豊松村有賀の「五輪塔」について(伝内藤実豊墓)

備陽史探訪:118号」より

出内 博都

探訪レポート

中世の山城研究に極めて関連の深い石造遺物の中で、一般的によく知られているのが五輪塔だろう。五輪塔は仏教の字宙観を表した地・水・火・風・空の五つの元素から形成されている。これが五輪塔の形として現れるのは、密教の教えによるところであり、その起源は中国である。

しかし、それを五輪塔として立体的に具象化したのはわが国であり、中国や朝鮮ではまだ塔としての遺品は発見されていない。五輪塔の各部の形態は、上から宝珠は円形、請花は半円形、笠は三角形、塔心を円形、基礎は方形であるのが一般的である。五輪塔は本来大日如来を供養したものとして造られたが、次第に墓標として用いられるようになり、十五~十六世紀になると殆んどの宗派に用いられた。その分布は全国にゆきわたり最も広範囲に親しまれる石塔で、中世文化の栄えた足跡をとらえる手がかりとなるものである。

五輪塔の最大のものは京都府綴喜郡八幡町にあるもので、高さ約六メートルのものは別として、一般に鎌倉期のものは一メートルをこす大型のものが多い。時代が降るにしたがつて次第に小型化し始め、室町時代に入ると数十センチの小型のものが数多く造られるようになる。この時代になると個人の造立が多くなり、その趣旨も逆修(生きてるうちに死後の冥福を祈って仏事・造塔などする)の目的をもつものから、やがて墓標としての性格を強くするようになる。室町末期になると全体を一つの石で作る「一石五輪塔」という一段と小型簡略化したものも出現した。五輪塔の一般的造立はなお慶長年間ころまで続くが、江戸時代に入ると急減する。江戸時代には五輪塔は僧侶や武家の墓として特殊化されたのもある。

このたび豊松村山城調査に関連して、新庄山城の山麓の有賀地区の横山邸の一角にある一群の五輪塔群のなかに、すばらしい二基の五輪塔を見て驚いた。二十基を越す群小塔の中で、全長一一〇センチ・水輪直径三十五センチ。円周一一〇センチ、他を圧する塔婆に驚いた。結晶石灰岩(通称コゴメ石)のため風化が激しく厳密正確な計測はできないが、塔心に当たる水輪の横張りのしっかりした角ばった球形で安定感と雄大感がある。火輪(笠)の軒反りは平均してゆるく反る形(芯そり)と思われる。屋根勾配の流れは穏やかで反りは大きくない。軒口の切りかたは風化して分からないが屋根全体は古式の雰囲気をもっている。請花と宝珠は全体として円形に近く、宝珠の突起は殆んど目立たず古い型に属する。年号の入った塔でもそれぞれの個性があり、年代の様式を画一することはむずかしい、この塔が年代的に何時のものか断定は難しいが、私が今までに見た何百という神石郡内の室町塔にはない感慨をうけた。鎌倉末期。南北朝あたりのものと思いたい。

この塔のある場所が、鎌倉幕府滅亡に関連する元弘の乱(一三三三年)に関係する内藤実豊が居城したと伝える「新庄山城」の麓地区になるので、従来から実豊の墓(供養塔)という伝承もある。実豊云々は別としても、十四世紀初頭に地方土豪自立の一つの拠点であった豊松地方の歴史の一端を物語る記念碑の一つとして保存したいものである。
豊松村有賀の五輪塔

 
https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/6f1d7dca9ec9c8dcba9fc3a7050043c1.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/6f1d7dca9ec9c8dcba9fc3a7050043c1-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:118号」より 出内 博都 探訪レポート 中世の山城研究に極めて関連の深い石造遺物の中で、一般的によく知られているのが五輪塔だろう。五輪塔は仏教の字宙観を表した地・水・火・風・空の五つの元素から形成されている。これが五輪塔の形として現れるのは、密教の教えによるところであり、その起源は中国である。 しかし、それを五輪塔として立体的に具象化したのはわが国であり、中国や朝鮮ではまだ塔としての遺品は発見されていない。五輪塔の各部の形態は、上から宝珠は円形、請花は半円形、笠は三角形、塔心を円形、基礎は方形であるのが一般的である。五輪塔は本来大日如来を供養したものとして造られたが、次第に墓標として用いられるようになり、十五~十六世紀になると殆んどの宗派に用いられた。その分布は全国にゆきわたり最も広範囲に親しまれる石塔で、中世文化の栄えた足跡をとらえる手がかりとなるものである。 五輪塔の最大のものは京都府綴喜郡八幡町にあるもので、高さ約六メートルのものは別として、一般に鎌倉期のものは一メートルをこす大型のものが多い。時代が降るにしたがつて次第に小型化し始め、室町時代に入ると数十センチの小型のものが数多く造られるようになる。この時代になると個人の造立が多くなり、その趣旨も逆修(生きてるうちに死後の冥福を祈って仏事・造塔などする)の目的をもつものから、やがて墓標としての性格を強くするようになる。室町末期になると全体を一つの石で作る「一石五輪塔」という一段と小型簡略化したものも出現した。五輪塔の一般的造立はなお慶長年間ころまで続くが、江戸時代に入ると急減する。江戸時代には五輪塔は僧侶や武家の墓として特殊化されたのもある。 このたび豊松村山城調査に関連して、新庄山城の山麓の有賀地区の横山邸の一角にある一群の五輪塔群のなかに、すばらしい二基の五輪塔を見て驚いた。二十基を越す群小塔の中で、全長一一〇センチ・水輪直径三十五センチ。円周一一〇センチ、他を圧する塔婆に驚いた。結晶石灰岩(通称コゴメ石)のため風化が激しく厳密正確な計測はできないが、塔心に当たる水輪の横張りのしっかりした角ばった球形で安定感と雄大感がある。火輪(笠)の軒反りは平均してゆるく反る形(芯そり)と思われる。屋根勾配の流れは穏やかで反りは大きくない。軒口の切りかたは風化して分からないが屋根全体は古式の雰囲気をもっている。請花と宝珠は全体として円形に近く、宝珠の突起は殆んど目立たず古い型に属する。年号の入った塔でもそれぞれの個性があり、年代の様式を画一することはむずかしい、この塔が年代的に何時のものか断定は難しいが、私が今までに見た何百という神石郡内の室町塔にはない感慨をうけた。鎌倉末期。南北朝あたりのものと思いたい。 この塔のある場所が、鎌倉幕府滅亡に関連する元弘の乱(一三三三年)に関係する内藤実豊が居城したと伝える「新庄山城」の麓地区になるので、従来から実豊の墓(供養塔)という伝承もある。実豊云々は別としても、十四世紀初頭に地方土豪自立の一つの拠点であった豊松地方の歴史の一端を物語る記念碑の一つとして保存したいものである。  備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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