2011年10月01日

備後南部の金融機関の設立と変遷について(福山編)

備陽史探訪:162号」より

岡田 宏一郎

中国銀行福山船町支店の前に建つ福山銀行跡の石碑

中国銀行福山船町支店の前に建つ福山銀行跡の石碑

福山地域で最初の銀行は、明治十七年五月に設立された『鞆銀行』である。当初の資本金は三万円で沼隈郡鞆町に本店を置いた。銀行条例が改正されて「銀行」の商号が採用された備後地方最初の銀行である。

役員は地元の有力者で醤油・味噌の醸造家である林半助が専務取締役となり役員に岡本元四郎や「保命酒」の醸造元である入江豊三郎がなっている。

林家は鞆軽便鉄道の設立や、後の「鞆貯蓄銀行」、「福山銀行」、「広島県農工銀行」の役員にも就任している。明治三十年には資本金を五万円に増資しているが貸出金が常に預金を上回り、鞆軽便鉄道に対しては巨額の資金を引き受けている。大正七年になって、ようやく貸出金過多が解消される。明治三十一年~明治四十二年の配当率は10%を保って安定していた。大正九年の金融恐慌で痛手を被り取り付けを受けたが、芸備銀行福山支店からの資金援助によって立ち直っている。こうしたことから小資本での経営は困難であり、また時代の趨勢との考えによって合併先を模索し、岡山県津山町(現津山市)の「山陽銀行」と合併交渉して大正十五年に合併した。それによって「鞆銀行」は解散して、鞆銀行本店は山陽銀行鞆支店となった。

山陽銀行の前身は、明治十二年設立の津山銀行で山陽銀行を大正十三年に設立している。

なお広島に本店のある芸備銀行との合併も図っていたが、芸備銀行はすでに備後地方に支店や代理店を配置していたため、乗り気ではなかった。一方、岡山県の山陽銀行は備後地方への進出に積極的であり、しかも鞆銀行の林家と山陽銀行の大橋家が親類のため合併が成立したのである。

ところで鞆銀行は明治三十年に資本金三万円で「鞆貯蓄銀行」を設立して、役員は鞆銀行の役員が就任している。この銀行は鞆銀行の貯蓄部門を担当する目的で設立されたものであり営業を始めたが業績は伸びず、今後の発展も望めないために甲奴郡矢野村の素封家である山岡儀助に経営をゆだね「山岡銀行」と商号を変更した。

鞆貯蓄銀行の本店は矢野村に移され鞆貯蓄銀行の役員は辞任した。

中条銀行』(安那郡中条村 現神辺町)は安那郡中条村の県内有数の資産家で地主である金尾廉太郎など金尾一族の資本によって、明治二十七年に資本金は十万円で設立された。本店は中条村に置かれ、当初は農民を主な対象とした銀行であった。支店は福山と府中に設置されたが、明治二十九年には広島支店を開設し、中条銀行の貯蓄部門とした『山陽貯蓄銀行』を中条銀行広島支店内に置いた。

しかし中条銀行の広島支店と府中支店の営業成績は悪く、三十二年に閉店した。

日露戦争後の好景気の影響は農村での取引が中心であったため、影響も少なく業績も伸び悩み悪化し、深安郡千田村の資産家桑田三郎助が中条銀行の営業を引き受けた。

中条銀行は「桑田銀行」と商号を改め、本店を深安郡福山町に置いて明治四十四年に営業を開始した。

一方の「山陽貯蓄銀行」(明治二十九年設立)は中条銀行の役員が就任し資本金五万円で設立され金尾隆平が就任している。本店は広島市に置き、中条・福山・府中の支店は中条銀行の店舗を使っていた。広島市に本店を設置した理由として、その頃「福山貯蓄銀行」の設立予定があったことが考えられるが、広島には『広島貯蓄銀行』と『尾道貯蓄銀行広島支店』が営業していたので苦戦を強いられた。そのため、呉支店(明治二十九年)、明治三十九年には山口県柳井支店(現柳井市)、明治四十一年には西条支店を置き営業している。

ところが日露戦争後、地価が暴騰したが、その後地価が下落し土地購入のために多額の融資をしていたため資金回収が不能となり、取り付けを受けて休業した。その後、大正三年に再開したが役員や債権者間で対立が続き、結局大正八年に解散した。

