つ可能性を指摘できたと思う。それにもかかわらず、研究者が野上新開という名前に固執し野上村の実態を把握しようとしなかったために、あろうことか歴史的事実である福山沖新田の存在が無視されてきたのである。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
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