志川滝山合戦と芋原の大スキ(伝説と茨城説・陣城説)

備陽史探訪:150号」より

田口 義之

芋原

芋原の大スキ

福山市の北郊、加茂町北山に「芋原」という、高原上の集落がある。

福山の駅前からだと、国道2号線から、国道182号線に入り、加茂町の「東城別」辺りで右折し、山野町へ向かう。以前だと、山越えの上り坂の手前で左折し芋原へ上ったものだが、今は県営の「四川ダム」が完成し、ダムから綺麗な舗装道路が集落に伸びている。

そこは吉備高原の南端に営まれた高原の村だ。標高三百メートル、東西七百メートル南北五百メートルの楕円形のなだらかな地形がひろがり、「縁」から下は、絶壁上に平野部に落ち込んでいる。

南に緩やかに傾斜した村は日当たりもよく、家々の回りに広がる畑はよく肥え、春夏秋冬、緑の絶えることはない。人々の暮らしも豊かで、ここ半世紀、戸数も七〇戸前後でほとんど変わっていない。

この高原上の村にはじめて足を踏み入れたのは、今から四半世紀前の昭和五九年の冬のことであった。発足して間もない備陽史探訪の会で、芋原地区の史跡巡りを行うことになり、その調査のため訪れたのが最初であった。

調査は、地名や言い伝えを手がかりに、繰り返して行い、成果は翌年二月、備陽史探訪の会三月例会で発表し、好評を得た。

芋原の史跡めぐりで、一番関心を引いたのは、「大スキ」であった。

「大スキ」は、この芋原集落の周囲をめぐる大規模な空堀の遺構で、興味深い伝説が伝わっている。

ここには、昔大人(おおひと)がいて、牛に鋤を引かせた。そして芋原の南の辺りで石にひっかかって力を入れたら、そこの土が神辺の山王山へ飛んでいった(だから芋原の土と山王山の土は同じなんじゃ)」

また、この大スキの跡は夜「魔物」が通る道だから、子どもは決して近づいてはならぬとも言われている。

かつては、この大スキの跡は集落全体を取り巻いていたらしいが、開墾や道路工事などで失われ、現存するのはごく一部だ。芋原は公民館や郵便局がある辺りが中心地で、その背後の「土井」と呼ばれる岡の北側に「大スキ」が残っている。岡のてっぺんの平らになったところから、一〇メートルくらい下がったところが幅五メートル、深さ一メートルほどに削られ、東西に一〇〇メートルほど続いている。

以前、「大スキ」は奈良時代の記録に出て来る古代山城「茨城」ではないか、と述べたことがある。だが、今は、天文二一年(1552)七月に、付近で行われた「志川滝山合戦」に関連した「陣城」の跡ではないかと思っている。

戦国時代の土木技術は我々が想像する以上に高かった。軍勢が一夜にして空堀をめぐらせた陣地を造る等珍しいことではなかった。

志川滝山合戦

芋原の「大スキ」に関連すると考えられる志川滝山合戦は戦国備後の悼尾を飾った大合戦であった。

時は天文二十一年(1552)、備後地方は中国山脈を越えて南下する尼子勢と、隣国安芸を統一して備後を窺おうとする毛利勢が激突する動乱の渦のなかにあった。

天文十年(1541)の吉田郡山合戦の敗北は、それまで膨張の一途をたどってきた尼子氏にとって大きな痛手となった。代わって頭角を現したのは安芸の毛利元就であった。毛利氏は大内氏とともに尼子に味方した神辺城主山名理興を「神辺七年の合戦」で出雲に追うと、備後はほぼ大内氏の勢力下に入り、戦いの干戈は人々から遠退いた。

ところが、天文二十年(1551)九月の陶晴賢の「下剋上」は、平穏な芸備の山野を一転して戦乱の増蝸に投げ込んだ。大内義隆の滅亡により、尼子晴久こそ中国地方の安定勢力と認めた京都の将軍足利義輝は、翌天文二十一年四月、晴久を備後など八カ国の「守護職」に任じたのである。