「桑田銀行」の役員は桑田一族によって占められていたが、桑田家は県内第三位の多額納税者で、大正十三年には第六位の大地主であった。

桑田銀行は明治四十四年に鞆町に、また千田村横尾に支店を開業している。明治四十四年に中条銀行を引き継いだ時の預金は三十一万三千円で、貸出金は三十二万六千円であったが、大正五年~六年ごろ業績が悪化し、第一次大戦の好況で立ち直った。

大正十四年には預金百九十七万九千円と営業成績も最高となった。しかし小資本の銀行では今後の先行きが困難との認識によって、備後地域への進出を図っていた岡山県津山町の「山陽銀行」との合併協議が行われて大正十五年に合併となった。こうして桑田銀行の店舗は山陽銀行の支店となった。合併によって松永の金江村に金江出張所を設置している。

福山銀行』(深津郡福山町船町)は、明治二十九年四月船町に設立され六月に開業した。当初の資本金は三十万円で、役員の持ち株数は二千三百株のうち38%を占めていた。

取締役会長には藤井与一右衛門、専務取締役に河相三郎、斜森保兵衛などが就任している。

福山は新開地造成によって米・麦、綿花、イ草、綿布、染物、畳表、手工業など特産品が発達していたが、尾道や広島に比べて銀行設立が出遅れていた理由として、尾道の第六十六国立銀行福山支店の強い営業力と第六十六国立銀行に福山の藤井与一右衛門や斜森保兵衛らが参画しており、さらに明治十二年に福山綿商会が設立され金銭貸付など銀行類似会社と明治二十二年に「福山為替会社」が営業していたと考えられる。

このような銀行類似会社の営業活動によって、福山では銀行設立が遅れたのである。

福山銀行の営業成績は順調に伸びていったが、明治三十四年から三十五年の織物不況により福山紡績が破綻し

福山紡績会社力有スル莫大ナル債務ハ牽連シテ忽チ当銀行ニ存続ニ関スルカノ如ク事実ヲ捏造シテ針小棒大ニ喧伝スルニ至り・・・・

これによって九万円の不良債権を出したことにより資本金を十八万円に減資して対応した。

福山銀行債権上大ナル損失ヲ生シ為メニ株主総会ニ於テ種種協議上其損失ヲ補充スルニハ資本ヲ減額シ是マテノ積立金トヲ以テ此場合整理スルコトニナリ所謂減資ニテ・・・・

その後順調に営業成績を伸ばして、明治四十四年には船町の別の場所に本店を新築移転して資本金も五十万円に増資をし、大正八年には資本金百万円に増資していて、大正~昭和元年までは8%~9%の配当率を維持するまでに回復した。

しかし、その後昭和元年には貸付金が預金を上回り資金繰りが苦しくなっている。そのため合併先を探すことになった。昭和二年に岡山市の「第一合同銀行」と合併して解散した。第一合同銀行は津山町の山陽銀行と備後地域での営業で対抗していたので福山銀行との合併話はうまく成立した。

これより前、明治二十九年に福山銀行では資本金五万円で、同じ役員が『福山貯蓄銀行』を開設している。これは小口の貯蓄金を集める目的で設立されたものである。だが大正七年に取り付けにあって経営が破綻した。

その後再建が図られて倉敷銀行の貯蓄部門と合併し「合同貯蓄銀行」と名前を改め、本店を岡山市に移して営業を始めている。

岡山の第一合同銀行は、昭和五年に津山町の山陽銀行と合併して『中国銀行』となる。こうした歴史的経過があることで、備後南部に岡山資本の中国銀行が強い営業力と地場銀行としての存在力を持っているのである。

第一合同銀行の設立以来使用していた岡山市下之町の本店は、旧丸善呉服店跡を買収して改造した木造三階建ての古風な建物であったので、昭和二年に三階建ての新本店を完成させた。当初の計画では実用を主眼とした8階建てであったが中央の監督官庁の理解と許可が得られず3階建てにやむなく変更した。中国銀行の店舗は、金融機関らしく石造り風の風格と重厚な建築で統一されているのが特徴である。

