備陽史探訪:127号」より

小林 定市

福山城

慶応四年(一八六八)一月三日、旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍が鳥羽・伏見で衝突してから戊辰戦争にと波及した。鳥羽・伏見の戦いは瀬戸内海上交通の要所、鞆を領有している譜代福山藩にも直接影響を与え、福山藩は長州軍に向背を問われ交戦後に、軍使を派遣して「和平を成立させた」と、『福山市史』『広島県史』の両書は結論付けているが、残された文書から歴史の真実を読み解きたい。

一方長州側に残されている、福山城攻略戦を記した『防長回天史』に依ると、「軍使石川文兵衛(後の関藤藤陰)は諸老臣と謀り戦いを収め平服出でて降を請う」と福山藩が休戦の申し出を行い、石川文兵衛の敵陣派遣会談目的は、矢止め仮降伏から福山城内本会談に向けての予備会談としている。

通説として伝えられてきた和平説が正しかったのか、それとも長州軍の「福山藩降伏説」が誤りであったのか検証が必要となってくる。薩長勤皇軍は福山その他の譜代藩を「幕領総て征伐没収地」と定めており、福山藩は長州に対しては最初から降参交渉を行なっておりながら、函館遠征以後は勤皇を強調すると同時に和議説を浮上させたのではなかろうか。

日本の為政者は先の太平洋戦争に於いて、敗戦の言葉を好まず終戦を用いているように、昔から勝利は大きく喧伝しても、痛みと責任を伴い面目を失う敗戦は糊塗したかったのであろう。幸いな事に慶応四年一月九日に長州軍と福山藩で交わした書状が、山口と福山に伝えられており、双方の文書内容は一致している。用いる史料は、慶応四年一月九日と十日の記録を主に採用する。

長州軍の京都本隊と、尾道の福山攻撃別働隊の連絡は緊密で、鳥羽・伏見の戦いから四日経過した一月七日には、京都と山口の連絡係を務めていた桂太郎(後の陸軍大将・陸軍大臣・内閣総理大臣)が帰国の徒次尾道の屯所西国寺に立ち寄り、別働隊の総督堅田大和・参謀杉孫七郎・兵隊長井上典四郎・鋭武隊長〈一大隊三百二十五人〉堀真三郎・整武隊長森清蔵等と会談して、京都での戦勝を伝え福山攻撃の準備を促させた。更に翌八日にも京都より井上聞多(後の井上馨・外相・元老)が尾道に到着して、福山藩攻撃の朝命を伝えると同時に攻撃軍幹部の一員になった。

福山攻略の目的は、山陽道で敵対する譜代大名を滅ぼし、東上する兵員の後顧の憂いを無くするための交通権の確保が急務となっていた。尾道で攻撃の手筈を調えた長州軍と首脳は、八日夜尾道を進発して今津に入り先遣隊と帯同して、夜半に元福山に住んでいた医師を道案内人として山陽道を通り津之郷村の分岐路から佐波村に進み神島村に進出した。

当時福山藩は福山城を守る目的で、領内の主要街道の四ヶ所(今津・神辺・府中・水呑)に郷兵訓練所を設け兵備の増強を図っていた。郷兵は農民や猟師が集められ銃剣術等の軍事教練が行なわれていた。現在まで解明されていなかった水呑郷兵訓練所は、福山~鞆街道間の芦田川南方の洗谷(旧鞆軽便鉄道妙見駅一帯)に設けられ、水呑口と呼称されていた。同所に所属していた郷兵は百八十人の規模となっていた。同所は福山城の南約三kmの地点に立地し、福山城に最も近距離な訓練所で城の防衛には最も重要な位置にあった。今津に進出していた長州の先遣隊は、福山城防衛水呑口拠点の情報を入手していたようである。

『水呑町史』に依り、長州軍と福山藩が洗谷で会談していたことが判明した。長州軍東上開始の情報が伝わると、福山藩は福山防衛の拠点水呑口や藩校誠之館を簡単に放棄して篭城したのである。神島村から南下した長州軍の本隊は、労せずして水呑口を入手し本営を設けている。本営を設置の事由は明らかでないが、戦闘が長期化した場合尾道・鞆の二方面からの補給が容易で、増援部隊と共同作戦を樹て易い利点が着目されたようである。

玉島の『守安亀太郎日記』に見られる、徳助なる人物が書いた慶応四年一月十日の書状には、次のような戦況が記されていた。九日朝五時ごろ長州兵七拾余人は神島村から道三口(山田街道)の関門に至り、番人の藩士を斬殺して市中に進出した。また別の一隊は鞆街道の「水呑日から百人余り長州兵攻め来たり入る」。との記載があり長州軍は山田・鞆の二街道を通って城下町に進出していた。後続の砲兵隊は神島村から本庄村に至り、真言宗圓照寺の参道に臼砲陣地を構築した。