晴久は将軍の御教書を錦の御旗に、備後や安芸の諸城主を味方に誘った。陶氏の下剋上によって大内氏の領国に不安が広がっていただけに、この将軍の御教書は威力を発揮した。最初に晴久の激に応じたのは、宮氏であった。

宮氏は、「備後殿」と敬称され、備後で抜きん出た勢力を誇っていたが、毛利元就の攻撃目標とされ、備後南部の足場をほとんど失っていた。宮氏が毛利氏との決戦のために築いたのが、芋原から西南に深い谷を隔てて聳える志川滝山城であった。

この城は、前面は絶壁状に谷に落ち込み人を寄せ付けないが、背後は尾根続きとなり、尾根道が宮氏の本拠備後内郡の奴賀、神石方面に続いている。

宮氏挙兵の動きは天文二十一年の春先には陶氏や毛利氏の知るところとなった。陶晴賢の書状は言う、

雲州衆今に上回在陣の由其の聞こえ候 彼の一味中、備後外内郡境目に至り、武略を成す儀も之あるべく候か 自然の儀に於いては方々申し談ぜられ てだて相催さるべき由元就に対して申し遣わし候

(萩藩閥閲録百四、湯浅権兵衛文書)

まことに切迫した状況であった。尼子勢は「上回」つまり備中方面に在陣して味方を募っている。そして、尼子に味方した宮氏が備後内郡と外郡の境目辺りで、挙兵の準備をしている。「自然の儀(もしもの儀)」があれば、毛利元就の指示にしたがって、出陣して欲しい…。

備後を「内郡」と「外郡」に三分する呼称は戦国時代特有のもので、神石・奴賀・恵蘇・三上・三吉・三谷の諸郡が内郡、安那・品治・深津・芦田・沼隈の沿岸部諸郡を外郡と呼んだ。神石郡から山一つ越えた芋原辺りは、正に「外内郡境目」に当たる。備北から南下した宮氏の軍勢は、ここで合戦の準備をしていたに違いない。

宮氏の挙兵

備後外内郡「境目」に於ける宮氏の動きが表面化したのは、天文二十一年(1522)六月のことであった。陶晴賢は芸備の味方国人衆に指令を出した。

備後の境目の動きの儀、江良丹後守を差し上せられ候 一死就と相談あり馳走肝要たるべき旨直書なされ候猶房栄申すべく候 恐々謹言

(閥閲録百四等)

宮氏の旗揚げが確実となった。腹心の江良房秀を派遣するので、毛利元就の指示に従って兵を出して欲しい、詳しいことは房栄が伝達するはず…。

問題は、この尼子に呼応して志川滝山城で挙兵した宮氏である。「備後古城記」等の郷土史書は、宮越後入道光音、或いはその子下総守光寄が宮一族を糾合して立て籠もつたとするが、果たしてそうなのか…。

私は、郷土史書が述べる志川滝山合戦の粗筋は大いに疑間があると思っている。「西備名区」は言う

備後国志川滝山の城主宮常陸守(下総守とも)光寄は、父入道光音が、天文三年の亀寿山合戦で宮氏が降伏した時、共に毛利氏に降伏して幼少の主元範を預かっていたが、この年(天文二十一年)、一族などを集めて軍議して、再び亀寿山の城を取り返そうと兵を集めたところ、毛利氏の知るところとなって、元就が三千八百の兵を率いて当城に攻め寄せ合戦となった…

亀寿山合戦の虚実は置くとして、天文末年の備南の状況は、宮光音、光寄父子が幼主を擁して平穏に志川滝山城に居城できるような情勢ではないし、「光音、光寄」父子も実在を証明するような史料は一切残されていない。

備後南部での宮氏の活動は、天文十七年(1548)の「宮次郎左衛門尉要害の落去」(毛利家文書)によって一つの区切りを迎える。以後、天文二十一年の志川滝山合戦を除いて、庶家の有地氏の動きが見られる以外、「宮氏」の活躍は途絶える。