芦品銀行』(芦品郡新市村)明治三十一年に新市村(現福山市新市町)で開業されたのが芦品銀行である。品治郡江良村の卜部陸太、芦田郡国府村の橘高松太郎など地元の有力者により、資本金五万円で設立、開業された。新市地域は木綿作りが盛んで文久元年に富田久三郎によって備後絣の技法が開発され、備後絣の業者を中心にした取引金融機関としての役割を果たすために設立された銀行であった。

業績は絣産業の好況によって順調に業績を伸ばしていった。明治四十三年には新市町に新本店を新築・移転している。順調だった芦品銀行も昭和二年の金融恐慌で取引銀行であった大阪の近江銀行が休業したことをうけ、貸付過多の営業であったために大きな痛手を受け休業となった。内部整理や他銀行との合併を模索したが、結局昭和六年に解散した。

最後に、備後北部の地場銀行について簡単に経過を紹介する。

備後北部は農村地域であり、銀行設立の多くは大地主や酒などの醸造業者が設立の中心者であった。銀行名は『備後地区銀行分布図』を見てもらうとよく分かる。

「備後地区の銀行分布図」

「備後地区の銀行分布図」

(ふるさとの銀行物語〔備後編〕より)

芦品郡府中町に『備後銀行』が設立されたのは、明治三十二年である。昭和四年に「尾道・世羅・山岡」の三銀行が合併して『備南銀行』が成立したが。この時も合併反対を貫いている。しかし、昭和九年芸備銀行へ営業権を譲渡して閉鎖された。

上下町には『角倉銀行』(明治四十五年設立、大正九年に芸備銀行設立に参加)『山岡銀行』(尾道銀行・世羅銀行と三行が合併し天領地として経済力のあった上下町には「共同成章社」(明治三十三年解散)があった。甲山町には『世羅銀行』(明治三十一年設立)があったが、備南銀行設立で解散。

吉舎町には『双三貯蓄銀行』があった。(明治三十三年設立 大正九年県内七銀行合同による芸備銀行設立に参加) 東城町には『東城銀行』(明治三十一年設立 昭和四年解散)があった。

庄原町では明治三十二年『田部銀行』が設立されたが、大正元年比婆銀行が設立されると営業権を比婆銀行に譲渡し解散した。この『比婆銀行』も大正九年『芸備銀行』設立に参加することで解散した。

三次町には『三次貯蓄銀行』(明治三十年設立 大正九年芸備銀行設立に参加)『二次銀行』(大正十年設立昭和二十年「(新)芸備銀行」設立で解散した。)があった。

昭和二十年には、政府の「一県一行政策」により五銀行が合併し、「(新)芸備銀行」が発足した。こうして明治四十五年には五十九行あった銀行は整理・統合によって県内に本店を持つ地方銀行は一銀行のみとなる。その後、芸備銀行は昭和二十五年に名称を広島銀行に変え現在も存続している。(なお第二地方銀行である「もみじ銀行」は別である)

三次町にあったもう一行は『和田銀行』で、明治二十二年設立の「福山為替株式会社」として開業されたが、双三郡三原村の大地主である和田一族が権利を買い取り「和田銀行」と商号変更し、大正元年に開業した。大正十一年には『三次実業銀行』と改称した。

備北の四銀行は「芸備銀行」設立に参加したが、和田銀行は合併に参加しなかった。

そのことが、後の経営悪化に対して小資本の苦杯をなめ、遂に芸備銀行に本店を売却した。現在は、広島銀行十日市市支店となっている。

備後西部の三原町(現三原市)には『三原銀行』があり(明治三十一年設立 明治四十二年西備銀行設立で解散)、そのほか『勤勉貯蓄銀行』(明治三十三年設立 西備銀行設立により解散)と『西備銀行』があった。西備銀行(明治四十一年設立)は、放漫経営で大正五年、裁判所から破産宣告を受けて大正九年に解散した。なお明治二十九年には岡山県浅口郡阿賀崎村の玉島銀行が三原支店を開業しているので西備銀行三原支店が三原町の金融業務を引き継いでいる。その玉島銀行も大正十二年に第一合同銀行合併して、その後中国銀行になる。こうしたことから三原市の金庫受託業務は中国銀行になっている。

