備陽史探訪:133号」より

堤 勝義

尾道

一、はじめに

広島県内では、現在浄土宗西山(せいざん)派の寺院数は、きわめて少ないが、尾道には、中世以来の浄土宗西山派の寺院が隣接して三ヶ寺ある。

持光寺、光明寺、宝土寺の三ヶ寺である。浄土宗は、法然が創唱したものである。法然の弟子には、浄土真宗を開創した親鸞を始めとして、多くの弟子がいた。

法然の弟子の中でも、高弟であった一人に証空がいた。証空は、久我氏の出身であったことからか、法然一門が流罪になった時にも、流罪とはならなかった。

証空は、京都の西山に居住したことから、西山派といつ派を創始した。

証空は、法然の考えを引き継いで、行を否定して、「念仏のみが往生の正因となるのであって、諸行は、往生の正因とはならない。念仏を唱えて、往生することができるのは、阿弥陀仏がすでに誓願をして仏となっているので、衆生の往生は、もうすでに保障をされているのである。衆生は、それを知らないので迷っているのであって、その事を理解して、深く信じて念仏をすれば、すなわち往生できるのである。」と説いた(要約)。

今日の浄土宗の多くは、鎮西(ちんぜい)派に属している。鎮西というのは、鎮西派を創始した聖光坊弁長が九州の出身であったからである。弁長の出身にちなんで、鎮西派というのである。

鎮西派の考えを、かいつまんで要約すると、「念仏に深く帰依して、往生を願う行であれば、往生もできる。」と言うもので、念仏を深く信じていれば、行を否定はしていないのである。これが、西山派と鎮西派の違いである。

最初は、浄土宗西山派が優勢であったが、徐々に鎮西派が勢力を伸ばしていき、知恩院を押さえてからは、いよいよ、その勢力範囲が広がっていったのである。

特に鎮西派にとって、弁長上人の後に、良忠上人が出て、布教範囲を拡大していったのが、大きなことであった。

今日、浄土宗西山派は、浄土宗西山禅林寺派(京都禅林寺=永観堂ともいう)、西山深草派(京都誓願寺)、西山浄土派(長岡京市光明寺)に分派している。

ちなみに、鎮西派の寺院としては、総本山は京都の知恩院、そして有名寺院としては、東京の増上寺、京都の金戒光明寺(幕末に新撰組がいたところ)、鎌倉の光明寺、長野の善光寺等がある。

二、尾道の浄土宗西山派寺院

(1)持光寺

寺伝によると、承和年間(八三四~八四八)天台宗として、持光上人によって創建されたという。寺名を日輪山天禅寺と号したという。

足利義満の時代の永徳二年(一三八二)に、空頓上人により改宗して、浄土宗寺院になったという。

国宝の絹本著色普賢延命像の墨書銘には、「延命像仁平三年四月十一日供養」とあり、仁平三年(一一五三)の年代は、天台宗時代のものであり、天台宗時代のものと思われる(仏像等は寺院から寺院に移動する場合があるので)。

(2)光明寺

光明寺の寺伝によると、承和年間(八三四~八四七)に、天台宗として創建されたという。
建武三年(一三二六)二月足利尊氏が西下のとき、尊氏の従軍僧であった道宗上人が、今川貞世とともに後詰めとして、この寺に来て、当時の住持であった智海上人を助けて、光明寺を再興して、浄土宗寺院に改宗したという。

光明寺の棟札には、「延元元年三月二日本願主道宗・勧進沙門智海」により再興されたという。

光明寺は、貴重な文化財を多く有している。

重要美術品である「金銅聖観音像」奈良時代のものというが、飛鳥仏の様相をとどめている。像高は、小さなものであるが、ふくよかな像容で、ガンダーラ美術との融合がみてとれる仏像である。実にみばえの良いものである。

重要文化財の本尊「木造千手観音立像」は、寺伝では、因島村上氏の宿老格であった宮地氏の一族であったという、向島余崎城主の島居資長が寄進したという。別名を「浪分け観音」とも呼ばれている。

県重要文化財の「善光寺式阿弥陀三尊像」は、本殿に安置されている。これは、元は、光明寺の塔頭(たっちゅう)にあったというが、善光寺聖(ひじり)が、背中におぶって、各地をまわるのに丁度よい大きさのもので塔頭に安置される以前は、実際に背中におぶってまわったものであろう。