さらに、天文十七年、大内、毛利勢と戦って敗れた「宮次郎左衛門尉」も、今まで言われてきた備南の宮氏ではなく、庄原市東部の西城、東城から南下した宮氏であった可能性が出て来た。「備後古城記」安那郡中条村の城主として宮次郎左衛門景盛、東右衛門の名が書き上げられているが、宮景盛は西城大富山城第三代の城主であるし、東右衛門も景盛の家老、西城八鳥蟻腰城主東氏のことである。今まで備後南部の宮氏と備北西城。東城の宮氏を別物として考えることが多かったが、両者は本来同じ一族と考えるべきなのだ。

西城東城の宮氏は備後の最奥部にあって尼子氏との関係は密接であった。宮景盛の妻は「尼子新宮党」として恐れられた尼子誠久の娘と伝え、新宮党が元就の謀略で滅ぼされた時、誠久の忘れ形見勝久が乳母に抱かれて東城の徳雲寺に逃れてきたのは、宮氏の保護があったればこそであった。

大スキは宮氏の陣

城志川滝山合戦は、天文二十一年(1522)七月二十三日に行われ、毛利氏が勝って、宮氏の勢力は大きく後退した。

合戦は、滝山城西方の高地を占めた毛利勢が、城の弱点であった、西側の尾根続き(これを城の尾首という)を攻撃し、宮氏も防戦に努めたが、三上新三郎や渡辺長らの突撃によって城壁は突破され、城兵は雪崩をうって逃亡し、城はあっけなく落城した。

滝山城の弱点は西方尾根続きで、地形的に見て、その攻略方法は、西方からの攻撃以外にありえなかったであろう。問題は、今芋原に残る大規模な空堀(芋原の大スキ)は、一体宮、毛利どちらの陣営によって築かれたか、だ。

最初に、毛利氏の場合を考えてみよう。

毛利勢が、芋原に布陣するルートは二つある。 一つは、大内氏の拠点であった神辺城から加茂谷を遡って、粟根から芋原に上るコース。もう一つは既に味方となっていた神石郡小畠(神石高原町)の馬屋原氏の勢力圏から南下し、尾根筋に芋原に出るコースだ。

だが、いずれも当時の情勢からして難しいのではないか…。先ず神辺から北上するコースだが、陶晴賢のクーデターで神辺城が陶氏の支配下に入ったかどうかが問題だ。それにこのコースは、志川滝山城が東南を正面としていることから、宮氏の想定通りとなり、元就がそうした月並みな作戦を取ったかどうか。北から南下して芋原に着陣する場合も、滝山城の築かれた尾根筋を越えて行かねばならず、そんな面倒なことを元就がしたかどうか…。合戦は七月二十三日一日で決着しており、元就は一気に接近して勝負をつけたと考えた方がいい。

いずれにしても、宮氏側に立つと、芋原を敵に占領された場合は、勝ち目はなくなるわけで、ここを放置したとは考えにくい。芋原に残る大規模な空堀の遺構(芋原の大スキ)は、宮氏側によって築かれたと考えるべきであろう。

『西備名区』は巻三六安那郡北山村のところで、志川滝山城の次に「滝山の出城」を挙げ、宮常陸守景次、同 越後守景春、宮越後守景久が居城し、

瀧山宮一族、瀧山落城の時降参し、後、永禄年中、杉原盛重の為に攻められ、父子討死落去すという

と記している、或いはこの記述が「大スキ」に関する唯一つの伝聞資料かも知れない。芋原に立つと、西南側に谷一つ隔てて、滝山城の山が黒々と横たわっている。指呼の間といって良い。宮氏は芋原で合戦の準備を行い、その詰の城として滝山城を築いたのではないだろうか。そして、宮氏の主力が合戦に参加する間もなく、元就の急襲によって城は落ち、宮氏再挙の夢ははかなく散った。