長州軍は合戦に先立ち、下記の開戦通知書

今般上國(帝都)に於いて、薩芸土並に幣國(長州)より兼て守衛として差し出だし置き候人数へ対し、徳川氏より戦争相始め候處、畢竟去る卯冬天朝より仰せ出だされ候王政御復古の儀相妨げ候旨の意、即ち朝敵と存じ候、然る處貴藩は従来徳川氏と君臣の御儀これ有る事故、飽く迄存亡を共に成され候は勿論に付き、勤皇の諸藩申し合わせ兵馬を差し向け候間、御用意成さるべく候、以上。
 戊辰正月九日
  長州各中福山御家老中様

を福山藩に送りつけた。

この通知書に対する福山藩家老からの返書は、「弊藩(福山)は従来徳川氏と君臣の儀これあり候事故、飽く迄存亡を共に致すは勿論に付き」と、譜代藩として徳川氏と運命を共にする姿勢を崩さなかった。しかし「勤皇の軍勢や帝王の軍隊へは弓を引かない」と、中立的に立場を強調して態度を曖味にした。勤皇方に参加を表明しない福山藩の返書に対し、長州藩は満足せず合戦の火蓋が切られた。

長州軍は福山城防御の弱点は、濠の無い城北八幡山搦手と狙いをつけ攻撃を開始した。しかし、福山藩でも準備は怠り無く塹壕を掘り銃撃隊を待機させていた。先頭を進んでいた整武隊森清蔵配下の小倉衛門介が率いる三番小隊と、同所の塹壕にいた福山銃撃隊との間で銃撃戦が始まり、整武隊の山本新八・大賀庄之助・高井友之進・山本五郎・田中三郎・児島佐一郎(後に死亡)と六名の負傷兵を出した。

長州軍が福山城攻略戦用に準備していた大砲は、堅固な陣城攻撃用の砲で大重量の弾丸が発射できる曲射砲の臼砲であった。本庄村の臼砲部隊が福山城天守台を狙って狙撃を開始すると、砲弾は天守閣の初層西側の窓格子に命中した。幸い砲弾は不発弾で大事に到らなかったが、次に飛来した砲弾も天守閣の南角を掠めた。臼砲攻撃が継続されると、天守閣・櫓・御殿が何時炎上するか知れない事態となった。戦闘は近代砲撃戦に突入し、所有兵器の優劣がその侭彼我の戦況に反映し長州勢の立場は大優勢となった。

城中の家老並びに兵達は、敵方の強烈な砲撃に驚くと同時に戦力差をまざまざと見せ付けられた。城は完全に封鎖包囲され、臼砲弾から逃れる手段が無くなり、篭城兵は勝利の女神から見放されてしまったのである。活路の出口を塞がれ援軍の見込みが無くなった城内では、今後の対応策を巡って主戦派と自重派が激論を展開した様であるが、結局自重勤皇派の意見が通り降伏も致し方無しとする苦渋の決断が下されたようである。

そこで使者を長州軍本営のある水呑口に派遣することになり、正使は二十五才の三浦燐雄、副使は老練で困難に耐え交渉才能を発揮した六十一歳の石川文兵衛であった。会談場所は水呑口近くのお菊茶屋で、石川文兵衛が主に発言して会談を成功に導いたらしく、三浦燐雄は会談の推移を見守り発言しなかったのか長州は記載していない。

予備会談に続いて本格会談は城中で行なわれた。長州側からの出席者は杉孫七郎・井上聞多・堀真三郎・森清蔵と部下の隊士が城に入り、交渉の結果纏まったのが下記の福山藩が提出した誓約書である。

此の度朝命を奉られ、御兵馬を御差し向けに成され候所、王政御復古の御折柄、一藩の持論全く大義滅親の儀ニ一決、朝命を一途ニ遵奉仕り候趣意申し述べ、御人数御引揚げニ相成り候、然る上ハ以後朝命奉戴候儀は、彌相励み申すべき事、
 慶応四年戊辰正月九日
  佐原作右衛門(印)(福山藩重役)他八名連印
  杉孫七郎殿、他三名

と。数時間の戦闘で、福山藩の方針は徳川氏を攻撃する勤皇軍に大変換したのである。

会談の結果に付いて、四幹部は「城に入り老臣等と相見て降伏条件を定め其の誓約書を徴し兵を収め今津に退く」と記している。会談に列席していなかった堅田大和と井上典四郎は、城外で待機している兵士の指揮に当たっていたようである。戦いを終えた長州軍は九日夜今津に一泊して尾道に引揚げた。

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