鞆の安国寺(元は金宝寺)のものは、巨大な善光寺式の阿弥陀三尊像であるが、光明寺のものは、実用的なものである。

これら三体の内、国宝級の二体は収蔵庫に収納されているが、公開されているので、実際に拝仏させてもらってよいのではないだろうか。他にも多数の文化財を所有している。

(3)宝土寺

嘉慶元年(一三八七)に融海の創建で、平田氏が本堂を建立したという。
宝土寺には、古い鐘があり、鐘銘には「大日本国備後州御調郡栗原保尾道之浦御所崎宝土寺 信心大檀那信吉 長享三己酉年仲住持融稟」とある。

長享三年(一四八九)だから、融海の創建から、約百年程経ってから作られたものである。

宝土寺の鐘銘から、わかることは、鐘が作られた頃には、中央貴族の中原氏の管理する大炊領内の栗原保の御所崎内にあったことである。

創建時の本堂を建立した平田氏は、尾道の富商であったと考えられるが、鐘を寄進した橘信吉は、大炊寮領栗原保の関係者であったと考えられる。大炊寮領の管理者であった中原氏は、「師守記」を書き残していて、栗原保のことも散見されていて、概略だが、栗原保内の様相が理解出来るのである。

後に、因島村上氏(実際は伯方島が拠点であったが)の宿老格になる宮地氏は、大炊寮領の有力な関係者であった。また、宮地明光は熱烈なる仏通寺の一笑禅慶(愚中周及なき後、仏通寺を支えた一人)の信奉者でもあった。

宝土寺の鐘銘によると「大日本国備後州…略…」とあるが、鞆の時宗寺院であった沖御堂(現在の本願寺)が、かつて所有していて、現在は、加古川市の龍泉寺(浄土宗)が所有している「当麻曼荼羅図」の旧の軸木に書かれている「大日本国備後州…略…」の地名が一致しているので、一般的には、「大日本国備後州」と呼ばれていたことがわかる。

仏像や仏画は、ひとつ所にいることはなく、売買されたりして、移動することもあることが、わかるのである。

もし、旧の軸木が残っていなかったら、龍泉寺に最初からあったものと、考えられる可能性もあり、平安時代の仏像があるからといつて、時代(寺院の創建年代)の断定をする場合には、充分なる検討が必要となるのである。

三、おわりに

尾道の浄土宗西山派の寺院の創建年代を古い順に並べてみると、一三三六年創建の光明寺、一三八二年の持光寺、 一三八七年の宝土寺となる。

日本の歴史年表から見てみると、一三三六年五月に、足利尊氏が楠木正成を破っている。同年には、後醍醐天皇が吉野に逃れて、十一月に室町幕府が成立している。光明寺の創建は、丁度、この時代に該当をする。

一三六八年に、足利義満が三代将軍となっている。そして、一三九四年には、義満が義持に、四代将軍職を譲って、後見役となっている。この時代に、持光寺、宝土寺が創建されている。

浄土宗西山派の三ヶ寺ともに、隣接していて、栗原保御所崎内に創建されたもので、十四世紀に集中している。

特に、中原氏は北朝方であったことで、そのことと、西山派三ヶ寺の創建が関係あるのかもわからない。また、各寺に、国宝級の美術品、仏像があることも特徴的なことである。余談であるが、私は今、『中世瀬戸内海の宗教』―村上水軍の本拠地芸予諸島―の原稿を執筆中で三百枚程清書しているところです。この原稿は、執筆中の内から、ごくごく一部を抜き出して、わかりやすく書いたものです。

前々著の『中世瀬戸内の仏教諸宗派』これは、京都の出版社から、千部出したものですが、現在は売り切れたようで、広島の吉本屋で、定価二千円の本が、三千六百円程で売られているので、書いたものとして、びっくりしているのです。余談はこれくらいにしといて、浄土宗西山派にかえりまして、現在は、三ヶ寺ともに、西山禅林寺派に属していますが、光明寺につきましては、拝仏ができますので、時間があいていましたら、一度訪ねてみて下さい。国の重要美術品や重要文化財の仏像を拝仏できます。