真実を知っているはずの兵たちの奥城(おくつき)は、今も芋原の人々を見守りながら静かに眠っている。

石塔群

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1994/05/78b5890639b3fe92b0c3df249bfc08e3.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1994/05/78b5890639b3fe92b0c3df249bfc08e3-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:150号」より 田口 義之 芋原の大スキ 福山市の北郊、加茂町北山に「芋原」という、高原上の集落がある。 福山の駅前からだと、国道2号線から、国道182号線に入り、加茂町の「東城別」辺りで右折し、山野町へ向かう。以前だと、山越えの上り坂の手前で左折し芋原へ上ったものだが、今は県営の「四川ダム」が完成し、ダムから綺麗な舗装道路が集落に伸びている。 そこは吉備高原の南端に営まれた高原の村だ。標高三百メートル、東西七百メートル南北五百メートルの楕円形のなだらかな地形がひろがり、「縁」から下は、絶壁上に平野部に落ち込んでいる。 南に緩やかに傾斜した村は日当たりもよく、家々の回りに広がる畑はよく肥え、春夏秋冬、緑の絶えることはない。人々の暮らしも豊かで、ここ半世紀、戸数も七〇戸前後でほとんど変わっていない。 この高原上の村にはじめて足を踏み入れたのは、今から四半世紀前の昭和五九年の冬のことであった。発足して間もない備陽史探訪の会で、芋原地区の史跡巡りを行うことになり、その調査のため訪れたのが最初であった。 調査は、地名や言い伝えを手がかりに、繰り返して行い、成果は翌年二月、備陽史探訪の会三月例会で発表し、好評を得た。 芋原の史跡めぐりで、一番関心を引いたのは、「大スキ」であった。 「大スキ」は、この芋原集落の周囲をめぐる大規模な空堀の遺構で、興味深い伝説が伝わっている。 ここには、昔大人(おおひと)がいて、牛に鋤を引かせた。そして芋原の南の辺りで石にひっかかって力を入れたら、そこの土が神辺の山王山へ飛んでいった(だから芋原の土と山王山の土は同じなんじゃ)」 また、この大スキの跡は夜「魔物」が通る道だから、子どもは決して近づいてはならぬとも言われている。 かつては、この大スキの跡は集落全体を取り巻いていたらしいが、開墾や道路工事などで失われ、現存するのはごく一部だ。芋原は公民館や郵便局がある辺りが中心地で、その背後の「土井」と呼ばれる岡の北側に「大スキ」が残っている。岡のてっぺんの平らになったところから、一〇メートルくらい下がったところが幅五メートル、深さ一メートルほどに削られ、東西に一〇〇メートルほど続いている。 以前、「大スキ」は奈良時代の記録に出て来る古代山城「茨城」ではないか、と述べたことがある。だが、今は、天文二一年(1552)七月に、付近で行われた「志川滝山合戦」に関連した「陣城」の跡ではないかと思っている。 戦国時代の土木技術は我々が想像する以上に高かった。軍勢が一夜にして空堀をめぐらせた陣地を造る等珍しいことではなかった。 志川滝山合戦 芋原の「大スキ」に関連すると考えられる志川滝山合戦は戦国備後の悼尾を飾った大合戦であった。 時は天文二十一年(1552)、備後地方は中国山脈を越えて南下する尼子勢と、隣国安芸を統一して備後を窺おうとする毛利勢が激突する動乱の渦のなかにあった。 天文十年(1541)の吉田郡山合戦の敗北は、それまで膨張の一途をたどってきた尼子氏にとって大きな痛手となった。代わって頭角を現したのは安芸の毛利元就であった。