ここでなぜ金融機関を「銀行」と云われるようになったのか?これについて興味深い話が「広島銀行創業百年史」に載っている。

それによると、渋沢栄一は回顧の中で、つぎのように言っている

・・・・第一亜米利加の原名(ナショナルバンク)は余り長すぎる『ナショナル』と言ふは国と言ふことだ。『バンク』と言ふのは金を取扱ふ場所だ。それには何かよい名はないか。・・・さて何と言ふ名にしたらよからうと大いに困却して彼の学者此の先生と種々相談の上『行』と言ふ、字体は・・・・商店に用ふる字だ。『ナショナル』と言ふは国と言ふ事なれども、国の一字では熟語とならぬから、国立としやう。又金行と言ふも妙でないから、銀行としやうと言ふので、終り国立銀行と言ふ名が生まれて来たのであります・・・・

(『龍門雑誌』第89号)

こうして「ナショナルバンク」の訳語として「国立銀行」という名称が定められた。(国立銀行の名称であるが、国営銀行ではない。株主が有限責任を持つ株式会社として設立されたものである。)

これは「銀行」という訳語が、わが国の法規の上に用いられた最初で、以後これが普及するに至った。

今も国立銀行当時の名が残っているものとして、新潟の「第四銀行」、岐阜の「十六銀行」、長崎の「十八銀行」、仙台の「七十七銀行」、津の「百五銀行」、高松の「百十四銀行」である。(その後、名称変更や合併などによって消えたものがあるかもしれない)

中国銀行の名称が生まれた経過について、次のような話が「中国銀行五十年史」に書かれていた。銀行の合併は大蔵省の強力な指導と内外の情勢によって合併気運が高まり、昭和五年、両行(第一合同銀行と山陽銀行)の幹部を東京によび合併を説得し少数の幹部で進められた。

合併で困ったのが新銀行の名称で、容易に結論が出ず、君島一郎日本銀行岡山支店長は大蔵大臣の井上準之助から『大臣さんから頼みがあった新銀行はどういう名前をつけるか、お前が名前を選んでみろ』といわれ、考えながら銀行に帰った。山陽銀行と第一合同銀行との合併であるが、普通は山陽合同銀行にすると、山陽が合同の上に立ち大原さんは承知しないし、第一山陽では山陽側に難色がある。そこで五つの名前を書き封筒に入れ、井上さんに見せた。上の二つは消し、三つ目の「中国銀行」に○をつけ、『これがいい』と言った。

この名称は地元では評判が良かった。

中国銀行の沿革を見ると、山陽銀行系と第一銀行系の二つに大別できる。

山陽銀行(大正13年設立)は21余りの中小銀行を合併していて、そのうち広島県内の銀行は三行で、香川県内の銀行を二行合併している。

一方、第一合同銀行の流れを汲む最も古い銀行は「第八十六国立銀行」(明治8年設立)で、次いで「明十銀行」(明治13年設立)である。その後34余りの銀行が大正十年代から昭和二年ごろに、大正八年設立の第一合同銀行に合併している。

そのうち、広島県内の銀行は西原銀行(尾道 明治30年設立)など三行で香川県の銀行も三行ある。ここで普通銀行と銀行類似会社について簡単にふれてみる。

普通銀行

政府は当初、国立銀行以外の銀行を認めず、明治六年五月には「私ニ銀行トシテ相唱候儀一切不成」と銀行私唱を禁上いたが、九年八月に国立銀行条例を改正した後、私立銀行の設立を容認した。

銀行類似会社

県内では、明治二十年代後半まで普通銀行は設立されなかった。銀行類似の金融機能になっていたものは、船問屋や両替・為替店や新しく生まれた商社などであった。「広島県統計書』によれば「綿商会」(広島)、「諸品会社」(尾道)、「繰綿改会社」(福山深津町)など合計15ほどあった。

引用及び参考文献

「ふるさとの銀行物語[備後編]」
「福山市史」
「中国銀行五十年史」
「広島銀行創業百年史」
「広島県史近代I通史V」
「広島県史近現代資料編Ⅱ」

「旧福山銀行跡」碑

「旧福山銀行跡」碑

ここ船町に福山銀行本店あり、のち中国銀行船町支店になる。
現在跡地はマンションが建てられ石碑が建てられている。かつて、この附近には多くの銀行が集中していた。

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