毛利氏は大内氏とともに尼子に味方した神辺城主山名理興を「神辺七年の合戦」で出雲に追うと、備後はほぼ大内氏の勢力下に入り、戦いの干戈は人々から遠退いた。 ところが、天文二十年(1551)九月の陶晴賢の「下剋上」は、平穏な芸備の山野を一転して戦乱の増蝸に投げ込んだ。大内義隆の滅亡により、尼子晴久こそ中国地方の安定勢力と認めた京都の将軍足利義輝は、翌天文二十一年四月、晴久を備後など八カ国の「守護職」に任じたのである。 晴久は将軍の御教書を錦の御旗に、備後や安芸の諸城主を味方に誘った。陶氏の下剋上によって大内氏の領国に不安が広がっていただけに、この将軍の御教書は威力を発揮した。最初に晴久の激に応じたのは、宮氏であった。 宮氏は、「備後殿」と敬称され、備後で抜きん出た勢力を誇っていたが、毛利元就の攻撃目標とされ、備後南部の足場をほとんど失っていた。宮氏が毛利氏との決戦のために築いたのが、芋原から西南に深い谷を隔てて聳える志川滝山城であった。 この城は、前面は絶壁状に谷に落ち込み人を寄せ付けないが、背後は尾根続きとなり、尾根道が宮氏の本拠備後内郡の奴賀、神石方面に続いている。 宮氏挙兵の動きは天文二十一年の春先には陶氏や毛利氏の知るところとなった。陶晴賢の書状は言う、 雲州衆今に上回在陣の由其の聞こえ候 彼の一味中、備後外内郡境目に至り、武略を成す儀も之あるべく候か 自然の儀に於いては方々申し談ぜられ てだて相催さるべき由元就に対して申し遣わし候 (萩藩閥閲録百四、湯浅権兵衛文書) まことに切迫した状況であった。尼子勢は「上回」つまり備中方面に在陣して味方を募っている。そして、尼子に味方した宮氏が備後内郡と外郡の境目辺りで、挙兵の準備をしている。「自然の儀(もしもの儀)」があれば、毛利元就の指示にしたがって、出陣して欲しい…。 備後を「内郡」と「外郡」に三分する呼称は戦国時代特有のもので、神石・奴賀・恵蘇・三上・三吉・三谷の諸郡が内郡、安那・品治・深津・芦田・沼隈の沿岸部諸郡を外郡と呼んだ。神石郡から山一つ越えた芋原辺りは、正に「外内郡境目」に当たる。備北から南下した宮氏の軍勢は、ここで合戦の準備をしていたに違いない。 宮氏の挙兵 備後外内郡「境目」に於ける宮氏の動きが表面化したのは、天文二十一年(1522)六月のことであった。陶晴賢は芸備の味方国人衆に指令を出した。 備後の境目の動きの儀、江良丹後守を差し上せられ候 一死就と相談あり馳走肝要たるべき旨直書なされ候猶房栄申すべく候 恐々謹言 (閥閲録百四等) 宮氏の旗揚げが確実となった。腹心の江良房秀を派遣するので、毛利元就の指示に従って兵を出して欲しい、詳しいことは房栄が伝達するはず…。 問題は、この尼子に呼応して志川滝山城で挙兵した宮氏である。「備後古城記」等の郷土史書は、宮越後入道光音、或いはその子下総守光寄が宮一族を糾合して立て籠もつたとするが、果たしてそうなのか…。 私は、郷土史書が述べる志川滝山合戦の粗筋は大いに疑間があると思っている。「西備名区」は言う 備後国志川滝山の城主宮常陸守(下総守とも)光寄は、父入道光音が、天文三年の亀寿山合戦で宮氏が降伏した時、共に毛利氏に降伏して幼少の主元範を預かっていたが、この年(天文二十一年)、一族などを集めて軍議して、再び亀寿山の城を取り返そうと兵を集めたところ、毛利氏の知るところとなって、元就が三千八百の兵を率いて当城に攻め寄せ合戦となった… 亀寿山合戦の虚実は置くとして、天文末年の備南の状況は、宮光音、光寄父子が幼主を擁して平穏に志川滝山城に居城できるような情勢ではないし、「光音、光寄」父子も実在を証明するような史料は一切残されていない。 備後南部での宮氏の活動は、天文十七年(1548)の「宮次郎左衛門尉要害の落去」(毛利家文書)によって一つの区切りを迎える。以後、天文二十一年の志川滝山合戦を除いて、庶家の有地氏の動きが見られる以外、「宮氏」の活躍は途絶える。 さらに、天文十七年、大内、毛利勢と戦って敗れた「宮次郎左衛門尉」も、今まで言われてきた備南の宮氏ではなく、庄原市東部の西城、東城から南下した宮氏であった可能性が出て来た。「備後古城記」安那郡中条村の城主として宮次郎左衛門景盛、東右衛門の名が書き上げられているが、宮景盛は西城大富山城第三代の城主であるし、東右衛門も景盛の家老、西城八鳥蟻腰城主東氏のことである。今まで備後南部の宮氏と備北西城。東城の宮氏を別物として考えることが多かったが、両者は本来同じ一族と考えるべきなのだ。 西城東城の宮氏は備後の最奥部にあって尼子氏との関係は密接であった。宮景盛の妻は「尼子新宮党」として恐れられた尼子誠久の娘と伝え、新宮党が元就の謀略で滅ぼされた時、誠久の忘れ形見勝久が乳母に抱かれて東城の徳雲寺に逃れてきたのは、宮氏の保護があったればこそであった。 大スキは宮氏の陣 城志川滝山合戦は、天文二十一年(1522)七月二十三日に行われ、毛利氏が勝って、宮氏の勢力は大きく後退した。 合戦は、滝山城西方の高地を占めた毛利勢が、城の弱点であった、西側の尾根続き(これを城の尾首という)を攻撃し、宮氏も防戦に努めたが、三上新三郎や渡辺長らの突撃によって城壁は突破され、城兵は雪崩をうって逃亡し、城はあっけなく落城した。 滝山城の弱点は西方尾根続きで、地形的に見て、その攻略方法は、西方からの攻撃以外にありえなかったであろう。問題は、今芋原に残る大規模な空堀(芋原の大スキ)は、一体宮、毛利どちらの陣営によって築かれたか、だ。 最初に、毛利氏の場合を考えてみよう。 毛利勢が、芋原に布陣するルートは二つある。 一つは、大内氏の拠点であった神辺城から加茂谷を遡って、粟根から芋原に上るコース。もう一つは既に味方となっていた神石郡小畠(神石高原町)の馬屋原氏の勢力圏から南下し、尾根筋に芋原に出るコースだ。 だが、いずれも当時の情勢からして難しいのではないか…。先ず神辺から北上するコースだが、陶晴賢のクーデターで神辺城が陶氏の支配下に入ったかどうかが問題だ。それにこのコースは、志川滝山城が東南を正面としていることから、宮氏の想定通りとなり、元就がそうした月並みな作戦を取ったかどうか。北から南下して芋原に着陣する場合も、滝山城の築かれた尾根筋を越えて行かねばならず、そんな面倒なことを元就がしたかどうか…。合戦は七月二十三日一日で決着しており、元就は一気に接近して勝負をつけたと考えた方がいい。 いずれにしても、宮氏側に立つと、芋原を敵に占領された場合は、勝ち目はなくなるわけで、ここを放置したとは考えにくい。芋原に残る大規模な空堀の遺構(芋原の大スキ)は、宮氏側によって築かれたと考えるべきであろう。 『西備名区』は巻三六安那郡北山村のところで、志川滝山城の次に「滝山の出城」を挙げ、宮常陸守景次、同 越後守景春、宮越後守景久が居城し、 瀧山宮一族、瀧山落城の時降参し、後、永禄年中、杉原盛重の為に攻められ、父子討死落去すという と記している、或いはこの記述が「大スキ」に関する唯一つの伝聞資料かも知れない。芋原に立つと、西南側に谷一つ隔てて、滝山城の山が黒々と横たわっている。指呼の間といって良い。宮氏は芋原で合戦の準備を行い、その詰の城として滝山城を築いたのではないだろうか。そして、宮氏の主力が合戦に参加する間もなく、元就の急襲によって城は落ち、宮氏再挙の夢ははかなく散った。 真実を知っているはずの兵たちの奥城(おくつき)は、今も芋原の人々を見守りながら静かに眠っている。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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